日本大百科全書(ニッポニカ) 「マッタ・クラーク」の意味・わかりやすい解説
マッタ・クラーク
まったくらーく
Gordon Matta-Clark
(1943―1978)
アメリカの美術家。ニューヨークに生まれる。本名ゴードン・ロベルト・マッタ。父親は建築家でシュルレアリスムの画家ロベルト・マッタRoberto Matta(1911―2002)。幼いころに両親が離婚、親権は母親アンヌ・クラークAnne Clarkの手に渡ったが、一方で父親の知人であるアンドレ・ブルトン、マックス・エルンスト、マルセル・デュシャンや抽象表現主義の美術家たちと交流する環境のもとで育った。パリなどへの転居を経て1962年にコーネル大学建築科に入学、途中ソルボンヌ大学への留学を挟んで1968年にコーネル大学を卒業した。建築科に進んだのは父親と同じだが、父親と同一視されることを嫌って母方の姓を名のる。
大学卒業後の1969年、母校コーネル大学が組織したアースワークの展覧会に参加してデニス・オッペンハイムDennis Oppenheim(1938―2011)の助手を務め、この作業を通じてロバート・スミッソンと知り合い強い影響を受け、写真作品『写真の掲げ物』(1969)を制作する。環境における循環やリサイクルの重要性を説いたスミッソンの影響は「食」の領域にも及び、マッタ・クラークは1971年には自然食レストラン「フード」の運営にもたずさわった。また同じころクリストのプロジェクトにも参加し、大きな影響を受ける。その後1974年には古い木造住宅をのこぎりで真っ二つに切断した『分割』、1975年にはパリのレ・アル地区に建っていた廃屋に巨大な円錐形の切り込みを入れた『円錐の交差』を制作する。特に後者は、ポンピドー・センター建設に伴うパリの都市再開発計画に採用され、マッタ・クラークの名は一躍国際的なものとなった。
インスタレーションによって建築や都市空間にゲリラ的に介入していく手法に強いこだわりをもち、自らのそうした手法を「アナーキテクチャー」(ビルのアナーキーな解体)や「ノニュメント」(モニュメントではなく、人々が場所の記憶を共有できる働きを生み出すこと)と呼んだ。保守派はもとより進歩派にも批判されたそのラディカリズムは、幼いころから培ってきた美術的素養と建築的素養の融合によって生まれたもので、デュシャンやミニマリズムからの影響も指摘することができ、また1970年代コンセプチュアル・アート的側面も強くうかがわせる。結婚した直後に脾臓癌でこの世を去った。
[暮沢剛巳]
『勅使河原純著『美術館からの逃走』(1995・現代企画室)』▽『「トレーシン――ポストミニマリズムの作家」(カタログ。1998・オオタファインアーツ)』