パリコミューン(その他表記)Commune de Paris

デジタル大辞泉 「パリコミューン」の意味・読み・例文・類語

パリ‐コミューン(Paris Commune)

1871年3月18日から5月28日までの72日間、普仏戦争敗北後のパリで、労働者階級を主とする民衆によって樹立された世界最初の社会主義政権。パリ各区から選出された代議員によってコミューン自治政府)を組織したが、プロイセン軍の支援を受けた政府軍と「血の一週間」といわれる大激戦ののち崩壊。

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精選版 日本国語大辞典 「パリコミューン」の意味・読み・例文・類語

パリ‐コミューン

  1. ( [英語] Paris Commune ) 一八七一年三月一八日から五月二八日までの七二日間、パリに成立した労働者階級を主体とする革命政権。普仏戦争に敗北後、小市民・労働者による国民軍が、臨時政府・議会に対抗して、パリ各区から選出された代議員によりコミューン(自治政府)を組織、民衆の生活を守るための政策を打ち出したが、理論的にも組織的にも統一を欠き、軍事的弱点もあって政府軍との大戦闘(血の週間)の後、崩壊した。

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改訂新版 世界大百科事典 「パリコミューン」の意味・わかりやすい解説

パリ・コミューン
Commune de Paris

狭義には1871年3月18日から5月28日に至る間,パリに樹立されたコミューン議会を指すが,広義にはこれを生み出した運動を指す。19世紀最大の都市反乱で,フランス革命に始まるパリの革命運動の頂点をなすとともに,以後の世界各国の革命や社会主義運動に多大な影響を及ぼした。なお,フランス革命期に成立した革命政権もパリ・コミューンと称されるが,これについては〈フランス革命〉の項目を参照されたい。

パリ・コミューン樹立にいたる運動の出発点は,第二帝政末期の反帝政運動にある。帝政末期に労働運動が高揚し,各地でストライキが頻発するとともに,労働者の組織化が進められていった。この運動で中心的役割を果たしたのが国際労働者協会(第一インターナショナル)のパリ支部であった。とくに1868年にパリ支部の指導部が,それまでのトランらの相互主義者から,バルランらの集産主義者へと転換するとともに,ストライキ支援と労働者の組織化を積極的に推進していき,反帝政運動の一つの大きな潮流をなした。これに対し政府は3回にわたる弾圧をもってこたえた。このような状況の中で,労働者自身による労働者の解放を目ざす集産主義者collectivisteたちは,社会革命実現のためには帝政の打倒が先決であるとし,急進派と同盟するにいたった。他方,民衆次元で反帝政運動の核になったのが公開集会であった。パリの各地区,とくに労働者街では毎晩のように公開の集会が開かれ,そこでさまざまな問題が論じられ,民衆の意識と行動の核が徐々に形成されていった。インターナショナルの会員やブランキストL.A.ブランキ)もこれらの集会に積極的に介入した。のちのプロイセン軍による包囲下のパリの民衆運動の活動家やコミューンに選出される議員の大半は,これらの集会で頭角を現した人々であった。

 反帝政運動の激化を前にして,政府はその矛先をそらすため,70年7月プロイセンに宣戦布告したが,ナポレオン3世はスダンでプロイセン軍に捕らえられた。その知らせがパリに届くや,9月4日パリは蜂起し,帝政を打倒,臨時国防政府を樹立して共和政を宣言した。他方,パリは9月18日からプロイセン軍によって包囲され,パリ民衆は外国軍隊の侵入によって危機に瀕した共和国を救わねばならなかった。こういう状況の中でフランス革命期のパリ・コミューンのイメージがパリ民衆の中に蘇生し,反帝政運動はパリ・コミューンという形に収斂していった。

 9月4日から翌71年3月18日のコミューン蜂起に至る時期は,一方における既存の社会秩序=構造の崩壊と,他方における下からの社会の再構造化の過程としてとらえられる。すなわち,パリの革命化を恐れプロイセンとの和平を欲していた国防政府は,パリ民衆の徹底抗戦の要求の前にしだいに統治能力を喪失し,パリの各地区において既存の権力が機能しなくなるとともに,それにかわって各地区の民衆の直接民主制に基づく局地的権力が形成されていったのである。

 9月4日以後の民衆運動の核になったのは,国民軍とさまざまな政治クラブであった。国民軍は,9月初めには60大隊であったが,同月末には260大隊まで増加した。このため多くの民衆が武装されることになった。これらの国民軍の中でも革命的な大隊は独自の行動をとり,とくにフランス軍の敗北の知らせがパリに到達するたびに国防政府打倒の武装蜂起を繰り返した(10月31日事件,1月22日事件)。他方,パリの各地区でクラブや共和主義委員会あるいは監視委員会といった名称のもとに,民衆の自発的組織が形成され,各地区の民衆の活動の拠点となっていった。国民軍兵士もこれらのクラブや委員会に出入りしていた。やがて各区の代表よりなる全20区共和主義中央委員会が結成され,包囲下のパリ全体の民衆運動の中核となった。中央委員会は,最初は共和国防衛のため国防政府を支持していたが,やがて国防政府に徹底抗戦の意志がないと知るや,71年1月6日国防政府打倒のため蜂起を訴えた。しかし,この呼びかけに対し民衆は行動を起こさず失敗した。これ以後中央委員会は中心的役割を演じることをやめた。

 1月28日プロイセンとの間に休戦協定が締結されるとともに状況は変化し,憲法制定のための国民議会選挙が中心的問題となる。2月8日の選挙の結果,王党派が議会の多数を占めた。議会はティエールに行動権をゆだねるとともに,次々とパリの共和主義的・愛国的願望を打ち砕く決定を行った。国民軍兵士の日当の廃止や家賃と満期手形支払猶予の停止は,労働者のみならずプチ・ブルジョアをも窮地に陥らせ,また2月26日の仮講和条約の締結と3月1日のプロイセン軍のパリ入城は,彼らに深い屈辱を与えた。このような状況を前にして,国民軍は3月10日中央委員会を結成して,共和国を死守するという宣言を発した。これは,武装したパリが,普通選挙によって合法的に成立した議会を否定したことを意味したのであり,ここに内乱は不可避となった。

3月18日早朝,パリの武装解除を目的として政府軍がモンマルトルとベルビルの国民軍の大砲を奪取する作戦を展開したが,地区の民衆によって阻止され,その知らせが広がるや国民軍を中心に各地区で次々と蜂起が起こった。この蜂起は国民軍中央委員会によって計画されたものではなかったが,18日夕にはパリの権力は中央委員会の掌中に帰した。パリは解放され,民衆の直接民主制に基づく局地的権力によって再組織された新たな社会が表面に現れたのである。民衆はそれを〈祝祭〉という形で表現した。3月26日にはコミューン議会の選挙が実施され,28日には市庁舎でコミューン樹立の宣言が発せられた。コミューン議会は,最終的には81名の議員によって構成された。彼らの平均年齢は38歳で,その構成をみると,中産階級出身者が約18名,自由業が約30名,労働者ないしは労働者出身が約35名を数えた。約半数の40名ほどがなんらかの形で労働運動に関係しており,その多くはインターナショナルの会員であった。ブランキストは12名ほど,ジャコバン派はわずかであった。党派はもちろんイデオロギー的な分類は,この時代にあってはそれほど明確なものではないが,圧倒的に労働者を代表していることは確かである。コミューンは〈代議体ではなく,執行権であって同時に立法権を兼ねた行動体〉(マルクス《フランスの内乱》1871)であり,行政は九つの委員会とそれらを指導し調整する執行委員会によって担われた。

早くも4月2日に政府軍はパリ攻撃を開始した。しかし,内戦という状況下では最も重要なコミューンの軍事指導は,当初から混乱していた。国民軍中央委員会は,権力をコミューンに返還したにもかかわらず,国民軍兵士の指導・監督権を保持し,しばしばコミューンの軍事代表と対立した。コミューン議会においても,さまざまな党派が対立し,このような状況に有効に対応できなかった。4月末にジャコバン派のミヨが公安委員会の設置を提案したとき,ついにコミューンはそれを支持する多数派と反対する少数派に分裂した。5月1日公安委員会が設置されたが,結局ほとんど有効には機能しなかった。

 他方,コミューンの社会立法は,革命的というよりは改良的なものであった。家賃支払いの延期や満期手形の無利子・分割払いあるいは公設質屋の抵当物件の売却停止などが当座の必要から立法化された。とくに革新的な改革は労働・交換委員会によって制定された。例えば,パン職人の夜業禁止や放棄された工場の接収と生産協同組合による経営あるいは国民軍兵士の制服や武器の生産協同組合への発注などには,労働者による自主管理への志向が認められる。しかし,これらは私有財産を否定するものではなかった。また教育委員会は,職業教育や婦人教育の面で多くの改革を提起した。しかし,これらの改革もコミューンが短命であったこと,とくに内戦に勝つことがすべてに優先していたことによって十分には展開されなかった。

コミューンの軍事指導の混乱とコミューン議会の分裂だけでなく,コミューン存続に不可欠の地方の支援もなかった。リヨンでは3月22日,マルセイユでは3月23日にコミューンが樹立され,他の諸都市でもパリ・コミューンに呼応して運動が展開されたが,すべて短命に終わった。このような状況下でコミューンの敗北は避けられないものであった。5月21日政府軍はパリに侵入し,〈流血の一週間〉と呼ばれる激しい市街戦が行われた。民衆は,もはや支援もなく各自の判断でバリケードを築いて最後まで抵抗した。この市街戦で2万5000人が虐殺されたと推定されている。5月28日,コミューンは悲劇的最期を遂げた。コミューン後の軍事裁判では,1万0137名が有罪判決を受け,その半数がニューカレドニアへの流刑に処せられた。

 コミューンは結局72日間しか存続しなかったが,たとえつかのまであれ,それが労働者を中心に構成され,労働者の運命を真剣に改善しようとした政府であったこと,またそれを守るために,多くの無名の労働者が最後まで戦って死んだという事実そのものによって,その後の社会主義運動に大きな影響を与えただけではなく,現代の管理化された社会に対しても,なお衝撃力をもち続けているといえよう。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パリコミューン」の意味・わかりやすい解説

パリ・コミューン
ぱりこみゅーん
Commune de Paris フランス語

1870年7月に突発したプロイセン・フランス戦争がフランスの敗北に終わった直後の71年3月18日から5月28日まで、パリに樹立された労働者階級を主体とする民衆の革命政権。この語は、革命体制の総体と頂上部のコミューン評議会の両義に使われる。後者の場合、革命的都市自治体政府であるか、革命中央政府であるかについて、解釈が分かれている。

[桂 圭男]

成立経過

1870年9月4日、スダン(セダン)降伏の報に憤激したパリの民衆は第二帝政を打倒、共和制を実現したが、この日成立したブルジョア共和派の国防仮政府は、国民軍に組織された武装市民に不安を抱き、プロイセン王国との早期講和に傾いた。敵軍の厳重包囲下に苦難の籠城(ろうじょう)戦を強いられた愛国的パリ市民は、20区中央委員会、各区監視委員会などのプレ(前)コミューン組織を結成、徹底抗戦を主張して政府と鋭く対立、10月31日と翌71年1月22日に反乱を起こしたが、いずれも挫折(ざせつ)した。政府は1月28日、ついにプロイセンと休戦条約を結び、2月8日、講和の可否を問う総選挙を実施した。その結果、保守化した農民の支持を得た王党派、大地主勢力が圧倒的多数を占める国民議会がボルドーで開会され、アドルフ・チエールを行政長官とする新政府が成立、2月末に、プロイセン中心の新生ドイツ帝国との間にベルサイユ講和仮条約が締結された。アルザス・ロレーヌ地方の割譲を含む条約の屈辱的内容に憤激したパリ民衆は、国民軍連合とその中央委員会に結集、パリの開城に反対して政府との対立を激化させた。3月18日、政府が奇襲によってパリ民衆地区の国民軍陣地の大砲を奪取、国民軍の武装解除を行おうとしたことから、民衆は自然発生的に抵抗に蜂起(ほうき)し、政府をベルサイユに放逐、国民軍中央委が全市の支配権を掌握した。3月26日、中央委の管理下に市政選挙が行われ、その結果、28日にパリ・コミューン(評議会)の成立が市庁舎で宣言された。

[桂 圭男]

コミューンの生と死

コミューン評議会は、成立まもなく辞任したプチ・ブルジョア急進派議員を除けば、おもに大革命の恐怖政治的革命独裁を信奉するネオ(新)ジャコバン派、パリ人民の革命独裁による社会主義の建設を説くブランキ派、第一インターナショナル派の労働者と、これに共鳴する知識人などから構成され、立法と執行の両権を兼ねるとともに、すべての官公吏の公選制とリコール制など、人民主権原理に基づく直接民主主義的な体制原則を表明した。また、家賃、満期手形の支払い猶予令、パン焼き工の夜業禁止、婦人労働者の解放と、その生産協同組合への組織化など、労働権、生活権の保障を根幹とする各種の社会政策を立案した。社会主義的政策としては、資本家の遺棄した工場施設の接収と労働者組織による自主管理と集団的所有への移行とを定めた「4月16日の法令(デクレ)」や、そのほか教育の民主的改革などの進歩的プランが次々に打ち出され、4月19日には、インターナショナルの連合主義の精神に沿った分権的社会の建設を呼びかける「フランス人民へ」の綱領宣言が発せられた。インター地区支部、民衆クラブなどの民衆組織がこれら政策の立案に参画した。しかし4月初めの内戦再開後、コミューン評議会と国民軍中央委員会との間に軍事指導をめぐる対立が表面化し、これに加えて、リベラルな連合主義を信奉する少数派とジャコバン派、ブランキ派を中心に恐怖政治的革命独裁を主張する多数派との評議会の内部対立も深まり、5月初めの「公安委員会」の設立がこの傾向を決定的に助長した。パリに続いて起こった地方都市のコミューン運動もベルサイユ政府によって次々に鎮圧され、ベルサイユ軍はこのパリの孤立と内紛、軍事指導の混乱に乗じて進撃を続け、ついに5月21日、パリ市中に侵入、「血の週間」とよばれる凄惨(せいさん)な市街戦ののち、28日、コミューンを完全に鎮圧した。この間に3万人近くのパリ市民が虐殺され、4万人が軍事裁判にかけられ、1万人近くが死刑、無期流刑その他の有罪宣告を受けた。

[桂 圭男]

コミューンの意義

マルクスは、コミューンを「そのなかで労働の経済的解放を成し遂げるための、ついに発見された政治形態」と評価、マルクス・レーニン主義者はこの説を敷衍(ふえん)しコミューンをロシア革命に先行する「プロレタリア独裁」の革命政府と規定した。一方、少数派の流れをくむ無政府主義者はコミューンを国家の否定と理解した。フランス・アカデミズムの実証主義的歴史学界では、コミューンの愛国主義と民主主義を強調、それが第三共和政の確立に役だったと評価する学説が有力であった。最近ではコミューンの民衆革命としての意味を強調、ブルジョア集権国家を下から解体し、市政完全自治権を基礎とする自由な分権的連合社会を創出しようとした現代的意義を問い直すアンリ・ルフェーブルらの学説や、パリの周縁地区に放逐されていた労働者大衆が本来のパリである都心部を奪回することによって、疎外されていた市民社会のブルジョア国家からの自己回復を実現しようとした今日的意味を再評価するジャック・ルージュリの学説など、新しい視角からの有力な学説が提起されている。

[桂 圭男]

『カール・マルクス著、木下半治訳『フランスの内乱』(岩波文庫)』『桂圭男著『パリ・コミューン』(岩波新書)』『柴田三千雄著『パリ・コミューン』(中公新書)』『桂圭男著『パリ・コミューン――パリが燃えた70日』(教育社歴史新書)』『アンリ・ルフェーヴル著、河野健二・柴田朝子訳『パリ・コミューン』上下(1968・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「パリコミューン」の意味・わかりやすい解説

パリ・コミューン

1870年フランスが普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)に敗れた後,反帝政運動を進めるパリの民衆と国民軍が,ティエールらの国防政府に反抗して樹立した革命的自治政権。フランス語ではCommune de Parisという。1871年3月18日から5月28日まで72日間続いた。政府がベルサイユにのがれたあと,パリの各区から選ばれた労働者・小市民からなる代議員がコミューンを構成し革命的行動の中核となったが,政府軍との激しい戦闘ののち崩壊。民衆の自発的蜂起(ほうき)と新しい連帯の原理は現代革命の原型として重視され,マルクスはこれを最初の労働者政権として高く評価した(《フランスの内乱》)。
→関連項目大仏次郎クールベコミューン第一インターナショナルパリバレスブランキフランスマロンラファルグ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パリコミューン」の意味・わかりやすい解説

パリ・コミューン
Commune de Paris

フランスにおいて 1871年3月 18日から5月 28日まで持続した,パリ市民,労働者の蜂起により樹立した社会主義的革命政権。普仏戦争第二帝政の崩壊という特殊な状況,さらに市民,労働者を窮地に追込むような種々の政策,国防政府による国民軍の武装解除などにより,パリ市民,労働者は激高し,ここにコミューン革命が勃発した。パリにあった政府はベルサイユに退き,パリの支配権は自動的に国民軍中央委員会の手に移った。3月 26日パリ市会選挙が行われ,その結果,パリ・コミューン (コミューン議会) が形成され,インターナショナル会員,ブランキ支持者,1793年の革命的伝統に忠実な人々などによって構成された。しかし5月 21日からの政府軍との「血の1週間」の大戦闘の末,わずか 72日間で崩壊した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パリコミューン」の解説

パリ−コミューン
Paris Commune

普仏 (ふふつ) 戦争直後の1871年,パリに成立した労働者の革命的自治政府
1870年9月,セダンの戦いの敗北の報によって,パリの労働者と急進的小市民は徹底的抗戦のために国民軍を組織した。しかし,政権を握ったティエールは,ドイツと講和後,国民議会をヴェルサイユに移し,1871年3月18日,講和に不満なパリ国民軍の武装解除に着手した。民衆はこれに反抗して,政府をヴェルサイユに追いやり,国民軍中央委員会の指導でパリの各区から代議員を選出してコミューンを樹立し,ここに史上最初のプロレタリア独裁の政府を作り,革新的な政策を実施した。しかし,地方の農民層を動かせなかったことや内部対立もあり,政府軍の武力のために「血の週間」と呼ばれる市街戦が行われ,2万5000人の死者を出して,5月28日に鎮圧された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パリコミューン」の解説

パリ・コミューン
Commune de Paris

プロイセン‐フランス戦争に敗北後,革命化したパリの国民軍と民衆が,国民軍の武装解除をめざす国防政府に反抗して打ち立てた革命的自治政権。1871年3月18日より5月28日までの72日間持続した。政府がヴェルサイユに脱出したのち,パリ・コミューンは国民軍支配下のパリ各区から選出された代議員によって構成され,同時に行政府であり立法府でもある革命的行動の中核体たるべき性格を持ち,労働者階級の利益にそってその解放をめざす多くの施策を打ち出したが,政府軍との「血の週間」といわれる大戦闘のうちに崩壊した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

とっさの日本語便利帳 「パリコミューン」の解説

パリ・コミューン

普仏戦争(一八七〇~七一)終結後、臨時政府がドイツ帝国と結んだ講和条約を不服としたパリ市民軍と労働者の集団が、臨時政府に反旗を翻して樹立した革命自治政府。一八七一年三月一八日から七二日間、ドイツへの抗戦を叫んで抵抗を試みた。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

世界大百科事典(旧版)内のパリコミューンの言及

【ウクライナ】より

…ロシアを除けば,国土面積ではヨーロッパ最大,人口ではドイツ,イギリス,フランス,イタリアに次ぐ。ハリコフ,キエフ,オデッサなど24の州oblast’とクリミア自治共和国からなる。ウクライナという名称は〈辺境〉を意味するクライkraiからつくられたもので,12世紀ころから使われていた。…

※「パリコミューン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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