日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブランキ派」の意味・わかりやすい解説
ブランキ派
ぶらんきは
ブランキを師と仰ぐフランス社会主義者の党派。ブランキストともいう。すでに1860年代、獄中のブランキの指導を受けて、2000ないし3000人からなる革命を志す青年の組織が存在していたらしい。秘密結社の形態によって非合法活動を行ったこの組織の詳細は不明であるが、出身者には、パリ・コミューンの際に指導的役割を果たした者が多い。コミューンの敗北後、生き残った活動家の多くはロンドンに亡命し、「革命的コミューン」と称する結社を設立したが、80年の大赦によるフランス帰還ののち、81年のブランキの死を契機に「中央革命委員会」を結成した。これは秘密結社ではなかったが、ブランキ直系のグランジェ、ユードらを領袖(りょうしゅう)として、独裁的な革命権力の樹立を目標とする閉鎖的な少数精鋭集団であったから、革命を最終目標としつつも、同時に大衆的な運動を通して議会に進出し、労働者の生活条件の改善を図ろうとしたバイヤンとの間に亀裂(きれつ)を生んだ。
ブランキ直系のグループは、1889年、第三共和政に危機をもたらしたブーランジェ事件では、ブーランジェ将軍支持を表明するとともに「革命的社会主義中央委員会」を結成して分離。残留グループは、バイヤンの指導のもとに徐々に議会政党化し、98年「革命的社会党」と改称、1902年「フランス労働党」との合体ののち、05年に統一社会党に加わった。大革命以来のパリ民衆の蜂起(ほうき)の伝統を継承、理論よりも行動を重視して、アルマーヌ派と並んで労働組合運動に優秀な活動家を提供した。
[相良匡俊]