翻訳|Phoenicia
地中海東岸の一地方に対する古代名。南北方向にタルトゥースからカルメル山までの約320km,東西方向には海岸から東へ約20kmの細長い地帯をなし,最高地点は標高約300mである。古代地理上シリアの一部をなし,南にはパレスティナ,東にはヨルダン地峡,北にはオロンテス川流域の平野部がある。地中海式気候を示し,夏を中心とする乾季には高温寡雨であるが,冬季には西アジアの一部としては比較的湿潤である。
住民は古代末までにきわめて混交した状態になり,知られる最古の住民は,北西セム語族のカナン人であるが,この地に到来した時期は不明である。旧約聖書中のカナン人の語源は,前14世紀の〈アマルナ文書〉などにみえるキナフKinaḫḫuであると考えられ,これは〈深紅色〉または〈赤銅色〉を意味し,この地方特産の染料の色,もしくは住民の肌の色に由来するとされる。フェニキア人という名称はギリシア語フォイニケスPhoinikes(ラテン語では主としてカルタゴ人を意味するポエニPoeni)であり,その意味はキナフと同様である。ギリシア人の伝説によると,テュロス王アゲノルAgēnōrの子の一人にフォイニクスPhoinixがい,そこからフェニキアという地名が起こったとされる。
考古史料によると,カルメル山の山腹の洞窟には旧石器時代後半からナトゥフ時代(ナトゥフ文化)にかけて狩猟民が住み,しだいに原始的な定住と農耕に向かいつつあった。その後,前5000年以後になると,ビュブロスやウガリトには有土器新石器時代の痕跡が残されている。初期青銅器時代(前3千年紀)になると,ビュブロスが都市として現れる。エジプト第4王朝のスネフルは40隻の船をこの市に送り,木材を得た。また,アッカド帝国のサルゴンもここに遠征したと伝えられる。中期青銅器時代(前2千年紀前半)に入ると,ビュブロスに土着の王朝が成立し,王墓や神殿を残している。
後期青銅器時代(前1500-前1200)には,ビュブロスのほかにウガリトが都市国家として栄えた。その国制,交易,文化については,この市の出土物や〈ウガリト文書〉によって知ることができる。そこはすでに混交した人口構成を示す国際都市であり,西アジアとギリシア世界(本土,エーゲ海域,クレタ島)との経済的・文化的交流の最初の拠点となった。とりわけウガリトでは,楔形文字を利用した世界最古の実用的アルファベットが発明された。上述のテュロス王アゲノルの別の息子カドモスがギリシアのテーバイにいたり,文字を伝えたという伝説の背景はこの頃のことと思われる(1964年のテーバイにおけるメソポタミア製円筒印章群の出土はこれを裏づける)。
後期青銅器時代のフェニキアは,総じてエジプト第18,19王朝の支配下にあり,諸都市はその臣従国であったが,前1200年ころ〈海の民〉の到来とともにエジプトの支配権は失われ,カナンには〈海の民〉のほか,アラム人やヘブライ人が入植した。フェニキアでは土着カナン人の勢力が存続し,アラム人,ヘブライ人,ギリシア人の発展とともに,植民,交易,航海によって新たな発展期を迎えた。まず,前代に繁栄したビュブロスやウガリトに代わって,アラドゥスAradus(アルワドArwad),テュロス(聖書ではツロ),シドンなどの都市が現れた。ホメロスの作品には,シドンのみがみられるが,前750年ころまでのフェニキアの中心都市はテュロスであった。
その頃のフェニキア人はカナン人の工芸(金属・象牙細工,船大工術,建築),航海術,交易の継承者として,一方では地中海を中心とする海上に,他方ではアラム人やヘブライ人のような新興民族の領土に勢力を伸ばした。海上では,ギリシア人に先駆けて前9世紀までに地中海沿岸(北アフリカ,イベリア半島,サルディニアなどの島々)に広く植民し,各地に交易拠点を築いた。とりわけ前814年と伝えられるカルタゴ建設は,その後の地中海世界の歴史に甚大な影響を及ぼした。フェニキア人の艦隊は大西洋や紅海にも進出したが,彼らの海外活動の中心は交易にあり,土地の入手と耕作が直接の目的でなかった点はギリシア人の植民と異なる。陸上においては,アラム人がラクダを使って確立した隊商交易と接合し,オリエント世界経済界の西方への窓口となった。また,ヘブライ人を媒介として南アラビアとも通商関係をもった。
他方,フェニキア人は高度な建築や工芸の技術を使って,ヘブライ人やアラム人の首都(エルサレム,サマリア,ダマスクス)の王宮や神殿の建設に協力した。フェニキア職人の手になる王宮家具やその象牙板装飾,文様を彫り込まれた金属製の鉢などが各地から出土している。このような関係を示す最も有名な例は,旧約聖書中のソロモンとテュロス王ヒラム(アヒラム)の交渉,あるいはサマリアのアハブの〈象牙の家〉である。テュロスとヘブライ人王朝の間には婚姻関係もあり,それを通じてフェニキアの伝統的宗教であるバアル崇拝も流布した。また,前12世紀ころから使われたとみられる新しいアルファベットは,前代の楔形文字によるものとは異なり,より簡略な文字体系として画期的なものであり,すぐにアラム人やヘブライ人に採用されたうえ,ギリシア語のアルファベットを経て現在のアルファベットへと進化した。
前8世紀になると,シリアはアッシリア帝国に侵略され,フェニキア諸都市も包囲攻撃を受け,貢税した。このことはアッシリアの王宮壁面浮彫や碑文によって知られる。前680年にはエサルハドンによってシドンが占領され,前574年には新バビロニア帝国のネブカドネザルによってテュロスが破壊された。前539年には,フェニキアはペルシア帝国の属州となった。この時代以後のフェニキア都市の中心はシドンであり,ペルシアに艦隊を提供し,ペルシア海軍の主力となり,ペルシア戦争にも参加した。他方,内政上は自治を許され,王政の下に交易活動を盛んに行った。シドンの人たちはギリシアの産物(ブドウ酒や土器)をオリエントに伝え,奴隷貿易を盛んに行った。
アレクサンドロス大王はイッソスの戦の後,フェニキアを征服した(前333)。彼の目的の一つはギリシアに対するフェニキア海軍の脅威を断つことであった。そのときテュロス市民は出島にこもって徹底的に戦い,壊滅的打撃を受けたが,アラドゥス,ビュブロス,シドンは早くから降伏した。ヘレニズム時代のフェニキアの中心都市はシドンであった。彼らは依然として商人として活動し,セレウコス朝シリアやローマの支配下で自治を認められ,外国の都市にも居留区を設けて交易に従事した。例えば,デロス島やパレスティナのマリサやシケムにそのような痕跡が残っている。
ローマ時代になると,前代からの染色産業と並んで,海岸のケイ素分の多い砂を原料とするガラス産業が発達し,とりわけ吹きガラスの技術はこのころシドンで発明されたとされる。ユスティニアヌス帝時代には中国から蚕が導入され,絹の生産が始まった。また,ローマ時代のフェニキア都市には学芸も発達し,ベリュトゥスBerytus(現,ベイルート)には有名な法律学校があった。それらの都市にキリスト教が伝播したのは,1世紀中葉のことであった。612年にはササン朝ペルシアの軍隊によって略奪され,それから約20年後には,イスラム軍によって征服された。
→カルタゴ →シリア
執筆者:小川 英雄
フェニキアの美術は,同地域を取り囲むメソポタミア,エジプト,エーゲ海に興った先進文明の影響を受けて,複合的な性格をとるようになった。
フェニキアの文明は,前3000年ころには新石器時代を経てすでに金石併用時代を終わろうとしていた。新石器時代の遺物には,骨製品,黒曜石・火打石製の石器類がある。金石併用時代には青銅製の小品も現れた。興味深いのは土器で,メソポタミアやテッサリアの同時代のものと類似する様式のものがあり,他地方の文化の輸入はきわめて古い時代に始まったことがわかる。
前3000年ころから前2100年ころまでが初期青銅器時代で,ウガリトやゲバルGebal(グブラGubla。ギリシア名ビュブロスによって知られる)などの都市が栄えた。後者の女神神殿の跡からは,エジプト古王国時代のファラオの奉納物とともに,フェニキア製と思われる青銅製・骨製の小像,黒曜石の壺などが出土している。これらの遺品によって,当時のフェニキアに対するエジプトの支配権の強大さがうかがわれる。
前1550年ころ以前が中期青銅器時代であり,その後,前1100年ころまでが同後期にあたる。それ以後が鉄器時代である。前2千年紀の初めころから,ウガリトは海陸交通の要地としてますます重要性を加え,前14世紀半ばころに一時地震による打撃を受けたこともあるが,前12世紀の末〈海の民〉の侵入によって壊滅するまで繁栄を続けた。フェニキアの建築の様相は,ウガリトの発掘によって明らかになったところが多い。町の入口は,トロイアやミュケナイを思わせるような城塞風に造られていた。墳墓は住宅の地下に営まれ,方形または長方形のプランの小室で,天井は平らな石をのせて造られていたが,時代の下るものは,階段のある羨道と,半円アーチのある入口と,持出しボールトのある玄室とから成っていた。ウガリトの神殿では古いダガン神殿と新しいパアル神殿とが重要で,そのプランは,厚い壁で二つの長方形の中庭を囲み,大きい中庭には階段をつけた祭壇が造られていた。
彫刻にはあまり優れた作品が残っていない。ウガリト出土のパアル神を浮彫で表した碑石(前14世紀)は,フルリやアッシリアの影響を示しているが,アムリトAmrit出土の類似の碑石は,北方の影響とともにエジプトのそれをも加えている。小型の金属像はフルリ的である。世界最初のアルファベットによる銘文をもつことで有名な,ビュブロス出土のヒラム王(前13世紀)の石棺は,蓋と側面に浮彫をつけているが,その様式には,エジプトとアッシリアとの影響が見いだされる。小芸術にも各地方の様式の折衷が試みられている。著しい遺物として,前14~前13世紀に作られた黄金製のパテラ(小さな皿状の杯,平爵)の類があり,なかでもウガリト出土の前13世紀のものには,戦車による狩猟の浮彫の図があるが,戦車や動物の描写はエーゲ的である。この種のパテラは,同時代およびそれ以後,前1千年紀にかけて,広くメソポタミアや地中海沿岸地方で作られたパテラに大きな影響を与えた。象牙彫の例には同じくウガリト出土のピュクシス(円形の箱)の蓋があって,その豊饒の女神の像はエーゲ風の衣装をつけている。
建築の例としては,アムリトやシドンに神殿の跡が発掘されており,ときとして単石で造られていた神祠が,柱廊をめぐらした大きな中庭の中央に置かれていた。シドンの宮殿跡から出土した柱頭は,雄牛の前半身を背合せにしたペルシア風の形をとっている。彫刻の遺品としては石棺がある。これには人体形のものと,いわゆる〈アレクサンドロスの石棺〉のような箱形あるいは家屋形のものとの2種があるが,前者はさらに,エジプトのオシリス神の形をとったものと,ギリシア風の容姿のものとに大別できる。時代的にはエジプト風のものが古い。アレクサンドロス大王以後の時代には,フェニキアの美術はギリシア美術の影響をますます強く受けるようになったが,さらにローマ属領時代になると,オリエント的性格をいくぶん残した〈グレコ・ロマン様式〉ともいうべきものになった。
執筆者:新 規矩男
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地中海東岸、現在のレバノンとこれに隣接する地域の古代名、およびその沿岸諸都市を拠点として海上交易に従事した民族。通常は、北はエレウテロス川から南はカルメル山あたりまでをさすが、時代によりその地理的範囲は一定していない。フェニキアは、政治的には統一されたことがなく、北からウガリト(現ラス・シャムラ)、アルワド、ビブロス、ベリトス(現ベイルート)、シドン(現サイダ)、ティルスなどの沿岸諸都市を中心に都市同盟を形成し、早くから海上交易を活発に行った。フェニキア人は単一民族ではなく、ヘブライ人、アラム人とともに北西セム系に属し、混血が進んだ。
[高橋正男]
地理的にはメソポタミアとエジプトとの接点にあたり、クレタ文明の影響も受けた。フェニキア人の民族としての発祥地についてはまだ判明していないが、その歴史は、紀元前3000年紀の中葉に、古王国時代のエジプトがレバノン杉を求めてビブロスに交易基地を設けたころにさかのぼる。エジプトとの交易に次いで前二千年紀に入ると、民族移動の影響で混乱し、その中葉ころにはアーリア系、フルリ系、セム系の小都市国家群が分立した。アルファベットの祖型が成立したのもこのころである。前14世紀のアマルナ時代を中心として、オリエント諸国の交易活動が盛んとなり、エジプトにかわってフェニキア諸都市が列強の影響のもとに独自の文化を生み出した。当時の交易の中心はウガリト、ビブロスなどであった。交易品目は『ウガリト文書(もんじょ)』に詳しく伝えられている。いずれにせよフェニキアは列強の間にあって巧みに生き延びた。前13~前12世紀のエーゲ民族の移動により、諸都市は一時衰えたが、まもなくティルスを中心に再興し、各地に植民市(商館)を建設するなどして繁栄を取り戻し、地中海交易を独占した。とくに西地中海、アフリカ北岸のウティカ、カルタゴ、スペインのガデス(現カディス)などに植民市を建設し、この間に東方文明を西方世界へ伝えるという重要な文化史的役割を果たした。このころ彼らの最大の文化遺産であるアルファベットが国際交易を通じてギリシアに伝えられた。ちなみに、カルタゴはティルスが建設した植民市で、本国が衰えたのち、その植民諸市の支配者となった。ティルスの王ヒラム1世はイスラエルの王ソロモン(前10世紀)と経済条約を結んでエルサレム神殿の建設を援助し、ついでともにアカバ湾沿岸のエツィオン・ゲベルから黄金の国オフィル(南アラビアともソマリランドともインドともいわれる)まで通商隊を派遣した。彼らが大西洋岸に達したのもこのころであった。前7世紀には、優れた航海術で地中海交易の覇権を掌握したフェニキア人は、エジプト王ネコ2世の命により、およそ2年半を費やして西回りでアフリカ一周航海に成功した。フェニキア諸都市の政体は王政がもっとも古い政体で、国王(都市の首長)は王家に属する者から選ばれた。国王の権力は祭司と富裕な商人層の制約を受けていた。ビブロス、シドン、ティルスには長老からなる国王の諮問機関が付属していた。フェニキアの政治的独立は短く、前9世紀に、アッシリア王アッシュール・ナシルパル2世がティグリス川から地中海に至る全域を征服し強大になると、フェニキア諸都市はしだいに勢力を失い、アッシリア、エジプト、新バビロニア、ペルシアの支配を受け、やがてローマの属州となり、前146年、ローマ人のカルタゴ占領とともに、フェニキア人は史上から消え去った。
フェニキア人は、レバノン杉と松材、精製亜麻(あま)布、ティルスの深紅染め布、シドンの刺しゅう、金属製品、ガラス、ぶどう酒、塩、干魚などをエジプト、アナトリア、アフリカ、エーゲ海、さらに西地中海の国々へ輸出し、その見返りにパピルス、象牙(ぞうげ)、黒檀(こくたん)、絹糸、こはく、ダチョウの卵、香味料、香料、馬、金、銀、銅、鉄、錫(すず)、宝玉、宝石などの原材料を持ち帰った。また美術工芸にも長じ、それらの製品を交易路を介して東方や地中海沿岸各地に伝えた。
[高橋正男]
フェニキアの宗教は、これまで『旧約聖書』のなかの断片的な記述による以外ほとんど知られていなかったが、『アマルナ文書』および『ウガリト文書』の発見、解読、研究により、聖書以前のフェニキア・カナーンの宗教生活の実態が明らかにされた。その中心は生産の豊穣(ほうじょう)を祈る農耕宗教であった。フェニキア人のパンテオンの最高神はエルで、その配偶神はアシェラであった。シドンではバアル(「主(しゅ)」「所有者」の意。肥沃(ひよく)神)が拝されていたが、これは『ウガリト文書』のなかにもしばしば言及されており、『旧約聖書』のなかではカナーンの神として登場する。バアルは、バアル・ツァフォン、バアル・シャミイム、バアル・レバノンなどの名で拝されていた。このほか、ダゴン(魚神)、ハダド(雷神)、メルカルト(市の守護神)、アシタロテ(シドン人の女神、ビブロスの女神)などが拝されていたが、いずれも北西セム人に共通な神々であった。『旧約聖書』の宗教は、フェニキアの宗教に対して自らをはっきりと区別し、フェニキアの商業優先の倫理に対して激しく反発していた。
[高橋正男]
フェニキアの美術は、その本拠地がエジプトと小アジアの接点にあたり、また西に向かって海が開けていたために、各地域の美術の混合・折衷が著しい。しかし、その位置的関係から、基本的にはシリア・パレスチナ美術と同じ性格であり、その変遷は諸都市国家の盛衰と対応している。
フェニキア人の生業は海上交易であったので、美術活動も、原料を輸入して加工する工芸品製作に特色があり、染色、木工、金属・ガラス・象牙(ぞうげ)などの細工物に優れた装飾性を示している。とくにガラス工芸はフェニキアの特産の一つで、それまでのコア・ガラス、型抜きガラスのほかに、紀元前1世紀中ごろにシリア沿岸地方のガラス製作地で、吹きガラスが創案されたと推定されている。また、地中海産の巻き貝からとれる染料を用いた美しい紫色の織物、金銀の皿、精巧な象牙細工などは、古代世界で非常に珍重された。建築や彫像などは、略奪や破壊を受けてほとんど現存しない。しかし、きわめて優れた航海民族フェニキア人によって、地中海各地の美術の交流が促進されたことは、とくに意義深いことである。
[友部 直]
『W・キュリカン著、村田数之亮訳『地中海のフェニキア人』(1971・創元社)』▽『C・H・ゴールドン著、柴山栄訳『聖書以前』(1967・みすず書房)』
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…慣用ではフェニックスPhoenix。(1)フェニキア王アゲノルAgēnōrの子。ゼウスにさらわれた妹エウロペの捜索を父王に命じられ,兄弟のカドモスらとあてのない旅に出たが,ついに見つけられなかったため故国には帰らず,シドン(またはテュロス)に定住して王となった。…
※「フェニキア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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