日本大百科全書(ニッポニカ) 「イラン革命」の意味・わかりやすい解説
イラン革命
いらんかくめい
1979年2月11日、パフラビー王朝が崩壊し、イランが共和国として再生した革命。革命の過程については「イラン」の項に譲り、ここでは主として、この革命が現代世界の新しい革命の姿である点について述べる。イラン革命は、反王制国民運動の発展から革命後の国家理念に至るまで、イスラム・イデオロギー(とくにイスラム原理主義)に貫かれており、イラン側ではイスラム革命とよんでいる。イスラムが現代世界の変革のイデオロギーとして重要性をもっているのは、現代世界の矛盾の焦点の一つが中東であり、そこで疎外と抑圧を味わい、しかも圧倒的にイスラム教徒である人々に、イスラム原理主義が解放の展望を与えているからである。その典型例がイラン革命であるといえよう。
第二次世界大戦後のパフラビー王朝の歩みは、米ソ冷戦下でのアメリカの支援と莫大(ばくだい)な石油利潤とに安定基盤を求め、国民に対しては弾圧政治に終始してきた。1962年以来の「白色革命」や、70年代の法外な石油利潤をてことする近代化は、新興特権階層の台頭を促す一方、農村や都市の商工業バザールの破産をもたらし、急膨張する都市化のなかで民衆は疎外と抑圧を受けるようになった。王朝の繁栄とは裏腹に、同国は秘密警察サバクが支配する暗黒政治に覆われていた。
イラン国民の大半が属するイスラム教シーア派の宗教指導者層ホメイニらは、国民の窮状をイスラム教徒の共同体(ウンマ)の危機ととらえた。彼らは、本来のイスラム原理に基づくウンマの再生と結び付けて王制打倒を国民に提唱、反国王運動の先頭にたつことになった。イラン左翼勢力は、イスラム原理主義によるイスラム的正義と公正の実現を訴えるイスラム変革運動のなかに社会的変革の糸口をみいだして共感し、さらにバザール商人層も呼応した。こうした、イスラム原理主義を軸とする広範な国民結集の大運動のなかで、強大な軍事力を誇ったイラン王制も崩壊せざるをえなかったのである。
ところで、イスラムのウンマとは、民族、部族の単位ではなく、神が人類救済の歴史のなかで使徒を遣わし、人間に呼びかけるその単位集団としての意味をもつものとされる。ここに、イラン革命を推進するシーア派イスラムの原理主義が、ウンマの再生のイデオロギーとして、宗派、国籍、民族の違いを超えて、広くイスラム教徒をとらえていく側面がみいだされる。ペルシア湾岸諸国や内戦下のレバノンまでが「革命の輸出」としてこれを危惧(きぐ)するのは、イラン革命のいわば国際的な性格を物語っていよう。ただし、イラン革命政権が、イラン国境内部に生活する他民族集団や他宗派集団に対して、その自治権を抑圧する傾向を強めている事実も否めない。シーア派イスラムに根ざす変革のイデオロギーが、新たな民族的差別の危険をどう断ち切っていけるかに、イラン革命の成否がかかっていよう。
[藤田 進]