ロベルト(その他表記)Roberto, Holden Álvaro

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロベルト」の意味・わかりやすい解説

ロベルト
Roberto, Holden Álvaro

[生]1923.1.12. サンサルバドルドコンゴ
[没]2007.8.2. ルアンダ
アンゴラの民族主義指導者。ポルトガル領アンゴラに生まれ,1925年叔母に連れられてベルギー領コンゴ(→コンゴ民主共和国)に移り,レオポルドビル,次いでサンサルバドルドコンゴのイギリス系ミッション・スクールで教育を受けた。1949~56年レオポルドビル,スタンレービル,ブカブなどで植民地政府財務部に勤務。この間パトリス・ルムンバと接触。1951年アンゴラを視察した際,ポルトガル当局の過酷な政策をみて衝撃を受け,政治活動に入った。1956年アンゴラ北部人民同盟 UPNAの創設参画。1958,1960年の全アフリカ人民会議に出席,運営委員会委員を務めた。全アフリカ人民会議でフランツファノン,ケネス・カウンダ,トム・ムボヤ,ルムンバらからの批判と助言を得て,全アンゴラの独立,民族の解放を目指して新たにアンゴラ人民同盟 UPAを組織。1962年 UPAとアンゴラ民主党 PDAを合体してアンゴラ民族解放戦線 FNLAを組織し,1963年レオポルドビルに亡命してアンゴラ共和国臨時政府 GRAEを樹立,首相に就任した。もっぱらザイールの支援を得て対ポルトガル武装解放闘争を指導。1975年1月アントニオ・A.ネト,ジョナス・M.サビンビとともに対ポルトガル独立協定に調印,暫定連合政府を組織した。同 1975年6月から 1976年2月のアンゴラ内戦で,FNLAとアンゴラ全面独立民族同盟 UNITA連合軍が,ソビエト連邦キューバの支援を得たアンゴラ解放人民運動 MPLA軍に敗れたため,いったんアンゴラの政治舞台から姿を消した。しかしその後,MPLA政府と UNITAの間に再発した内戦が 1991年5月に終結し,複数政党制が導入されると政界に復帰した。1992年の人民議会選挙,大統領選挙で惨敗した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロベルト」の意味・わかりやすい解説

ロベルト
ろべると
Holden Alvaro Roberto
(1923―2007)

アンゴラの解放運動指導者。北部アンゴラのサンサルバドルに生まれる。ベルギー領コンゴ(のちザイール、現在のコンゴ民主共和国)のバプテスト宣教学校卒業後、同国の政庁、貿易会社に勤務。1958年アンゴラ人民同盟(UPA)に加入、1961年武力蜂起(ほうき)に失敗してコンゴ共和国に逃れ、1962年アンゴラ国民解放戦線(FNLA)を結成。北部のバコンゴ人を重視するバコンゴ部族主義、反共主義を掲げアメリカ、ザイールの支持を得る。1975年独立をめぐってネトの率いるアンゴラ解放人民運動(MPLA)と対立。先にFNLAを離脱したサビンビのアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)と結んで内戦に突入。1975年11月MPLAと対抗してアンゴラ人民民主共和国を宣言、大統領に就任。しかしキューバ軍の支援するMPLA軍に敗れ亡命。1991年に帰国したが、以後彼の政治的影響力は急速に失われた。

[林 晃史]

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世界大百科事典(旧版)内のロベルトの言及

【ナポリ王国】より

…アンジュー家は教皇の封建臣下となり,イタリアにおけるゲルフ党の中心として大きな勢力を振るった。14世紀初頭のロベルトRoberto王の時代が最盛期である。14世紀後半に一時王位継承の争いによって国勢が衰えたが,ラディズラオLadislao d’Angio王(在位1386‐1414)のときには領土を拡大し,北の教皇領を侵略した。…

※「ロベルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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