コミューン(読み)こみゅーん(英語表記)Communes フランス語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コミューン」の意味・わかりやすい解説

コミューン
こみゅーん
Communes フランス語

フランス中世の自治都市。11世紀末から12世紀にかけてフランスの北部、東部に展開されたコミューン運動によってできた都市をコミューン都市といい、中部、西部、南西部に広まったプレボprévô都市、南フランスのコンシュラconsulat都市とはタイプを異にする。

 コミューンとは、もともと市民相互間の扶助を誓い合った平和誓約社団を意味する。コミューン運動の主たる要因は、11~12世紀の「商業の復活」に伴う都市市民層の経済的興隆にあった。コミューンの成立には、国王あるいは領主によるコミューン授与の文書(シャルト)が必要であった。市民は支配権力からの解放を目ざして、市場税や通行税の廃止などいわゆる商品流通規制権や領主独占権の撤廃を主張したが、年代記作者ギベール・ド・ノジャンGuibert de Nogent(1053―1124ころ)が「コミューン! 新しい名前だ! 忌まわしい名前だ!」といったように、支配者の側からの抵抗が強く、運動がかなり暴力的な仕方で解決されたケースも少なくはなかった(ラン、ベズレーボーベなど)。しかし13世紀に入ると、コミューンの性格は変質を遂げた。国王による集権化の開始とともに、従来のような誓約に基づく市民の連帯性は失われ、コミューンはいわゆる自治都市として現実的な独立を達成した。都市自ら法を編纂(へんさん)し、鐘楼(しょうろう)をつくり、独自の軍隊をもち、裁判権を行使し、貨幣を鋳造し、公文書発行のための印璽(いんじ)を有していた。アブビル、オーセル、アミアン、サン・カンタン、ノアイヨン、ソアソン、ラン、アラスなどのコミューンがその例である。これらの都市は、市民総会から生まれた都市参事会が監督する市長によって市政が行われ、エシュバンとよばれる行政官を備えていたが、貴族や聖職者ばかりでなく、農奴、貧困者にも市民権を拒否したため、民主的な市政とはいえず、現実には市民寡頭政治を形成していた。コミューン運動は13世紀まで増加の一途をたどるが、14世紀以降衰退した。その原因は、内部においては市民権をもたない細民の階級的意識の覚醒(かくせい)によって、外部においては王権の伸張によってである。絶対王制の成立とともに、都市の裁判権は管轄縮小を余儀なくされて都市警察権の機能をとどめるにすぎなくなり、1789年の革命によってコミューン体制は消滅した。

 なお、パリは、コミューン都市ではなく、王権の直接支配下にあるプレボ都市であったが、史上「パリ・コミューン」とよぶのは、一つはフランス革命期の1792年8月10日の事件(王権停止)からテルミドール9日(1794年7月27日)までパリに成立した革命権力をいい、他者は、1871年3月18日から5月末まで同じくパリに樹立された革命政権をいう。また、コミューンは、フランス地方行政上の最小管轄単位で、カントンの下部単位をなす。

[志垣嘉夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コミューン」の意味・わかりやすい解説

コミューン
commune

11世紀末から 13世紀初めにかけて西・南ヨーロッパで発展した都市の自治的共同体。コミューンにはさまざまの類型があり,その特徴としては,市民が互いに誓約し,相互防衛と相互扶助のために団結したことがあげられる。こうした共同体が可能であった理由として,都市は早い時期から経済的発展を成し遂げ,また時代的にも強力な中央集権的政治権力が存在していなかったことがあげられる。その結果,ある程度の自治を獲得し,市政上の諸問題も処理することができた。しかしコミューンの構成員は,都市の全住民を含むものでなく,実質的に支配したのは,富裕かつ有力な市民 (都市貴族) たちであり,寡頭政治が一般的な形態であった。北イタリアでは 12~13世紀に都市国家が形成され,有力な市民による政治が発達した (→コムーネ ) 。一方,11世紀末から 13世紀頃北フランスとフランドルでは,都市司教君主に対する市民の反乱が起こり,誓約共同体が結ばれて国王特許状による自治権を確立した。さらに 12~13世紀初め頃の北ドイツ (ライン川流域,北海・バルト海沿岸) の諸都市では,君主権力が衰えるに及んで都市連合を結成するにいたり,領主権力と対抗した。しかしイタリアを除き,中世のコミューンは 13世紀以降王権による中央集権政策の干渉が強まり,百年戦争の混乱のうちに衰退していった。「パリ・コミューン」などの革命的コミューンは,この概念の近代的転用であり,以後は,左翼の間で一種の政治的シンボルとなった。シンボル化の最大の契機は,カルル・ハインリヒ・マルクスがパリ・コミューンを社会主義国家の現実態ととらえて高く評価し,ウラジーミル・イリイッチ・レーニンがそれを継承してソビエトをコミューン論によって位置づけたことによる。しかし 1960年代に登場した,いわゆるニュー・レフト (新左翼) の思想においては,むしろソビエト連邦や東欧の社会主義国家に対立するシンボルとして掲げられている。これにはマルクスのコミューン論に依拠してソ連型国家を批判するものと,直接それには依拠せず,「管理社会論」に基づいて疎外の回復を自由な小共同体のなかに求める傾向とがある。

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