改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ関税同盟」の意味・わかりやすい解説
ドイツ関税同盟 (ドイツかんぜいどうめい)
Deutscher Zollverein
同盟国間の関税を撤廃し第三国に共通の関税を適用する関税同盟は,超国家的な経済統合の一形態としてさまざまな時代と地域に生まれたが,1834年から66年まで続いたドイツ関税同盟はそのもっとも成功した事例である。その意義は,関税同盟の形成と拡大が19世紀ドイツの政治的統一への道を準備し(ドイツ帝国の〈先駆者〉),経済的発展の要因(産業革命の前提)となった点にあるが,今日ではさらに共同市場創出の歴史的先例としても注目されている。
19世紀初頭ウィーン会議後に成立したドイツ連邦は39の国家(1866年には33)に分裂し,内部の関税障壁や交通制限,通貨と度量衡の未統一など経済的分裂も加わり,産業の発展や諸外国との通商に不利であった。この分裂はプロイセン主導の関税同盟の形成と拡大によって克服されることとなった。第1歩はプロイセン内部関税の廃止と国境関税の設定で1818年の関税法で実現された。次に国内にある他国の飛地を自国の関税領域に編入し,東西に離れた領土の接合をめざして28年にヘッセン・ダルムシュタットと関税同盟を結んだ。同年南ドイツ関税同盟と中部ドイツ通商同盟も生まれた。プロイセンは中間の小国に圧力をかけ,33年南ドイツやザクセンなどと関税同盟を結び,こうして18ヵ国,人口2300万,面積7719平方マイルを含む〈ドイツ関税同盟〉が8年の期限で34年1月1日に発足した。その後35年にバーデン,ナッサウ,36年にフランクフルト・アム・マイン,42年にブラウンシュワイクなど,50年代にハノーファー,オルデンブルク,80年代にはハンザ都市も加盟した。
同盟は法的にはプロイセンと諸国が個別に締結した130ほどの条約からなる関税統合であり,年次総会も30年間に15回開かれただけで,実質的問題はプロイセンとの外交交渉で処理された。経済的には同盟の関税率はプロイセン関税法のそれを継承して比較的低く,共同の関税収入を人口に応じて各国に配分したが,加盟国は増収となった反面財政的にプロイセンに依存した。内部関税が撤廃され交通が自由になったので同盟の拡大はドイツの産業革命を促進した。とくに南ドイツの発展はこれに負うところが大きい。内国消費税と諸外国との通商条約交渉でしばしば内部の不統一が生じ,また,孤立化を恐れたオーストリアの大ドイツ関税同盟結成の企て(1849-50)によって危機を招いたが,プロイセンは同盟の更新拒否を脅しの武器に使ってそのつどこれを乗り切った。同盟は42年と54年に12年期限で更新されたが,オーストリアに対する軍事的勝利を背景に67年にプロイセン中心の北ドイツ連邦が成立すると,関税同盟はこの連邦と旧同盟の二重形態となった。連邦議会の議員と南ドイツの代表とが関税議会を構成し(帝国議会の母体),71年のドイツ帝国の建国によって関税行政の国家的統一がほぼ達成された。ドイツ関税同盟は共同市場の創出に始まり,通貨の統一(1857)を経てドイツの政治的統一へと発展したのである。
執筆者:諸田 實
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報