ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロベルト」の意味・わかりやすい解説
ロベルト
Roberto, Holden Álvaro
[没]2007.8.2. ルアンダ
アンゴラの民族主義指導者。ポルトガル領アンゴラに生まれ,1925年叔母に連れられてベルギー領コンゴ(→コンゴ民主共和国)に移り,レオポルドビル,次いでサンサルバドルドコンゴのイギリス系ミッション・スクールで教育を受けた。1949~56年レオポルドビル,スタンレービル,ブカブなどで植民地政府財務部に勤務。この間パトリス・ルムンバと接触。1951年アンゴラを視察した際,ポルトガル当局の過酷な政策をみて衝撃を受け,政治活動に入った。1956年アンゴラ北部人民同盟 UPNAの創設に参画。1958,1960年の全アフリカ人民会議に出席,運営委員会委員を務めた。全アフリカ人民会議でフランツ・ファノン,ケネス・カウンダ,トム・ムボヤ,ルムンバらからの批判と助言を得て,全アンゴラの独立,民族の解放を目指して新たにアンゴラ人民同盟 UPAを組織。1962年 UPAとアンゴラ民主党 PDAを合体してアンゴラ民族解放戦線 FNLAを組織し,1963年レオポルドビルに亡命してアンゴラ共和国臨時政府 GRAEを樹立,首相に就任した。もっぱらザイールの支援を得て対ポルトガル武装解放闘争を指導。1975年1月アントニオ・A.ネト,ジョナス・M.サビンビとともに対ポルトガル独立協定に調印,暫定連合政府を組織した。同 1975年6月から 1976年2月のアンゴラ内戦で,FNLAとアンゴラ全面独立民族同盟 UNITA連合軍が,ソビエト連邦,キューバの支援を得たアンゴラ解放人民運動 MPLA軍に敗れたため,いったんアンゴラの政治舞台から姿を消した。しかしその後,MPLA政府と UNITAの間に再発した内戦が 1991年5月に終結し,複数政党制が導入されると政界に復帰した。1992年の人民議会選挙,大統領選挙で惨敗した。
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