翻訳|Sahara
アフリカ大陸北部にあり,地球上で最も広く,最も乾燥した砂漠。その範囲は,周辺の半砂漠地域を含めると,西は大西洋岸から大陸を横断しナイル川を越えて東は紅海岸まで,北は地中海岸あるいはアトラス山脈南麓から北緯14°線のスーダン地方まで,東西5600km,南北1700kmに及び,総面積約1000万km2とアメリカ合衆国の広さに匹敵し,アフリカ大陸の3分の1を占めている。サハラの名はアラビア語の荒れた土地を意味するサフラーṣaḥrā’に由来し,アラビア語で正しくはal-Ṣaḥrā'al-Kubrāと呼ぶ。
第2次大戦後,砂漠の各地で豊富な地下資源が開発され,大国がこの地域に高い関心をもつようになった。また近年,人口増加により植生の破壊が進み,サハラ砂漠周辺での砂漠化の進行が問題になっている。なお狭義のサハラ砂漠として,東部のリビア砂漠を除いたものをいう場合がある。
世界の砂漠は南北両半球の緯度30°線に沿う亜熱帯高圧帯に分布するが,サハラ砂漠もその例外ではなく,北大西洋高気圧(アゾレス高気圧)に年中覆われ砂漠となっている。大陸の西側に高い山脈がないこと,東のタクラマカン高気圧と連動していることが,アラビア半島からタール砂漠に連なる,他に例のない巨大な砂漠帯を生じているといわれる。レガヌReggane,イン・サラーIn Salah(アイン・サラーフ),アスワンなど,中央部には年間を通じほとんど降雨がなく,植生のまったくない赤茶けた極乾燥地域が広がっている。この極乾燥地域はオーストラリアの砂漠にはなく,他の砂漠にも小面積しかない。その周辺には1ヵ月程度の雨季のある(年降水量80~200mm)乾燥地域が分布し,その外側に3ヵ月程度の雨季のある半砂漠のステップ地域が続いている。雨量は年による変動が大きく,しかも集中して降り,ワーディー(涸れ川)で奔流をなすが,すぐ地下に浸透したり,蒸発してしまう。
全体に夏季は高温になり,とくに内陸部では日中は日陰でも50℃以上という耐えがたい温度になる。夜は急速に熱を放射するため気温が低下し,日較差がきわめて大きいのが特徴である。冬は北回帰線より北の地域ではかなり寒くなり,1月には日中でも10℃以下になる。とくに高地では夜0℃以下に下がる。温度の変化が急激なためサハラ砂漠では岩石の風化が著しい。南部サハラの冬は適度に涼しくなり,しのぎやすくなる。西部のモーリタニア海岸では,カナリア海流(寒流)の影響で年中比較的しのぎやすい。
サハラ砂漠は平均して標高300mの台地から成るが,海面より低いジャリード塩湖Shaṭṭ al-Jarīdや標高3400mのティベスティ山地もある。基盤岩は古い先カンブリア紀の結晶質岩で,それを若い時代の堆積物が覆っている。白亜紀にはサハラは沈水していたので,この時代の石灰岩,砂岩が広く分布している。サハラの代表的自然景観として砂(すな)砂漠,台地砂漠,山岳砂漠の三つがある。砂砂漠は細砂が風により盆地などの低地に集まり,エルグergとよぶ砂丘列を形成しているもので,東部大砂丘,西部大砂丘などがある。エルグは砂漠の典型のように思われているが,サハラでは総面積の14%を占めるにすぎない。最も広い面積をもつのはタデマイト高原のような台地砂漠である。台地の表面は岩盤が露出して岩石砂漠になるか,岩盤上に固い砂礫層がのる平たんな礫(れき)砂漠(レグreg)になっており,自動車が高速で走行できる。山岳砂漠はアハガル山地,ティベスティ山地,アイル山地など,火山性の山地が代表例で,他の場所より降雨がやや多く,気温の日較差,年較差ともに大きい。そのため風化,浸食が激しく,タッシリTassiliのような奇怪な山容を見せる。オアシスは,水の得られる山麓,台地の縁辺,盆地の周辺,ワジ(ワーディー)などに発達する。
サハラを国土に含むのはモロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア,エジプト,モーリタニア,マリ,ニジェール,チャド,スーダン,そして西サハラである。サハラでの国境は植民地分割の際,イギリス,フランスなど列強の都合で地図上に引かれたため,直線が多く,不明確なものもあり,民族の分布や地下資源の存在がからんで,独立後も紛争の種となっている。古くからのキャラバン・ルートは危険なエルグを避け,目標がとりやすく水も得やすい山岳砂漠や山麓を通っていた。20世紀に入り自動車交通の時代になると,エルグと山岳を避け,台地砂漠や山麓を通るルートに変わった。第2次大戦中各地に空港が造られたため,近年サハラの人々の移動は空路を利用することが盛んになった。
第2次大戦後,不毛の砂漠から地下資源が開発され,一躍注目を浴びるようになった。おもなものは石油・天然ガス(アルジェリア,チュニジア,リビア,エジプト),鉄鉱(モーリタニア),ウラン鉱(マリ,ニジェール),リン鉱(モロッコ,チュニジア,エジプト,西サハラ)で,パイプライン,鉄道,自動車で海岸へ運ばれている。リビアはかつて最貧国であったが,石油の輸出によりアフリカ最高の所得の国となった。このため,各国は地下資源の開発を基礎とした国づくりを考え,地下資源の探査に力を入れている。
執筆者:藤井 宏志
サハラがまだ湿潤で草食獣が生息できたころのようすは,タッシリ・ナジェール,アハガル山地,エネディなど,サハラ各地に残る岩面画によってうかがうことができる。ゾウやキリンの絵,カモシカなどを弓矢で追う狩人,仮面をかぶって踊る人,ウマやウシに引かせた二輪車に乗る人,大きな角のウシを追う牧人等々が描かれている。
石器の上からは,不明な点の多い旧石器時代のあと,石鏃を中心とする細石器が著しいカプサ文化(いまのチュニジアのあたりが中心),握りのついた磨製石斧に特徴のあるテネレ文化(エジプト西部が中心),骨や象牙を使った銛や装身具も含むスーダン文化(ナイル中流あたりが中心)などの新石器文化が認められる。
(1)アラブの侵入以前のベルベルと総称される住民,(2)西アジア起源のアラブ,(3)ムーア人(モール人)と総称される著しくアラブ化された住民,(4)サハラ以南起源の黒人,の四つに大別できる。(1)ベルベルの語源は不明であるが,古代ローマ人が北アフリカの住民を指したバルバルスbarbarus(異人),あるいは北アフリカの住民の一集団の名Bavaresがアラブを経て受け継がれたらしい。実際はさまざまな集団を含み,身体特徴も言語も起源も一様ではない。アルジェリア山地のカビール,モロッコの山地のシュレウ,アルジェリアのオアシスのムザブなどは,現在まで古い文化を守っている集団である。ベルベルの中には,コムギやナツメヤシを栽培する農耕民や,トゥアレグ族のようなラクダの遊牧民もいる。(2)アラブは,7世紀に新しい宗教イスラムをもってエジプトからモロッコまで侵入したものと,11世紀以後大挙して移住したベドウィンに分かれる。とくに後者のヒラル族の子孫を自称する集団もあるが,長い間に先住民との混血がすすんで,明確な区別はつけにくい。(3)アラブ化された先住民,とくにアラブのハッサニア方言を話す住民はモール人,ムーア人などと総称される。これは北アフリカに進出したフェニキア人が,北アフリカ西部の住民を指して用いた呼び名であったが,しだいに適用範囲がひろがり,地中海北側のキリスト教国からは北アフリカの異教徒一般を指すのに用いられるようになった。(4)黒人は,奴隷としてサハラのオアシスの農耕のために,サハラ以外から連れてこられ,そのまま定着したものが多い。
サハラの文化史上とくに重要な意味をもったのは,サハラを南北に縦断するラクダのキャラバンの交易である。砂漠は海と同じように,その両側の地域を隔てると同時に無媒介的に結びつける役割も果たす。ラクダは砂漠の舟にたとえられるだろう。その交易は,イスラム化したアラブが北アフリカの西端に定着した8世紀くらいから盛んになり,16世紀末まで,サハラ南端の黒人帝国の興亡とも密接な関連をもった。輸送に携わったのはムーア人やアラブ系のラクダの遊牧民で,数千頭,ときには2万頭ものラクダのキャラバンがサハラを越えた。8~11世紀のおもな交易路は砂漠の距離の比較的短いサハラの西端を通っていて,モロッコとガーナ王国(いまのモーリタニア南東部が中心)を結んでいた。北からは,ウマ,装身具,衣類,そしてとくにサハラ北部(イジル,タガザなど)の岩塩がもたらされ,南の黒人の国からは金,奴隷,象牙,香辛料などが運ばれていった。11世紀のアラブの地誌家バクリーの記述にも,ガーナで塩と金の交易に王が課税していたことが述べられている。
乾燥化とムラービト朝の攻撃によって11世紀末にガーナが衰退したあと,これより東のニジェール川大湾曲部を中心にマリ帝国が興り,14世紀を頂点として,やはり塩と金の交易をおもな経済的基盤として栄えた。金の主産地のセネガル川上流やニジェール川上流の山地は舟運で砂漠地方と結ばれていたが,ニジェール川が北へ向かって張り出した,いわば砂と水の結節点に交易都市トンブクトゥが生まれ,〈黄金の都〉としてヨーロッパにまで知られた。15世紀末から16世紀にかけてはマリ帝国に代わって,さらに版図を拡大したソンガイ帝国の保護のもとに,塩と金の交易はいっそう栄えた。マリ,ソンガイの時代を通じてサハラから岩塩を供給したのはタガザの塩床であるが,その採掘権をめぐる紛争がもとで,サード朝モロッコのスルタンは西アフリカにまだ知られていなかった銃を装備した軍隊を送って,16世紀末ソンガイを滅ぼした。当時ほとんど掘り尽くされていたらしいタガザに代わって,その少し南のタウデニの塩床から岩塩が採掘されるようになり,タウデニとサハラの南の黒人社会を結ぶキャラバン交易は,現在まで続いている。
ほかに,チャド湖周辺のカネム・ボルヌー帝国とリビアを結ぶ交易,さらに東のダルフール王国とキレナイカ(現在のリビア東部)やエジプトを結ぶ交易も14世紀ころから行われた。また16世紀以後は北アフリカに進出したオスマン・トルコを通じて,西アジアとサハラ以南のアフリカの交流にサハラ砂漠は大きな役割を果たした。
執筆者:川田 順造
サハラ砂漠の山岳地帯には岩面彩画・刻画が広く分布し,〈サハラ美術Saharian art〉とも呼ばれる。これらはタッシリ・ナジェール,ホガールHoggar,南オラン(以上,アルジェリア),アドラール・デジフォラス(マリ),アイールAïr(ニジェール),ティベスティ山地,エネディ(以上,チャド),フェッザーン(リビア),アドラール・ド・モーリタニー・エ・ストゥーフAdrar de Mauritanie et Stouf(モーリタニア),南モロッコの各地に遺存する。彩画は岩陰の壁面に描かれ,刻画の多くは独立した岩塊に施されている。中石器時代から11~12世紀にアラブの侵入を受けるまで約1万年にわたって制作し続けられ,気候や生活様式の変化,住民の交代に伴って岩面画の主題や様式も変わり,次の6期に大別される。
(1)古拙時代 刻画が多く,主題はゾウ,カバ,レイヨウ,スイギュウ,サイ,ワニなどの野生動物が単独に大きく表される。岩面画遺跡からカプサ文化後期の石器が見いだされるから,この期の刻画は中石器時代に属すると思われる。
(2)狩猟民の時代 野生動物や人物を単独またはグループで表した新石器時代の彩画や刻画で,前6000~前4000年ころのもので,作者は黒人と考えられる。その理由は,身体に瘢痕(はんこん)を施した人物像があること,仮面および仮面をかぶった人物像が見いだされることである。すなわち瘢痕も仮面も黒人の風習であり,サハラに住む牧畜民には見られないからである。この時代の人物像の特徴は,頭部が丸く,顔には目鼻が表されないことである。そのため〈円頭人物様式時代〉とも呼ばれる。身体はずんぐり型で,腕にくらべ脚が短い。女性は横向きで,しばしば臍が誇張して表され,小さな円錐形の乳房が1ヵ所に並べて描かれる。末期に,巨大な人物像が現れ,赤い輪郭線の内側に白色を平塗りしたもので,セファールSefarには高さ8mの作例がある。これらの人物のなかに両手を上に伸ばしたり,両手を合わせて祈るようなポーズの人がおり,なんらかの宗教的意味がこめられていると思われる。
(3)ウシの時代 ウシおよびヒツジの牧畜が行われた時代のもので,放牧,狩猟,抗争,舞踊などの光景のほか,会話する人物や交接する男女,炊事,まき割り,寝台に寝る人など,さまざまな生活の情景が表される。作者はフルベ族と考えられる。その理由は,ウシ飼育,半球形の家,弓矢などの武器のほか,男の丸い帽子,女の髪形,一夫多妻制など,両者に共通する多くの事実が存するからである。フルベ族の起源には諸説あるが東アフリカ出身説が強く,サハラがまだ牧草に覆われていた前4000年ころ,ウシの群れを伴って東からサハラへ移住してきたとされる。2000年以上もタッシリ・ナジェールなどの山地に住み,乾燥が始まった前2千年紀の中ごろにニジェール河畔方面に移動し始めた。
(4)ウマの時代 やがてサハラ各地の岩面画でウマが中心的主題となる。これらのウマはすべて狩猟用および戦闘用であり,はじめは車につけて用いられ,後に騎乗されるようになった。二輪車を引く2頭のウマは四肢を前後に長く伸ばして疾駆するという,独特の飛走のポーズをとる。このような表現はエジプト美術様式ではなく,地中海のミュケナイ美術の様式に属する。また,前1200年ころクレタから発した人々がエジプト攻撃をもくろんでキュレネ地方に上陸し,そこでリビア人と混血したことがある。このような事実から,ウマはクレタ人によって前1200年ころにサハラにもたらされたと考えられる。ハム系言語を話し,ウマと二輪車を所有するこの新民族は,前1000年ころまでにサハラに定着した。ベルベルは彼らの直系の子孫である。ヘロドトスの《歴史》に,ガラマンテス人Garamantesが4頭立ての馬車で黒人の狩りをするという記述があるが,このガラマンテス人は遊牧ベルベル,つまり現在のトゥアレグ族の祖先である。これらの馬車の絵をたどると,地中海のシルト湾からニジェール河畔のガオ近くまでたどることができる。
(5)ラクダの時代 サハラの乾燥が激化するに伴い,ウマよりも乾燥に強いラクダが前2000年ころから飼われるようになり,岩面画にも現れる。初期のラクダの岩面画はかなり写実的であるが,後期のものは形式化している。このような形式化とともに,2種の文字,すなわちサハラ文字と古代ティフィナグ文字が現れる。これらの文字は〈ウマの時代〉末期に現れたリビア文字から派生したが,少し形が変化した。
(6)アラボ・ベルベル時代 11世紀以後のイスラム教徒のアラブとベルベルの共存時代で,ラクダや人物やティフィナグ文字のほかに,アラビア文字が岩面画に現れる。しかしその形式はくずれている。
執筆者:木村 重信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アフリカ大陸の北部一帯に広がる世界最大の砂漠。サハラという名称そのものが、アラビア語でとくに「平坦(へいたん)な砂漠」を意味している。面積は860万平方キロメートルで、世界の砂漠面積の約26%を占める。その広がりは東西方向に約5000キロメートル、南北方向に約2000キロメートルある。すなわち、東側はナイル川の下流部の西方に広がるリビア砂漠、ナイル川中流部の東方に広がるヌビア砂漠に至る。北側はモロッコ、アルジェリア、チュニジアにまたがり地中海沿岸の海岸線と並走し、部分的に標高4000メートルを超えるアトラス山脈の壁があり、その東方はリビア、エジプトにまたがって地中海に面する。南側は西からニジェール川の排水盆、チャド湖の湖盆、スーダンのナイル川中部の排水盆で境される。西側はほとんど大西洋沿岸付近(西経17度)まで広がっている。
[堀 信行]
砂漠全体が平均して標高300メートルほどの台地で、中央部に三つの火山性の山塊ないし高地が存在する。その西側のものは、アルジェリアにあるアハガル山地で、タハト山(2918メートル)やアセクレン山(2377メートル)などがある。アハガル山地の東のニジェール側にアイル山地が続き、さらにその東のチャド北部にティベスティ高原がある。ここにはサハラ砂漠中でもっとも高い山エミ・クーシ山(3415メートル)がある。一方、サハラ砂漠の最低部はアルジェリアの北東部とチュニジアに集中している。たとえばメルリル塩湖の最低所は標高18メートルであり、ほかにジェリド塩湖などの塩湖が局地的な凹地部に存在する。なおエジプトの北西部、リビア砂漠の北端部にあるカッターラ低地は海面下133メートルに達する。サハラ砂漠の地形は、風の作用による砂丘地形によって、文字どおり砂の砂漠で埋まっていると考えがちである。しかし実際の砂漠は多様な姿をもち、サハラ砂漠でも、大きく、砂砂漠sandy deserts、礫(れき)砂漠stony deserts、岩石砂漠rock desertsに分けられる。アラビア語でそれぞれに対応したことばがあり、砂砂漠をエルグerg、礫砂漠をレグreg、岩石砂漠をハマダhammada、そのとくに大規模なものはハドバhadbahという。具体例をあげると、砂砂漠はアルジェリアでは大西部エルグ、大東部エルグや、エジプトとリビアの国境にあるリビア・エルグなどがあり、砂丘砂がさまざまの形状を示しながら移動している。岩石砂漠の例は、リビアのトリポリタニア南部のハマダ・エル・ハムラなどである。以上の三つの形態の相互関係は次のように理解するとわかりやすい。砂や礫は堆積(たいせき)物であるからそれの供給源がかならずある。砂礫は母岩としての岩石に由来する。それゆえ砂漠の各形態の空間的な配列は、砂礫の供給地として岩石砂漠が中央に位置し、その周辺に堆積域として礫砂漠、砂砂漠が分布する。このうち、礫は熱による機械的風化や風食によっても生産されるが、大部分は水の侵食により移動、堆積したものなので、礫砂漠もそのような作用があった地域に限られる。それに対し、砂は風によって移動をすることもあり、また水による運搬作用も受けやすく、より遠方に達する頻度が高い。このため、より周辺部に砂砂漠が分布する。
それではサハラ砂漠を構成する砂・礫砂漠の砂礫はいかに侵食、運搬、堆積されたのか。この鍵(かぎ)を握るのがワジWadiとよばれる涸(か)れ川の存在である。たとえばアハガル山地周辺にはテマンラセット・ワジ、タファサセット・ワジ、イガールガール・ワジなどがある。このほかニジェール川へかつて続いていたとみられるアザワーク・ワジ、チャド湖へ続くバハール・アル・ガザール・ワジ、ナイル川沿いにはアル・ミルク・ワジなど多くある。幾筋もサハラ砂漠中に存在するワジは、現在でも年降水量は250ミリメートル以下で、大部分は50ミリメートル以下の所が多い。またその降雨もまことに不規則である。まれに降雨があると豪雨となり、水流が存在することが一時的にある。しかしワジの谷地形からみて、かつては現在よりもはるかに多くの水量をもってほぼ定常的に流れ、多量の砂礫を移動、堆積させたようである。このような状況が生じたもっとも新しい時代は、最終氷河時代が終わった1万年ほど前から始まり、8000~6000年前ごろに最湿潤期を迎えたようである。その後ふたたびサハラは現在へ向かって急速に乾燥化を進行させてきた。最湿潤期にはワジに水流があり、カバやワニや魚がすみ、サハラには草木が生え、サバナからステップの景観を呈し、山地周辺には地形性降雨もあって森林に近い状態も存在したことが予想されている。緑化したサハラ砂漠にゾウやキリンをはじめ多くの動物がすみ、人々は狩猟をした。このようすがいまでも岩壁画に描かれ、また伝承として残っている。さらに、これらの諸動物の化石や当時の生活の遺物が堆積物の中から発見されている。この劇的な環境の変遷は、現在の広大な砂漠の景観からは信じがたいほどである。サハラ砂漠の変貌(へんぼう)を知ることにより、民族や言語の分布の理解に新たな視点を与えることになり、今後多くの研究が出るであろう。
ところで、現在のワジの地下に部分的に水流が存在し、オアシスが形成される。オアシスの周辺にはナツメヤシをはじめ穀物、野菜、地中海性果実が栽培されている。また交通上もオアシスが結節点となる。オアシスを除けばワジの河床などにわずかにアシャブashabとよばれる乾性植物景観がみられるのみで、あとは、年降水量が250ミリメートル以上ある高地で、アカシアやギョリュウなどが生えている。砂漠気候下では、雨量のほかに温度条件が植物の生育を左右する。空気が乾燥し地表面からの熱放射が大きいため気温は50℃を超え、砂上では70℃ほどにも達する。また気温の日較差も大きく、ときには50℃にもなり、夜間には氷点下に下がることもある。このような温度条件も植生の繁茂を阻止しているのである。一方、風は種々の砂丘地形をつくるとともに、サハラ砂漠周辺地域へ多量の砂塵(さじん)を吹き上げながら吹き出す。これらの風には、シロッコ、シンムーン、カムシン、ハルマッタンなどの地方名がつけられている。
[堀 信行]
世界の乾燥地域で現在起きている環境問題が砂漠化である。国連環境計画(UNEP)の報告書によれば、1972~1982年の10年間に世界中で毎年6万平方キロメートル(九州と四国をあわせた面積より広い)の割合で砂漠化が進行しているという。このうちサハラ砂漠の南縁一帯のスーダン・サヘル地域の15か国では毎年6~12平方キロメートルの農地が失われたという。進行する砂漠化の背景には、地球上全体の気候変化もあるが、今後の研究にまつ面が多い。直接的には人為的影響は無視できず、とくに過放牧、薪炭用や住宅建設用の樹木の伐採が注目される。アフリカのヒツジやヤギなどの家畜は1955~1976年の間に44%増加したという。またサハラ砂漠の周辺は先述の環境変遷と関係して、当時の沼沢や湿地に細粒のシルトや泥、珪藻土(けいそうど)などが堆積している。このような土地は人為的な影響で裸地化すると、サハラから吹き出す風によって表層の細粒物質は容易に動かされ、かつまた舞い上がりやすい。土地条件が元来このような性格をもっていることが砂漠化を促進させる一つの要因ともなっている。
[堀 信行]
サハラ砂漠の地下資源として以前から知られているものは、塩(ニジェールのビルマ)やアトラス山脈の石炭、さらに銅、マンガンなどがある。このほか石油では、たとえばアルジェリアのハッシ・メサウドやハウ・エル・ハムラと地中海沿岸のブージーを結ぶパイプライン(約660キロメートル)、あるいは内陸のエジェレやザルザイティンなどとチュニジアのガベス湾、ラ・スキラを結ぶパイプライン(約780キロメートル)がある。天然ガスは、アトラス山脈の南側のハッシ・ルメルなどから地中海沿岸のアルジェ西方にあるアルズーまでパイプラインで結ばれている。こうした資源開発も砂漠化の人為的影響の一部になっているが、アルジェリアやリビアの資源開発の経済的意義は大きい。
[堀 信行]
砂漠の中にあって唯一肥沃(ひよく)な空間はオアシスである。そして人々は交易などを目的にオアシスからオアシスへ移動をする。歴史的にも由緒あるオアシスのおもなものを列挙すると、エジプトではシワ、ファラフラ、ダハラ、リビアではクフラ、ジュフラ、ジラー、アルジェリアではビスクラ、ゴレア、イン・サラーなどである。
これらのオアシスを結ぶ交易ルートは、サハラ砂漠の南北地域を結ぶ網の目のように発達した。交易の対象となったものは、サハラ砂漠中の塩類(ミョウバン、カ性カリなど)と、西アフリカの金、銅、錫(すず)、宝石、コーラの実などであった。とくに塩は「砂漠の船」ともいわれるラクダで往路南へ運ばれ、復路は先述の金などが北へ運ばれた。交易の拠点として、サハラ砂漠の南縁部には、8世紀ごろからガーナ王国やソンガイ王国、さらにマリ王国などが成立し、その中心都市トンブクトゥは14世紀には商人のみならず学者、宗教家などが集まり、アラブの学芸、文化が普及した。ヨーロッパ諸国による植民地化が激化する直前に、サハラ砂漠にも有名な探検家が訪れている。1795~1796年と1805~1806年にはニジェール川中・上流部をマンゴ・パーク、1827~1828年にはモロッコからサハラ西部を南北にルネ・カイエ、1850~1855年にはサハラの中央部一帯とチャド湖、ニジェール川中流部にハインリヒ・バルトなどである。結果的にこれら探検家によってもたらされたアフリカ内部の情報は、その後のヨーロッパ諸国のアフリカ植民地の獲得競争とアフリカの分割を推進した。
[堀 信行]
いままで述べてきたことでもわかるように、サハラ砂漠の地域にもさまざまな人々が住み、それぞれの言語を話している。この地域では既述したように大きな環境変遷とともに、人々の移動と定着が繰り返されてきた。このためにアフリカ大陸でもこのサハラ地域が人類学的にも言語学的にももっとも不明の点が多い所になっている。アメリカの言語学者ヨゼフ・グリーンバーグJoseph H. Greenbergの分類によれば、サハラ砂漠に住む人々は大きくアフロ・アジア語族とナイル・サハラ語族に大別される。古代エジプト語やベルベル語を含むアフロ・アジア語族は東はナイル川およびその周辺地域、地中海沿岸、サハラ砂漠の西半分一帯に分布する。この語族のほとんどはセム語グループでアラビア語を話す。ただし内陸部のタッシリ山地、アハガル山地一帯にはベルベル語グループが分布する。このグループは、前者のセム語グループの分布域であるモーリタニア、モロッコ、アルジェリア、マリ、ニジェールの諸国に島状に分布し、タマシェクTamasheq、ゼナチZenatiなどとよばれるグループからなる。一方ナイル・サハラ語族は、前述のアフロ・アジア語族に取り囲まれるように、サハラ砂漠中央部のティベスティ高原の南部周辺地域に分布する。ナイル・サハラ語族でもこの地域はサハラ語グループとよばれる人々で、ニジェール、ナイジェリア、チャド、カメルーン諸国にまたがるカヌリKanuri、ニジェールのカネンブKanembu、ニジェールやチャドの国々にまたがるダザDaza、チャド、スーダンにまたがるザガワZaghawaなどとよばれるグループからなる。
サハラ砂漠は表面的には、人々の住めない不毛の地の印象を与える。しかしこうして数千年以上にわたる自然環境の変遷と、それに呼応する人間の移動や生活様式の変化をたどってみると、むしろこの砂漠にこそ、アフリカの自然や文化にまたがる謎(なぞ)を解く鍵が秘められていることがわかる。この意味において文学や映像文化によってかき立てられるロマンとともに、最近は学術的にもきわめて強い関心が寄せられている。
[堀 信行]
『山下孝介編『大サハラ』(1969・講談社)』▽『西岡香織著『大サハラ〈京大探検隊とともに〉』(1969・サンケイ新聞出版局)』▽『野町和嘉著『サハラ縦走』(1977・日本交通公社出版事業局)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…赤道をはさんで同心円状に,熱帯雨林,サバンナ,砂漠,地中海気候帯と多様な自然をもっている。サハラ砂漠をはさんで,北は西アジア・地中海世界とひとつづきのハム・セム系の文化をもつ白人(コーカソイド)が支配的な白人アフリカ,南は,ピグミーやコイサン(サン,コイ・コイン)の非黒人先住民と,おそらく北西部から移住拡散した黒人(ニグロイド)の世界,すなわち黒人アフリカである。規準のとり方にもよるが,黒人アフリカだけで800近い異なる言語が話されているといわれる。…
…一般には,この狭い意味でのマグリブが用いられることが多いので,ここでもそれを中心に述べるが,必要に応じてリビアや西アフリカにも言及することにする。
[自然]
マグリブの自然を特徴づけるものは,地中海,大西洋,アトラス山脈,サハラ砂漠の四つである。マグリブの北と西を囲む地中海と大西洋とからは,雨と温暖な空気がもたらされ,南部の広大なサハラ砂漠からは,乾燥した熱風が吹き込んでくる。…
※「サハラ砂漠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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