イスラム教シーア派の高名な法学者、大アヤトッラー(シーア派最高宗教指導者の称号)の一人であり、イラン・イスラム共和国の初代最高指導者。イラン中部アラーク市近郊のホメイニ村で生まれ、父は宗教指導者で地主であった。アラーク、コムの神学校でハーエリ・ヤズディ師a'erī Yazdī(1859―1937)に学ぶ。1922年の同師のコムへの移動とともにコムに移り、1936年コーラン解釈権の認められるムジュタヒドに昇格した。1961年にはアヤトッラーであるボルジェルディーusayn Burūjirdi(1875―1961)死去後、書物を出版しアヤトッラーの資格を得て、過激なイスラム主義の指導者としての地位を確立した。1963年にはパーレビ(パフラビー)国王の農地改革と弾圧政治に強く反対したため、逮捕された。翌1964年4月には釈放されたが、反対運動を再開したため11月にトルコのブルサ市に追放された。1年後、シーア派の聖地、イラクのナジャフに移り、親西欧的なパーレビに反対しイラン建国2500年祭を非難した。1970年に『イスラム政権――神権政治論集』を出版し、同著書は革命後のイラン政治体制の礎(いしずえ)となった。1975年イランが一党制になったことへの批判を強め、巡礼者を通じたホメイニの演説テープの流入がイラン革命の引き金になった。1978年には反パーレビ演説を行ったため、イランと関係改善を希望したイラクのサダム・フセインにより追放され、11月にパリに移動した。1979年2月、イラン・イスラム革命の勝利によって帰国した。
革命後に、最高指導者となったホメイニは、穏健派のバザルガン、バニサドルAbū al-Hasan Bani Sadr(1933―2021)を解任し、強硬な原理主義を貫いてイスラム体制を維持強化した。同時に、穏健派と強硬派を交互に調整し新体制を維持した。しかし、1987年にはイスラム共和党を解散させ、翌1988年7月に国連決議を受け入れ「毒を飲むよりつらい」と表現しつつ、イラクとの停戦を受諾した。この時期、イラン経済は革命以来もっとも深刻な事態に陥っていた。1989年の死去後、その後継はハメネイが選ばれ、コム郊外にはホメイニのための大きな廟(びょう)がつくられた。
[加納弘勝 2018年4月18日]
『共同通信社訳・刊『ホメイニわが革命』(1980)』▽『H・ヌスバウマー著、アジア現代史研究所訳『ホメイニー』(1981・社会思想社)』▽『加納弘勝・駒野欽一著『イラン1940―1980 現地資料が語る40年』(1982・中東調査会)』▽『富田健次著『アーヤトッラーたちのイラン――イスラーム政治体制の矛盾と展開』(1993・第三書館)』
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