ユーゴスラビア内戦(読み)ゆーごすらびあないせん

知恵蔵 「ユーゴスラビア内戦」の解説

ユーゴスラビア内戦

ユーゴスラビアでは、1941〜45年の枢軸軍に対するパルチザン戦争が勝利を収め、45年末には憲法制定会議の選挙が実施されてチトー首班とする連邦人民共和国が形成された。48年にコミンフォルムから追放されたあと、自主管理と非同盟を二本柱とする「独自の社会主義」を進めた。自主管理社会主義の集大成として、74年に憲法が制定された。しかし80年に終身大統領のチトーが死去し、経済危機が深刻化する中で、共和国・民族間対立が顕在化して解体の道を歩む。解体に伴って、冷戦終結後最大の民族紛争が生じた。内戦は3つの時期に区分できる。第1期は91年6月のスロベニアの独立に伴う、連邦軍とスロベニア共和国軍との「10日間戦争」、第2期はクロアチアの独立後、91年9月から本格化したクライナ・セルビア人共和国のセルビア人勢力とクロアチア共和国軍とのクロアチア内戦、第3期は92年3月に始まるムスリム、セルビア人、クロアチア人3勢力によるボスニア内戦である。クロアチア政府とボスニアのムスリム勢力はこの戦争を内戦とは捉えず、ユーゴ連邦人民軍あるいはセルビアによる侵略戦争と規定する。ユーゴ内戦の過程で連邦は解体し、92年4月に残存国家として、セルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦(新ユーゴ、現セルビア共和国とモンテネグロ共和国)が成立した。95年11月に米国主導でデイトン和平合意が成立してボスニア内戦が終結するまでに、凄惨な殺戮(さつりく)が展開され、ボスニアだけで20万近い死者と250万を超える難民避難民を出した。

(柴宜弘 東京大学教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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