プロイセン改革(読み)ぷろいせんかいかく(英語表記)Reformen in Preußen ドイツ語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「プロイセン改革」の意味・わかりやすい解説

プロイセン改革
ぷろいせんかいかく
Reformen in Preußen ドイツ語

1807年から行われたプロイセン王国の諸改革、すなわちシュタインハルデンベルクの改革、シャルンホルストらによる軍制改革、ウィルヘルム・フォン・フンボルトによる教育制度改革などの一連の改革をさす。

 ナポレオン1世により屈辱的講和を強制されたプロイセンは、その国家的危機のなかで封建的社会制度と絶対主義的国家体制の近代化の必要に迫られた。1807年10月、フリードリヒ・ウィルヘルム3世によって国政指導をゆだねられたシュタインは、農民解放令(十月勅令)、都市条令等を発布。ついで中央政府機構改革に取り組むが、ナポレオン1世の圧力によって08年11月辞職したため、実現をみなかった。改革事業は、10年6月よりハルデンベルクによって引き継がれた。一連の工業関係立法が行われ、また中央政府の機構改革が試みられたが、ウィーン体制下で実施されていった農業改革では、ユンカーに大幅な譲歩をして、解放される農民を低く制限し多くの封建的特権を残したため、農業近代化はむしろユンカーの利益において遂行されることとなった。軍制改革は、シャルンホルスト、グナイゼナウなど非ユンカーの軍人によって推進された。彼らは、一般兵役義務制による国民軍の創出、軍における貴族特権の打破などを目ざし、前者は1814年に実現をみた。しかし、将校に対するユンカーの独占的地位は、結局揺るがなかった。教育制度改革はフンボルトを中心に進められ、国民精神発揚を目ざしたベルリン大学設立(1810)、ペスタロッチ思想にのっとった初等教育制度の整備、古典教育を柱とする人文ギムナジウム創設などが行われた。

 プロイセン改革は「上からの改革」に伴う不徹底さを多く有しているが、しかしそれはナポレオン1世の支配から脱する力をプロイセンに与えただけではなく、やがてドイツ統一を達成するプロイセンの発展の出発点となった。

[岡崎勝世]

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プロイセン改革
プロイセンかいかく

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