日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヌミディア」の意味・わかりやすい解説
ヌミディア
ぬみでぃあ
Numidia
紀元前3~前1世紀に、北アフリカ西部を支配したマッシュリーMassyli人の王国の古代ローマ世界における通称。転じて、王国中央部をさす地名。古代北アフリカの原住民は、現在北アフリカ各地に分布するベルベル系諸言語と同系の言語を話したとされ、マッシュリー人もその一派である。ベルベル社会は早くも前二千年紀には定住・農耕の段階に達し、前一千年紀前半にはフェニキア人の植民、とりわけカルタゴ建国の影響下で、各地に王権の発生をみるに至ったが、これらはポエニ戦争期まではおおむねカルタゴの覇権下にあり、その軍事力供給源に甘んじた。第二次ポエニ戦争の際、ローマがカルタゴへの対抗上ベルベル諸王権との同盟を求めると、これと結んだマッシュリーの王族マシニッサMassinissaは当時最強といわれた西隣のマサエシュリーMasaesyli人の王国を打倒・併合し、ここにキルタCirta(現在のコンスタンティーヌ市?)を首都とするヌミディア王国regnum Numidiaeが成立(前202)する。
ヌミディア王権は当初よりローマの同盟者としてローマの北アフリカ進出の橋頭堡(きょうとうほ)の役割を演じ、第三次ポエニ戦争開戦の要因ともなるが、反面、国内では王領地での穀物生産を基礎に、フェニキア系都市支配、東方ギリシア世界との交流などを通じてヘレニズム諸王国に範をとった支配体制を構築し、一時代を画した。しかしカルタゴ滅亡、ローマの属州アフリカ設置(前146)後は、ローマ・イタリア人事業家の浸透とともに、王権の対ローマ従属性が深まり、これに反発する諸階層を結集したユグルタJugurthaの政権掌握の試みもローマの軍事介入(前111~前105)により崩壊して、以後はまったくの傀儡(かいらい)王権と化した。ローマ共和政末期の内乱の際、ヌミディア最後の王ユバJuba1世はポンペイウス派にくみして敗死し、遺領の大半がカエサルにより属州化(前46)されて、王国は滅亡する。ヌミディア時代の墳墓・神殿などの遺構は現在チュニジアおよびアルジェリア各地に残存し、マッシュリー王家のものとされるメドラセンMedracenの円形大墳墓はとくに有名である。
[栗田伸子]