翻訳|Mark
ドイツの旧通貨単位。2002年にEU(ヨーロッパ連合)の共通通貨、ユーロの流通が始まったことにより廃止された。1マルクは100ペニッヒPfennigに相当した。マルクという呼称は、重量単位であるポンドの半分を示したことに由来する。
[原 信]
1871年、プロイセンを中心としてドイツ帝国が成立すると、統一的な通貨・財政制度の整備が進められた。まず1873年にはプロイセン・フランス戦争(1870~71)によってフランスから得た賠償金を基礎にして金本位制が確立され、1マルク=純金358.422919ミリグラムの金平価が設定された。これを「金マルク」という。ついで1875年には中央銀行としてライヒスバンクが設立され、発券の統一化が図られた。
第一次世界大戦後金本位制は停止され、「金マルク」は「紙マルク(紙幣マルク)」にかわり、歴史的超インフレーションとなった。このような状況に対処するため、1923年にはレンテンバンクが設立され、土地を担保に「レンテンマルク」が発行されて逐次紙マルクと交換されることによって、「レンテンマルクの奇跡」と称される通貨の安定に成功した。翌1924年には、旧金マルクと等価で金と結び付いた「ライヒスマルク」が発行され、金本位制に復帰した。しかし、それもつかのま、1931年には、オーストリアやドイツに始まった金融恐慌のため、ドイツは外国為替(かわせ)管理を実施し、ここにドイツにおける金本位制は崩壊した。
[原 信]
第二次世界大戦に敗北したドイツは東西に分割(1990年再統合)されたため、同時的に通貨改革を行うことが必要となった。その結果、とくに区別する必要があるときには、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)発行のマルクをドイツ・マルク、東ドイツ(ドイツ民主共和国)のそれをドイツ民主共和国マルクとよんだ。
西ドイツは、1948年に新たな中央銀行としてドイツ・レンダーバンク(のちドイツ・ブンデスバンクとなる)を設立し、新通貨「ドイツ・マルク」を発行、1ドイツ・マルク=10旧ライヒスマルクの割合で交換した。ついで1953年、西ドイツは1ドル=4.20マルクの平価で国際通貨基金(IMF)に加盟した。
西ドイツは、第二次世界大戦後奇跡的な経済復興を成し遂げ、高い生産性と低いインフレ率のもとで、高度の成長率を維持し、大幅な経常収支の黒字を蓄積し、巨額の金外貨準備を保有するようになった。このような実体経済の強さを背景として、ドイツ・マルクは1961、69年にそれぞれ平価を切り上げ、ドル不安の進むなかで、もっとも強い通貨となり、同国へ多額の資本が流入した。
1973年3月、主要通貨が変動相場制に移行したが、マルクはしだいに米ドルに次ぐ国際通貨としての地位を高め、米ドルとの相場は、かつての英米クロス・レートにかわり、為替市場における中心的指標となった。
その後マルクは円と並んで、米ドルに対し長期的に上昇傾向を示してきたが、マルクが米ドルに対し急上昇すると、通貨不安がおこることがしばしばであった。とくに後述のヨーロッパ通貨安定機構はマルクの急上昇により、1992年および93年に崩壊の危機にさらされた。1995年にはマルクは1ドル=1.35マルクと対米ドル最高値を示した。なお、1998年3月末の相場では1.84マルクであった。
[原 信]
西ドイツは1958年に発足したヨーロッパ経済共同体(EEC、のちにEC)の一員として、その域内通貨の安定機構の中心となってきた。1971年のスミソニアン協定による対米ドル相場の変動幅2.25%をヨーロッパ域内通貨相互間にも適用し(スネークといわれる)、さらに73年に米ドルなどが変動為替相場制に移行したときも域内の通貨間はその変動幅を守り、地域的固定相場制度を維持した。その後経済運営上の差からフランスが脱落し、制度の意味が限定的になった。
1979年西ドイツとフランスが中心となってヨーロッパ通貨制度(EMS)が発足した。それはECU(エキュ)という共通通貨単位を基準とした域内為替相場の安定機構(ERM)とそれを支える短期の金融機構によって相場の安定を図り、最終的にはヨーロッパを単一の共通通貨にするという構想をもつものであった。EMSは事実上ドイツ・マルクがアンカーとなって各国が対マルク相場を安定させるという機能を果たした。発足後中心相場の調整が弾力的に行われ、各国の経済運営の差はしだいに小さくなった。
[原 信]
1989年ベルリンの壁が崩壊し、90年東西ドイツは統合された。旧東ドイツの通貨もマルクで、たてまえ上、西ドイツのマルクと等価とされていた。統合に際してもいちおう等価とされたが交換には限度が設けられた。経済水準が格段に違う東西ドイツの統合は西側にとって大きい負担となったが、徐々にその実をあげつつあり、ドイツは名実ともにヨーロッパ経済の中心国となった。
1991年ヨーロッパ通貨統合(EMU)に関するマーストリヒト条約が成立、条約に示した経済運営上の四つの条件(インフレ率、長期金利、財政赤字、累積公的債務残高に関する基準)を満たした諸国が2002年から単一通貨ユーロを採用し、それぞれの自国通貨は消滅することになった。ドイツ・マルクもヨーロッパ最強通貨としての栄光の歴史を閉じることになった。
[原 信]
『デイヴィッド・マーシュ著、相沢幸悦訳・行天豊雄監訳『ドイツ連銀の謎――ヨーロッパとドイツ・マルクの運命』(1993・ダイヤモンド社)』▽『岩見昭三著『EU通貨統合とドイツ――ブンデスバンクのユーロ戦略』(1999・晃洋書房)』▽『岩田健治編著、H・E・シャーラー他著『ユーロとEUの金融システム』(2003・日本経済評論社)』▽『新田俊三著『ユーロ経済を読む』(講談社現代新書)』▽『田中素香著『ユーロ――その衝撃とゆくえ』(岩波新書)』
オーストリア出身のアメリカの高分子物理化学者。5月3日、オーストリアのウィーンで生まれる。父はドイツ系ユダヤ人であったが、このことはのちに彼がアメリカへ移る原因となる。第一次世界大戦中はオーストリア軍の将校として各地に転戦、戦後ウィーン大学に戻り、学位を得たのち1922年春、カイザー・ウィルヘルム研究所(今日のマックス・プランク研究所)に入り、X線結晶解析の技術を修得、セルロースの構造研究を通じて徐々に高分子科学の道に入り、やがて1927年からルートウィヒスハーフェンにあるIG(イー・ゲー)社の繊維研究所でマイヤー所長とともに本格的な高分子研究を開始する。しかし、忍び寄るナチスの影のもとで、彼はひとまず母校のウィーン大学に移り、ここでも高分子研究の中心となったが、結局1938年ひそかにオーストリアを脱出、カナダへ亡命、2年後の1940年ニューヨークのブルックリン工科大学へ招かれ、ようやく安住の地を得て高分子学の研究に専念、1970年に至る同工大の黄金時代を築いた。この間1947年には、現在高分子学界で最高の権威をもつ雑誌『Journal of Polymer Science』を創刊、同工大では多数の後進を育成しつつ、つねに各国に飛んで全世界の高分子学者を組織するなど、まさに愛称「マルク・マフィアのゴッド・ファーザー」にふさわしい活動を続けた。
[中川鶴太郎]
ドイツの画家。ミュンヘンに画家の子として生まれ、最初神学者を志して哲学と神学を学んだが、20歳でミュンヘン美術学校に入学した。1903年パリで印象派に接し、07年再度パリに滞在してゴッホに強い感銘を受けた。10年ミュンヘンで初の個展を開き、マッケ、クレー、カンディンスキーと親交を結ぶ。11年カンディンスキーとグループ「青騎士」を結成、その運動の中心的な推進者となる。彼は主観表出の媒体として動物を取り上げ、主体的な色彩の調和と形態の厳しい抽象化によって自然と人間精神との深い交感を探った。12年マッケとパリでドローネーに会い、強い共感を抱き、以後アンリ・ルソー的なメルヘンの世界に純度の高い色彩のダイナミズムが加わり、14年には抽象画も手がけた。第一次世界大戦に従軍し、フランスのベルダンで戦死した。代表作に『動物の運命』(1913・バーゼル美術館)がある。
[野村太郎]
ドイツの旧通貨単位。1871年,ドイツ帝国の成立によってドイツの統一的な通貨・財政制度の前提が整った。ドイツは伝統的に州Landの力が強く,貨幣・銀行制度も州ごとにばらばらであったが,普仏戦争の勝利による賠償金を基礎に金本位制が実現された。71年10月,連邦参議院Bundesratは標準鋳貨として〈帝国金貨〉を承認し,その10分の1を帝国の新しい計算単位としてマルク(金マルク)と名づけた。同時に十進法による細分化,つまり1マルク=100ペニッヒPfennigも決められた。75年以降ライヒスバンクRheichsbankは金兌換(だかん)を行ったが,金本位制の完全実施は1909年の貨幣法以後である。ライヒスバンクによってドイツ帝国は,すでに高度の発展段階にあった他の諸国に比べて遅かったとはいえ,単一の発券銀行をもつことになった。1876年から95年の間には,市中銀行はまだライヒスバンクの振替決済機構に比肩する預金通貨制度をもたなかったため,市中銀行の信用の大部分は現金で決済された。市中銀行の預金は,ライヒスバンク振替決済機構による貨幣節約的な決済制度が完成して初めて,貨幣としての性格を備えたのである。
1914年第1次大戦が勃発すると,ライヒスバンクは金兌換を停止したため,〈紙幣マルク(紙マルク)〉の時代に入った。またライヒスバンクは〈金融総動員〉の標語のもとで戦時金融を遂行したが,インフレ的な貨幣流動量の膨張は避けられなかった。これに敗戦(1918)による賠償の重荷が加わり,ついに23年インフレは最高潮に達した。ちなみに1914-23年の9年間で,ドル相場ではかったマルクの価値はもとの平価に比べ1兆分の1に下落し,生計費指数は実に1.25兆に達した。抜本的な通貨改革の手がかりとなったのは,ドイツ・レンテン銀行Deutsche Rentenbankの設立と,農業用土地および工業用資産の負担によってカバーされた〈レンテンマルクRentenmark〉の発行である。このレンテンマルクの発行によって,〈レンテンマルクの奇跡〉といわれるほど貨幣価値が安定した。次いで24年ドーズ案によって賠償問題が解決されたのを機に,新たに金に基礎をおく〈ライヒスマルクRheichsmark〉が発行され,従前の紙幣マルクは1兆分の1で交換回収された。超インフレに続いて1930年代初頭の大恐慌がドイツを襲った。不況はきわめて深刻であり,資本逃避が相次ぎ,ドイツ経済は壊滅状態となった。32年景気が上方転換点に達した後,厳しい為替管理や輸出助成措置がドイツ経済を種々の外部ショックから保護した。しかし33年以降ナチス独裁による完全雇用の実現は,不安定な基盤の上で福祉が増進したにすぎず,再軍備の本格化がやがて第2次大戦へとつながっていった。
敗戦後,東西両ドイツに分割されたため,ほぼ同時的な通貨改革が不可避となった。その結果,西ドイツ発行のマルクを西ドイツ・マルク,東ドイツ発行のそれを東ドイツ・マルクと俗称してきた。西ドイツの通貨改革は48年6月実施された。新しい中央銀行レンダーバンクBank deutscher Länder(後にドイツ連邦銀行)が設立され,旧通貨ライヒスマルクと新通貨〈ドイツ・マルクDeutsche Mark〉の交換は一定額までは1対1,それ以上は10対1でするなど,細心の注意が払われた。その結果,貨幣および信用の供与はすでに通貨改革以前から徐々に進んでいた復興を加速するとともに,市場への財供給を恒常的に増加させることに成功した。通貨改革は西ドイツ経済の長期的発展の出発点であり,健全通貨ドイツ・マルクはドイツ経済の繁栄の象徴となった。50年代以降,国際収支は黒字を続け,61年,69年と2回平価が切り上げられドイツ・マルクは世界最強通貨の一つとなった。マルクの切上げは物価安定に貢献したが,他方で徐々にではあるが国際競争力を低下させたことも否定できない。70年代の2度にわたる石油危機は西ドイツ経済にも打撃を与えた。とくにECの共同フロート制移行後は,金融政策に過重負担がかかりやすい政策環境が続き,この負担軽減のためマルクは他のEC諸通貨に対してしばしば切り上げられた。ドイツ・マルクが欧州通貨統合の象徴であるヨーロッパ通貨制度(EMS。1979年3月発足)の中心通貨たりうるのは,中央銀行であるドイツ連邦銀行がつねに通貨価値の安定維持に努力しているからである。東ドイツにおいても1948年に中央銀行としてのドイツ発券・振替銀行Deutsche Emissions und Girobank(後にドイツ発券銀行Deutsche Notenbank)が設立され,西ドイツと同じような通貨改革が行われた。
1990年のドイツ統一にともない,西ドイツ・マルクが統一通貨となったが,その際に東西のマルクは1対1で交換され,実勢では東ドイツ・マルクの300~400%の切上げに相当したため,製造業を中心に多くの東側企業が整理に追い込まれた。
2002年1月からのヨーロッパ連合(EU)の単一通貨〈ユーロ〉導入に伴い,ドイツでは姿を消すこととなった。
執筆者:島野 卓爾
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…インドネシア北東部,スラウェシ(セレベス)島とニューギニア島の間に散在する大小多数の島の総称。インドネシア語ではマルクMaluku諸島と呼ぶ。古くから香料群島として知られ,ハルマヘラ,セラム,アンボン,テルナテ,ティドールなどの島を含む。…
…フランク帝国および神聖ローマ帝国の重要な地方高官マルクグラーフの訳語。主として辺境防衛の任にあたる。…
…
[ドイツの超インフレ]
史上最も名高い第1次大戦後のドイツの超インフレの場合は,政府は戦後も戦時下に引き続き紙幣増発による赤字財政を踏襲していた。これに天文学的数字の賠償額が課せられたことから,マルク不安は決定的となり,1922年中にマルクの価値は1ドル162マルクから7000マルクまで暴落した。さらに23年には賠償の進状況を不満として,フランス,ベルギー両軍が工業の中心地であるルール地方を占領したため,生産活動は大打撃を受け,破局的なインフレが現出した。…
※「マルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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