ドイツ統一の主導権を決定した1866年の戦争。普墺(ふおう)戦争、あるいは7週間の短期のため七週戦争ともよばれる。当時、ドイツ関税同盟の成立やフランクフルト国民議会のドイツ憲法制定の事業により、ドイツにおけるプロイセンの主導性はすでに強まっていたが、1860年代に入り、国王ウィルヘルム1世および首相ビスマルクはドイツ統一問題の軍事的解決を決意、国内では議会の反対を押し切って軍備拡張を断行。対外的にはイタリアの軍事援助の約束を取り付けたうえで、対オーストリア戦争に踏み切った。戦争の直接の契機は、シュレスウィヒ・ホルシュタインの処分をめぐるガシュタイン協定にオーストリアが違反したことを口実に、プロイセン軍がオーストリア領ホルシュタインに侵入した事件(1866年6月7日)である。オーストリアは、ただちにプロイセン制裁のための連邦軍の動員をドイツ連邦議会に提案、これが可決されると、他方プロイセンは、連邦の解体と新連邦創設を主張して全面対決。6月15日、オーストリア軍はハノーバー、バイエルンほか有力邦の、プロイセン軍はいくつかの北ドイツ中小邦とイタリアのそれぞれ支援を受け、戦端を開いた。
戦局は、ケーニヒグレーツの戦いを境にプロイセン側の決定的勝利となって終わりを告げ、1866年8月23日プラハ条約が締結された。その結果、ドイツ連邦は解体され、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦が翌67年に成立、オーストリアを排除したドイツ統一事業が画期的前進をみるとともに、プロイセン国内の自由主義的反政府派の力が大幅に後退した。
[末川 清]
『望田幸男著『ドイツ統一戦争――ビスマルクとモルトケ』(1979・教育社)』
普墺(ふおう)戦争ともいう。ドイツ統一途上におけるプロイセンとオーストリアの戦争。ビスマルクのプロイセン首相就任(1862年)後,ドイツ連邦の主導権をめぐって両国の対立が激化し,シュレースヴィヒ‐ホルシュタイン問題に端を発して,1866年6月開戦となった。ビスマルクは巧みな外交工作でフランス,ロシアに中立を守らせ,モルトケの作戦下にオーストリアの主力をたちまち撃破し,わずか7週間でオーストリアを降伏させ,プラハの和を結んだ。その結果オーストリアはドイツから締め出され,プロイセン中心の北ドイツ連邦が組織されて,ドイツ統一への基礎ができた。
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…ドイツ統一をめぐるプロイセンとオーストリアとの戦争。プロイセン・オーストリア戦争ともよばれる。ドイツでは1860年になお,35の君主国と4自由市に分裂しており,ドイツ統一への要求は切迫したものとなっていた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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