日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブランキ」の意味・わかりやすい解説
ブランキ
ぶらんき
Louis Auguste Blanqui
(1805―1881)
フランスの革命家、社会主義者。父はフランス革命のジロンド派議員、兄は高名な自由経済学者アドルフ・ブランキAdolphe Blanqui(1798―1854)。コレージュ在学中から共和派秘密結社「カルボナリ」に加入、復古王政打倒の論陣に加わり、1830年の七月革命の市街戦に投ずる。七月王政の成立に飽き足らず、極左共和派結社「人民の友」の反政府運動に参加して投獄された。獄中でバブーフの平等主義の流れをくむブオナローティと知り合い、少数精鋭の秘密結社による武装蜂起(ほうき)という革命方式に確信を深める。
1835年以後、「家族社」「季節社」など秘密結社の組織化に没頭したが、1839年の蜂起に失敗してモン・サン・ミシェルの獄につながれた。過酷な獄中生活で病を得てトゥールの病院に移送されるが、1848年、二月革命の報を聞いてパリに戻った。このとき、彼は臨時政府に期待して秘密結社活動を抑制し、公開のクラブを中心とした民衆の政治的啓蒙(けいもう)に重点を置いた。ブランキの革命思想はかならずしもエリート主義に基づく蜂起至上主義ではなく、平等主義的な社会革命実現のために、政権奪取後の民衆教育を格別重視するものでもあった。だが、4月の選挙で左派が後退するなかで、下部の突き上げを抑えきれず、同年5月15日の国会乱入事件に連座して三たび獄につながれた。このため6月の民衆蜂起(六月事件)の指揮をとることができなかった。以後、第二帝政の1860年代なかばまで約2年の小休止を除いて獄中にあったが、ここで若手の共和派の囚人たちに多大の影響を及ぼし、いわゆる「ブランキスト(ブランキ派)」が形成される。
1865年、脱獄してベルギーに逃れたが、1870年8月プロイセン・フランス戦争の混乱に乗じて帰国。祖国防衛戦争を訴えるかたわら、3次にわたる蜂起に関与し、1871年3月、パリ・コミューンの前日にまたもや逮捕された。コミューン派は74人の政府側捕虜とブランキ1人との交換を申し入れたが、彼の影響力を恐れる政府側はこれを拒否した。コミューン壊滅後も終身禁錮刑を受け、1880年恩赦まで監視下に置かれた。
こうして生涯蜂起と投獄を繰り返し、総計実に43年と2か月もの間、獄中もしくはそれに準ずる生活を送ったが、1881年1月1日脳溢血(のういっけつ)のためついに死去。「幽閉者」「殉教者」とよばれ、多大の尊崇を集めた彼の葬儀には10万人の会葬者が列を連ねたという。だが、あまりにたびたび獄中にあったため、決定的な大事件に直接指揮をとることができなかったのは、「行動の人」として皮肉であったといわなければならない。
[谷川 稔]
『ジェフロワ著、野沢協・加藤節子訳『幽閉者――ブランキ伝』(1973・現代思潮社)』▽『ブランキ著、加藤晴康訳『革命論集』上下(1968・現代思潮社)』