改訂新版 世界大百科事典 「ベルベル」の意味・わかりやすい解説
ベルベル
Berber
北アフリカからサハラ砂漠にかけての広い地域に先史時代から生活する,ベルベル諸語を話す人々の総称。ベルベルという呼称は,ラテン語のバルバルスbarbarus(ローマ世界の外に住む文明化されていない人間を指す)に由来するともいわれる。彼ら自身は,イマジゲンImazighen(単数Amazigh,〈高貴な出の人間〉の意)などと自称する。人種的にはコーカソイド(白色人種群)に属するが,体格・容貌ともに変異の幅が大きく,四つの亜人種型に分けられる。地中海人種が中心的タイプだが,南の方では黒色人種との混血もみられる。現在のベルベル諸語人口の正確な数はわからないが,北・西アフリカの10ヵ国以上に不均等に分布し,一番多いモロッコ(とくにアトラス山地に集住)では人口の30%以上,次のアルジェリアでは20%弱(北部のテル・アトラス山脈のカビリー地方には200万人以上が集住しカビールとよばれる),チュニジアでは南のジェルバ島を中心に1~2%ということで,全体ではおそらく1000万人近い数と推定される。言語的には,ザナータ(ゼナータ)Zanāta系,サンハージャṢanhāja系,マスムーダMaṣmūda系の3方言群に大別される。マスムーダ系は,モロッコのオート・アトラス西部のシルハによって代表され,サンハージャ系は,アルジェリアのカビールやサハラ砂漠のトゥアレグ,モロッコの中部アトラス,オート・アトラス中央部の住民などである。ザナータ系は,リビアやチュニジアからアルジェリア(オーレス山地のシャウイアやガルダイア・オアシスのムザブなど),モロッコのリーフ山地や中部アトラスの北部,オート・アトラスの東部などと広い地域に分布している。
最近の北アフリカ考古学の目覚ましい進歩にもかかわらず,ベルベルの起源や歴史については今なお不明な点が多いが,前6000年から前2000年にかけて,北アフリカに花開いた中石器時代のカプサ文化,カプサ新石器文化の担い手たちは,彼らの祖先と考えられている。カプサ人は,黒人の血が混じった地中海人種で,各地に独得の様式のおもしろい岩絵を残しており,サハラのアハガル山地のタッシリ・ナジェールの岩面画はことに名高い。ベルベルの祖先たちは,おおむね大型野獣の狩人であったが,大麦,小麦の農耕を始めて後も,牛,馬,羊,ヤギなどを飼育し,牛の乳を飲みカタツムリや蜂蜜を好んで食べていた。定着民も遊牧民もいたが,居住形式は,外敵に備えて城砦で囲まれた集落形式をとる所が多く,最近まで穴居生活をしていた所もある。先史時代のベルベルは銅や鉄器を知らず,前1200年以降,フェニキア人の到来とともに青銅器や鉄器および,現在のマグリブの主要作物であるオリーブ,イチジク,ブドウなどの果樹や新しい農耕技術がもたらされたとされる。フェニキアとローマがポエニ戦争で地中海の覇権を争っていた前2世紀ころ,北アフリカのヌミディア地方(ヌミディア)には,マサエシュリ,マッシュリなどのベルベル王国があり,とくに後者の王マシニッサとその孫ユグルタの名はよく知られている。
フェニキア,ローマの後も,バンダル王国,ビザンティン帝国,アラブ,スペイン,オスマン・トルコ,フランスなど,さまざまな異民族の侵略や支配を受け,ベルベルの歴史は被支配の歴史ともいわれる。とりわけ,7世紀と11世紀の2波にわたるアラブの侵入と征服以来,北アフリカのイスラム化とアラブ化が進み,今ではこの地の住民は,ベルベルも含めてほとんどがイスラム教徒であり,言語の面でもアラビア語が大勢を占めている。しかし現在でもベルベルが集住しているのは,山岳地帯や砂漠などの比較的孤立した,外からの影響を受けにくい地域であり,彼らは最近まで,言語だけでなく,固有の慣習法や政治・社会組織,独自の信仰や儀礼,口頭伝承,物質文化などの文化的諸特徴を保持してきた。
彼らの政治・社会組織は,大は部族連合から小は拡大家族に至るまでの,一連の分節構造をなしている。社会構造の原理となる出自の系統には父系(あるいは男系)と母系の2系統があり,母系は今でも,トゥアレグ族の一部の部族などに残っている。一つの部族は,定住民の場合,いくつかの集落(村)に分かれて定着しているが,村落共同体の政治的自律性は高く,成人男子全員の参加する民主的色彩の濃い評議会(タジュマートtajmāat)と村独自の慣習法(カヌーンqanūn,アズレフazref)をもち,双分組織(ソフsof,レフlef)もあった。有力部族の長が,諸部族を統合して王(アゲリッドaguellid)になり,王国を形成することもあった。11~12世紀のマグリブには,ムラービト朝やムワッヒド朝のような,宗教運動と結びついた一大ベルベル帝国も誕生した。
フランスの植民地時代には,アラブとベルベルを意図的に区別しようとする分割統治策がとられたが,両者のムスリムとしての一致した反発が,民族主義運動の大きな原動力になった。独立後,例えばアルジェリアなどでは,国の政策としてのアラブ化が強力に推進される中で,歴史的な背景からみても決して周辺的な存在ではないベルベルが,少数派としての被抑圧者意識を抱き,自らの言語と文化の独自性を主張し始めている。
執筆者:宮治 美江子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報