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第二次世界大戦 ダイニジセカイタイセン

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デジタル大辞泉の解説

だいにじ‐せかいたいせん【第二次世界大戦】

日本・ドイツイタリアなどの枢軸国アメリカイギリスフランス・ソ連などの連合国との間で行われた世界的規模の戦争。1939年のドイツのポーランド侵入によって始まり、イギリス・フランスの対独戦争、独ソ戦争太平洋戦争と拡大した。初め、枢軸国が優勢であったが、のち、連合国が優位に立ち、1943年イタリアが降伏、1945年5月ドイツが降伏。また、日本もソ連の対日参戦とアメリカによる広島・長崎への原子爆弾投下によって、同年8月に降伏し、大戦は終結した。第二次大戦。WWⅡ(World War Ⅱ)。

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大辞林 第三版の解説

だいにじせかいたいせん【第二次世界大戦】

世界恐慌後,世界再分割をめざす後進資本主義国である日・独・伊のファシズム枢軸国と,米・英・仏・ソ連・中国などの連合国との間に起こった全世界的規模の戦争。1939年ドイツのポーランド侵入が発端となって開始され,41年日本の対米開戦による太平洋戦争の勃発とドイツの独ソ不可侵条約破棄による独ソ戦争により戦乱は一挙に全世界に拡大した。当初は枢軸国が優勢であったが,42年後半から形勢は逆転し,43年スターリングラードの戦いでドイツが大敗して以後,43年9月イタリアが降伏,45年5月ドイツ,続いて8月日本が無条件降伏し,戦争は終結した。第二次大戦。 → 太平洋戦争日中戦争

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

第二次世界大戦
だいにじせかいたいせん
Second World War

大戦の定義と特質

第二次世界大戦とは、一般には、1939年9月の英独戦争に始まり、1941年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、1945年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争をいう。
 この戦争に先だつ第一次世界大戦は、ヨーロッパを舞台とし、1914年8月、ヨーロッパ諸国がイギリス・フランス・ロシアの協商国側とドイツ・オーストリアの同盟国側に分かれて交戦状態に入り、1915年5月イタリアの参戦、1917年4月アメリカの参戦、1918年3月ロシア革命政府の戦線離脱を経て、1918年11月ドイツの休戦条約調印で終了した。これに対し第二次世界大戦は、二つの中心をもち、ヨーロッパでは英独戦争、独ソ戦争、東アジアおよび太平洋では日中戦争、太平洋戦争を主要な段階ないし局面としている。これらの諸段階ないし局面は、それぞれ独自の諸要因から発生し、帝国主義戦争(英独戦争、太平洋戦争)、祖国防衛戦争(独ソ戦争)、民族解放戦争(日中戦争)などの性格を帯びるが、戦争の拡大とともにそれぞれの対抗関係は有機的な連関に組み込まれ、連合国(イギリス・アメリカ・フランス・ソ連・中国)対枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)という基本的な対抗関係を構成するに至った。これはまた同時に、民主主義擁護のための反ファシズム戦争という第二次世界大戦の基本的性格が客観的に顕在化される過程でもあった。[吉田輝夫]
大戦の始期の問題
第一次世界大戦は「勃発(ぼっぱつ)」したといわれる。1914年6月28日のサライエボ事件を直接の契機として、7月28日オーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、7月30日ロシアは総動員令を下し、ドイツは8月1日ロシアに、8月3日フランスに宣戦し、8月4日イギリスはドイツに宣戦した。つまり7月28日から1週間のうちにヨーロッパ列強は戦争に「なだれ込んだ」(ロイド・ジョージ)のである。「勃発」とか「なだれ込む」という表現に端的にみられるように、第一次世界大戦は個々の政治家の意図を超えるいわば自然史的過程としてとらえられた。開戦の経緯だけではない。4年もの長期化、新兵器の登場、国内経済の動員など、そしてロシア、オーストリア・ハンガリー、ドイツ三大帝国の革命による崩壊と戦争終了、これらをだれが予見できたであろうか。
 第一次世界大戦が青天の霹靂(へきれき)のように「勃発」したのに対して、第二次世界大戦は「引き起こされた」(ホーファー)といわれる。ヒトラーが慎重に計画し、準備を重ね、意図的に「引き起こした」というのである。戦争を「引き起こした」人物(ヒトラー)あるいは勢力(日本軍部)は早くから特定されたから、これらを適切に押さえ込むことで戦争を避けることもできたろう。この意味でチャーチルは今次大戦を「不必要な戦争」とよんでいる。このようなとらえ方の研究史的意義については後に触れるとして、ここでは、前大戦とは異なり、東アジアでは日本が、ヨーロッパではドイツ・イタリアが積極的に行動を起こし、侵略を積み重ねつつ、今次大戦を「引き起こした」ことをまず確認しておきたい。
 ここから大戦開始の時期をどこに置くかという問題が生まれる。西ヨーロッパを中心にみれば、1939年9月初めといえよう。9月1日ドイツ軍はポーランドに侵入し、3日イギリス・フランスはドイツに宣戦布告したからである。だが、連合国対枢軸国という基本的な対抗関係が明確化する時点をとれば、1941年12月となろう。すでに英仏と交戦するドイツは1941年6月ソ連を攻撃し、米英ソの接近をもたらしたが、同年12月8日日本の対米英宣戦布告によって、東アジアでの日中戦争は太平洋戦争に拡大発展するとともに、ヨーロッパでの英独戦争と有機的に連結されるに至ったからである。9日中国は日独伊に、11日独伊はアメリカに宣戦布告をした。わずかに日ソ間に中立条約が維持されたにすぎない。
 1941年12月に始まる太平洋戦争は、確かに日本にとって重大な段階ないし局面を意味するにしても、この時点に第二次世界大戦の開始時期を求めることはできないであろう。日米対立の主要原因は中国問題にあったからである。すでに、1937年7月以来、日本は中国に対する全面的攻撃を始めていたし、さかのぼれば1931年9月満州(中国東北部)で軍事行動を起こし、1932年には「満州国」を樹立していた。同年4月、毛沢東(もうたくとう)は中華ソビエト政府の名において対日宣戦布告をしていたのである。日本でも最近、1931年9月の満州事変以来1945年8月の敗北までを「十五年戦争」として把握する見解が提唱されている。
 第二次世界大戦は二つの中心をもつが、本項では便宜上叙述の重心をヨーロッパに置く。ここではナチス・ドイツ(ヒトラー)とファッショ・イタリア(ムッソリーニ)とが戦争の震源地であって、両国の侵略戦争への衝動、これを抑止できない英仏の宥和(ゆうわ)政策がまず概観され、1939年9月のドイツのポーランド侵入が「青天の霹靂」としてではなく「諦念(ていねん)」をもって受け取られた事情を明らかにする。大戦中については個別的な戦闘の経過にのみ注目する戦争史ではなく、戦争の政治史、社会史、経済史に留意し、問題点の指摘に努めた。大戦のいま一つの中心、東アジアおよび太平洋における「日中戦争」「太平洋戦争」については、とくに別項で解説される関係上、ここでは必要な範囲にとどめた。[吉田輝夫]

大戦前史


ベルサイユ体制
1914年の第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)から1945年の第二次世界大戦終了までを連続した過程としてとらえ、17世紀の三十年戦争に次ぐ第二の三十年戦争とする見方(ノイマン)もあるけれども、第二次世界大戦の前史としては、1929年10月に始まる世界経済恐慌に一つの画期を認めるのが妥当であろう。1931年の満州事変はこの恐慌と密接な連関にあったし、1933年のヒトラー政権の成立もこの恐慌の社会的政治的影響を無視しては考えられないからである。だが本項では、第一次世界大戦後の国際秩序すなわちベルサイユ体制のもつ問題性を指摘することから始める。
 第一次世界大戦が終了したとき、東・中欧には革命運動が渦巻き、中国、インド、アラブ世界などの植民地・半植民地では、民族解放闘争が高揚し始めていた。アメリカ大統領ウィルソンの「十四か条」は、一面ではこのような民衆の運動や願望、期待を代表したけれども、その理想主義は、ロイド・ジョージやクレマンソーの老獪(ろうかい)な帝国主義的現実主義に翻弄(ほんろう)されたのであった。しかもアメリカ議会はベルサイユ条約を批准しなかったため、ウィルソンは失意のうちに引退せざるをえなかった。かくてウィルソン主義は瓦解(がかい)し、アメリカは孤立主義に復帰する。大戦後、資本主義世界は社会主義国ソ連の成立によって縮小されただけでなく、敗戦国ドイツは弱体化し、戦勝国であるとはいえイギリス、フランス、イタリアの各国は戦争の被害と莫大(ばくだい)な戦費のため疲弊し、かわってアメリカと日本とが台頭して、資本主義世界の内部構造は大きく変動した。アメリカは最強の資本主義国となったいま、孤立主義に復帰することは、世界政治と世界経済において最大の発言権を留保しようとしたことを意味していた。
 ソ連は、戦後処理会議に招待されるどころか、日本、アメリカ、イギリス、フランスなど帝国主義列強による干渉戦争に苦しみ、ポーランド、ルーマニアのため領土を奪われ、ボリシェビズムの西漸を阻止するための、フィンランドからバルト諸国、ポーランドを経てルーマニアに至るいわゆる「防疫線」で西欧から隔離させられた。世界史上最初の社会主義国ソ連を排除し、これに国際的孤立を強いるベルサイユ体制とは、ソ連からみれば、帝国主義列強の支配する反ソ的反革命的国際秩序にほかならない。かくてソ連は、国際的孤立の打破に努めるとともに、帝国主義列強による包囲、反ソ十字軍の脅威に不断の警戒を怠らないようになる。
 いうまでもなくベルサイユ体制は、敗戦国ドイツを犠牲とし、これを抑圧する体制として成立した。ドイツはベルサイユ条約を「口授(ディクタート)」され、植民地を失い、領土は削減され、厳しい軍備制限を課され、「天文学的」数字に上る賠償金にあえいだ。しかも戦争責任はひとりドイツにのみあるとされ、国家としての名誉まで傷つけられた。ベルサイユ条約の「修正」はドイツ・ナショナリズムの結節点となった。
 ベルサイユ条約は、ある意味で三大国アメリカ、イギリス、フランスの利益妥協の産物であったから、敗戦国ドイツだけでなく、これに強い不満を抱く戦勝国のイタリア、日本も「修正」を要求した。1930年代に入ると、日独伊三国は自ら「持たざる国」と称し、「持てる国」英仏に対して公然と「陽(ひ)のあたる場所」(商品の販売市場、原料供給地、つまり植民地)を要求するようになる。
 ベルサイユ会議で対独強硬策を追求したフランスは、1923年初め、賠償引き渡しの遅延を口実に、ドイツ経済の心臓部ルール地方を占領した。ドイツはこれに「受け身の抵抗」で対抗した。ドイツ経済は崩壊し、革命的危機が生じた。11月にはヒトラーのミュンヘン一揆(いっき)もみられた。かくてドイツは「受け身の抵抗」を中止せざるをえず、インフレーションの収束を図るが、このためには賠償問題が解決されなくてはならない。賠償問題は、イギリス、フランスの対米戦債問題と緊密に連関していたから、アメリカの主導下に1924年ドーズ案がまとめられた。アメリカ資本によってドイツ経済を再建させ、その支払う賠償金をもってイギリス、フランスは対米戦債を返済するというのである。ドイツ経済の復興を契機としてヨーロッパ経済は急速に安定に向かった。フランスの対独強硬策の挫折(ざせつ)は、その追求するヨーロッパでの政治的、経済的な覇権的地位の喪失、対英従属の強化をもたらさざるをえない。
 ヨーロッパの経済的安定は、政治的緊張を緩和させた。1925年、独仏国境を多角的に保障するロカルノ条約が締結され、翌年ドイツは国際連盟に加盟した。フランスはラインラントから予定よりも早く撤退した。「ロカルノ精神」は喧伝(けんでん)され、1928年には戦争の放棄をうたった不戦条約が成立した。だが「黄金の20年代」もつかのまの繁栄にしかすぎなかった。1929年10月末、ニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに、世界経済恐慌が始まったからである。[吉田輝夫]
東アジアにおける侵略の開始―「満州国」樹立
世界恐慌に直撃された日本は、政治的、経済的に深刻な危機に陥った。これを集中的に表現するのは、帝国主義的「満州」支配の動揺である。20世紀初頭以来日本は満州に進出したが、大戦中、中国の全面的支配を意図して二十一か条の要求を押し付けた。このあまりにも露骨な帝国主義的侵略の要求は、英米の反発を招き、日本はワシントン会議で後退せざるをえなかった。一方、この要求を契機に、中国の反帝国主義的民族運動は新たな段階に入り、1920年代の国民革命の進展とともに、日本の満州支配を直接脅かすに至ったのである。「満蒙(まんもう)は生命線」とする日本は、1931年9月軍部の「謀略」で満州事変を起こし、1932年3月「満州国」を樹立した。国際連盟がこれを否認すると、1933年3月、日本はただちに連盟を脱退した。各国は恐慌対策に追われていたし、連盟も日本の侵略行為に対してなんら有効な措置をとれなかった。アメリカは武力による現状変更を承認しない(「不承認主義」)と宣言するにとどまり、イギリスはこれすら支持しなかった。イギリスは、インドやアラブの民族運動に悩まされただけでなく、中国の反帝国主義運動の激化に不安を覚えたからである。英米の事実上の黙認を前に、日本では軍部および帝国主義勢力がますます力を得て、軍国主義化が推進される。[吉田輝夫]
ナチス・ドイツの再軍備
1933年1月ドイツに成立したヒトラー政府は、日本の満州侵略に対する国際連盟の無力な対応をみて、同年10月軍備平等権が認められないのを口実に軍縮会議および国際連盟から脱退した。これはヒトラーが再軍備政策に乗り出したことを意味する。1935年3月、再軍備の事実を覆せなくなったナチス・ドイツは、ベルサイユ条約の軍備制限条項を廃棄し、再軍備を宣言した。同年5月、仏ソ相互援助条約が締結されると、イギリスは、これが西欧とドイツとの対立を深め戦争の危険を増大させるのを恐れ、むしろドイツと妥協することで、これを一定の枠内に閉じ込めようとした。同年6月、イギリス・ドイツ海軍協定を成立させ、英独海軍力の比率を100対35とし、ベルサイユ条約を「修正」し、ドイツの再軍備を事実上容認したが、これを抑制できなかった。[吉田輝夫]
エチオピア戦争
1933年10月ドイツが国際連盟を脱退するとムッソリーニは当惑した。かねてイタリア・ファシズムはナチズムの模範と自負していたのに事前になんの相談もなく、同年6月に仮調印のイギリス・ドイツ・フランス・イタリア四国協定はこのため消滅したからである。この四国協定は、軍縮問題で対立する独仏間を調停するものであったが、イタリアの植民地獲得についての了解も含まれていた。
 ムッソリーニは、かねてから地中海帝国の建設を夢みていたが、1935年1月フランス外相ラバルとの会談でエチオピア侵略が黙認されたと思った。さらに同年4月のイギリス・フランス・イタリア首脳によるストレーザ会議でも、英仏がドイツの脅威に対抗するためイタリアには妥協的であると判断すると、雨期明けの10月エチオピア侵略を始めた。これは日本の満州侵略に次ぐ第二の公然たる武力侵略であった。国際連盟は、イタリアを「侵略国」とし、連盟規約第16条による経済制裁の措置をとったが、もっとも重要な石油は禁輸品目から除かれていた。イギリスは石油の禁輸が戦争に発展するのを懸念したし、イタリアとの友好を望むフランスはもともと制裁に積極的でなかったからである。1936年5月、エチオピア皇帝はイギリスに亡命し、イタリア軍は首都アディス・アベバを占領、ムッソリーニは「新ローマ帝国」の成立を宣言した。国際連盟の威信は地に落ち、英仏とイタリアの対立は激化した。ヒトラーはこのような状況を利用し、1936年3月、ドイツを目標とする仏ソ相互援助条約が批准されようとしているとの口実の下に、突如ラインラント非武装地帯に進駐した。これはドイツの主権の完全な回復、政治的・戦略的地位の改善を意味するが、その非武装化はベルサイユ条約およびロカルノ条約に規定され、フランスの安全保障に決定的意味をもっていたから、フランスはこれに断固とした軍事的対抗措置をとらなかったことで、自らベルサイユ体制とこれを支える安全保障体系を放棄したといわなければならない。[吉田輝夫]
反ファシズム運動
ファシズムと戦争の危険に対して、いち早く警鐘を打ち鳴らしたのは、ヨーロッパの知識人であった。すでに1926年、アンリ・バルビュスはロマン・ロランと、イタリアのファシズムに反対して国際反ファシズム委員会をつくり、1929年にはアインシュタインらと最初の反ファシズム大会をベルリンで開催していた。1932年8月には、ロランとバルビュスによる世界反戦大会がアムステルダムに開かれ、戦争とファシズムに反対する決議を採択した。ドイツでナチズムが勝利し、パリにファシスト暴動が起こり、オーストリアにドルフース独裁が出現するなど、各国でファシズム勢力の攻勢がみられ、戦争の危機が切迫すると、知識人や労働者の活動も活発になった。1935年6月、パリに第一回文化擁護世界大会が開かれ、ファシズムと戦争に反対する知識人の国際的連帯が呼びかけられた。
 共産党の指導を通じて世界の労働運動に大きな影響力をもつコミンテルンでも、ナチズムの成立を阻止できなかった苦い経験を反省し、これまでの戦術が再検討された。1935年夏のモスクワでのコミンテルン第7回世界大会では、ファシズムから民主主義を救い、戦争に反対するため、広範な民主主義的勢力を結集する人民戦線戦術が採択されたのである。こうしてスペインでは、1936年2月の総選挙を前に共和主義諸党と社会党、共産党などとの間に人民戦線協定が結ばれ、総選挙の勝利ののち、共和諸党からなる人民戦線政府が成立し、社会党、共産党はこれを閣外から支持した。フランスでは1935年6月、左翼政党、労働組合を中心に人民連合という名称の人民戦線が成立し、1936年5月の総選挙で大勝すると、同年6月、人民戦線政府が成立し、共産党はこれに閣外から協力した。[吉田輝夫]
スペイン内戦
1936年7月、スペインで人民戦線政府に対するフランコ将軍の反乱が勃発した。ドイツ、イタリアはただちにフランコに軍事援助を与えた。ヒトラーはスペインに経済的・戦略的拠点を得ようとしたが、イギリスの動向にはとくに注目を怠らなかった。スペイン人民戦線政府からの要請にこたえ、フランス人民戦線政府は援助を決定した。だが、スペイン内戦が独伊対英仏の戦争に発展するのを恐れたイギリスは、フランスに圧力をかけ、ともに「不干渉」政策をとることにした。同年9月、独伊を含む不干渉委員会が組織されたが、独伊の反乱軍援助は強化される一方で、国外からの援助が得られないスペイン政府は苦境に陥った。ソ連(当時)はこれを不当であるとし、政府軍への武器援助を公然と開始した。国際的な反ファシズム運動も人民戦線を支持した。ここにスペイン内戦は、英仏の宥和(ゆうわ)政策に鼓舞された独伊と、これに対する人民戦線・ソ連、つまりファシズム対民主主義の戦争という性格を帯びるに至った。第二次大戦の基本的対抗関係が早くもここに認められる。
 イギリスの不干渉政策は、実質上、独伊に「宥和」的であったから、ヒトラーは1936年夏リッベントロップを駐英大使に任命し、英独同盟の実現に努める一方、同年8月経済4か年計画に着手した。その目的は、4か年以内にドイツ軍の戦争準備を整えること、およびドイツ経済を戦時経済に移行させることであった。エチオピア侵略、とくにスペイン内戦でのフランコ援助によって、イタリアは英仏との対立を深め、ドイツに急速に接近する。1936年11月ムッソリーニはミラノでの演説において独伊「枢軸」を誇示した。同月には日独防共協定が結ばれ、日独伊のファシズム連合はここに明瞭(めいりょう)に姿を現した(1937年11月イタリアも防共協定に参加した)。[吉田輝夫]
日中戦争
日本は「満州国」を成立させると、その開発に努めるが、軍事的観点からする「日満経済ブロック」はすぐに行き詰まった。「満州ブーム」の後退とともに、華北に対する関心が増大する。日本軍の華北侵略の危機が高まるなかで、1935年8月中国共産党は「抗日救国のために全同胞に告げる書」(八・一宣言)を発表し、内戦を停止して抗日救国にあらゆる力を結集するよう訴えた。これは広範な民衆の共感をよび、抗日救国運動は急速に拡大した。だが、国民政府は「抗日七君子」の逮捕にみられるようにこれを弾圧し、1936年12月蒋介石(しょうかいせき)が「剿共(そうきょう)」督励のため西安を訪れると、張学良はこれを逮捕し、中国産党共代表周恩来の仲介で、蒋介石に内戦停止、国共合作、武装抗日を認めさせた。こうして抗日民族統一戦線が形成され始めると、危機感を抱いた日本の軍部は華北の兵力を増強し、1937年7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに日中戦争に突入した。
 このころ、欧米の関心はスペインに注がれていた。イギリスはドイツの脅威に直面し、東アジアでは対日宥和の方向をたどった。アメリカでは、孤立主義的傾向の強まるなかで「不承認主義」の原則は風化した。フランクリン・ルーズベルト大統領が1937年10月5日シカゴでの演説で、日独の侵略を非難し、この「隔離」を強調しても、国内では孤立主義の強化をもたらしたにすぎない。かくて、11月のブリュッセル九か国条約会議で中国代表が具体的な対日措置を訴えても、英米仏は消極的態度をとるにとどまり、会議はなんら成果をもたらさなかったのであった。[吉田輝夫]
ミュンヘン協定
1937年11月初め、ヒトラーは軍首脳と外相に重大な政策の宣言をした。ドイツの軍事力が優位を保つ1943~1945年までに「生存圏」Lebensraumを獲得するため、まずチェコスロバキアとオーストリアとを打倒する、というのである。そして翌年初め、世界戦争を危惧(きぐ)する軍首脳を更迭し、自ら国防軍を統帥するとともに、外相にリッベントロップを任命した。イタリアとの「枢軸」形成によって、ドイツ・オーストリア「合邦」最大の障害も除去された。かくて1938年2月ヒトラーは、オーストリア首相シューシュニクに最後通牒(つうちょう)を突きつけ、3月これを「合邦」した。次はチェコスロバキアである。ここでは、まずズデーテン地方のドイツ人の自治運動を扇動させ、1938年9月12日ヒトラーはニュルンベルク党大会でこの地方を武力によっても併合するという強い意志を表明した。戦争の危機を前に、15日イギリスの首相ネビル・チェンバレンはヒトラーを訪れ、ズデーテン・ドイツ人の自決権を認めることを了解し、フランスとともにチェコスロバキア政府に圧力をかけた。22日、ふたたびチェンバレンがヒトラーを訪れると、ヒトラーは要求をつり上げ即時占領を要求し、9月28日を期限にドイツ軍は進撃すると脅迫した。ここでムッソリーニが介入し、ヨーロッパの仲買人の姿勢をとり、9月29、30日、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四国会談をミュンヘンに招集し、ヒトラーの要求をいれ、ズデーテン地方をドイツに割譲するというミュンヘン協定を成立させた。小国を犠牲にして侵略者と妥協するミュンヘンの平和を、チェンバレンは「わが時代の平和」と自賛した。[吉田輝夫]
戦争への道―1939年の世界
ミュンヘン協定は、ヒトラーには「一片の紙片」にすぎなかった。1939年3月14日ヒトラーはチェコスロバキア大統領ハーハを脅迫してチェコスロバキアを解体し、翌15日同国を占領、16日ボヘミアとモラビアを保護領とした。続いて21日ポーランドにダンツィヒ(現グダニスク)割譲を要求した。
 チェコスロバキア解体には、民族主義の立場からしても合理的理由はなかったから、イギリスの世論は硬化し、これまでの対独政策に対する批判の声が高まった。3月31日、チェンバレンは、ポーランドの主権を保障すると声明し、ヒトラーを牽制(けんせい)した。
 4月3日ヒトラーは軍に、9月1日までにポーランド攻撃の準備を整えるよう命令した。イギリスが徴兵制を決定すると、同月28日、ヒトラーは独ポ不可侵条約(1934)とイギリス・ドイツ海軍協定(1935)の廃棄を宣言し、5月22日イタリアと軍事同盟条約(鋼鉄条約)を締結した。
 英独戦争の危機が切迫するなかで、イギリスはどのような政策を目的としたのか。その目的は実現されたのか、されなかったのか。この問題は第二次世界大戦の原因論、責任論とも絡み、さまざまに論議されている。
 チェンバレンの最大の政策目的はイギリス世界帝国の維持であり、その限りで平和を必要とした。新たな世界戦争が勃発すれば、インドやアラブ世界の民族運動は激化し、帝国の崩壊は不可避となるだろう。帝国を維持するためには、帝国を内から動揺させるこれらの民族運動を抑え込まなくてはならない。さらに、これらを扇動するソ連も孤立させなくてはならない。東アジアの日本、地中海のイタリア、中欧のドイツは、いずれも「持たざる国」と称し、ベルサイユ体制・ワシントン体制の「修正」を要求し、公然たる侵略をイギリス世界帝国の周辺で展開して、帝国を外から脅かしている。東アジアでは民族運動を抑制する限り、ある程度日本に譲歩するのもやむをえない。最大の脅威はドイツである。イギリスはこれまで、ドイツの「修正」要求が合理的でイギリス世界帝国を脅かすものでない限り、これを認め支持してきた。ベルサイユ体制は崩壊し始めているから、ドイツを、西欧列強つまりイギリス、ドイツ、フランス、イタリアによる新たな国際秩序に取り込む必要がある。英仏対独ソの対抗関係は世界戦争に発展する危険が大きいから回避すべきである。もちろん、一方では戦争に備え軍備を拡充しておく必要がある。以上がチェンバレンの政策の根底にある考え方であった。
 3月31日のポーランドに対する保障声明に、チェンバレンの対独政策の転換を認める意見がある。確かに重心の変化は認められるにしても、それは政策目的の範囲を超えるものではなかった。彼の対ソ交渉はこのことを示している。彼は、世論に押され、フランスとともにソ連と同盟交渉を始めたが、熱心ではなかった。ソ連との同盟が日独伊の軍事同盟をもたらし、世界戦争に発展するのを恐れたからである。紛争ないしは戦争をヨーロッパに局地化すれば、英独間に妥協が成立しないわけでもない。こうして、対ソ交渉と併行して、英独交渉もひそかに行われていた。
 一方、ソ連は、ミュンヘン会談以来イギリスの宥和政策に不信を強めていたし、1939年5~9月のノモンハン事件は、東西からの二正面戦争の危険を顕在化させた。1939年5月ソ連外相にモロトフが就任したが、これはリトビノフの集団安全保障政策からの決別を意味していた。8月、英仏との同盟交渉が停滞すると、独ポ戦争が独ソ戦争に発展するのを阻止するため、ドイツに接近し、8月23日独ソ不可侵条約を締結せざるをえなかった。こうしてソ連は帝国主義戦争の圏外にたち、国防の充実を図ることができた。ソ連はこのように自国の政策を説明する。だが、独ソ不可侵条約が、ドイツのポーランド攻撃を暗黙のうちに前提としていたことは、秘密付属議定書にポーランド分割を規定していたことにも示される。したがって大戦責任論を避けようとすれば、ソ連は一貫して秘密付属議定書を否認せざるをえないのである。スターリンの外交政策の動機や目的はソ連の公文書などが公表されない限り、詳細に解明できないであろう。ともかくこの条約は、まったく相反するイデオロギーをもつ両国の提携であっただけに、全世界を驚倒させた。英仏の宥和政策は決定的に破綻(はたん)したし、日本でも平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」として倒れ、日独軍事同盟交渉は棚上げとなった。
 1939年におけるアメリカの世界政策を評価するのは容易でない。1938年11月のいわゆる「水晶の夜」のユダヤ人弾圧(ポグロム)以来、米独関係は悪化し始めた。F・ルーズベルト大統領は孤立主義を配慮し、対独政策の微妙な変化を慎重に世論から隠したが、アメリカの動向を絶えず注視していたヒトラーは、鋭敏にこれを察知し、1939年1月末この事件をユダヤ人の所為にし、国際ユダヤ人の陰謀を非難していた。ルーズベルトは、日本、ドイツとの世界的対立を不可避と判断し、これに対処するため、たとえば「レインボー」作戦計画を立案させていた(1939年6月30日提出)。日本およびドイツからの両洋戦争の危険にあって、ルーズベルトはドイツに主要な脅威を認めたが、軍部は日本を主敵としていた。そしてルーズベルトは、世界戦略の観点から、ソ連を日独に対抗するための権力要素と評価していたのであった。
 イギリスが1939年7月22日の有田‐クレーギー協定で日本の中国侵略を事実上黙認すると、同月26日アメリカは1911年以来の日米通商航海条約を破棄したが、これは、東アジアではイギリスにかわって日本の侵略に対抗する姿勢を示すものであった。しかしヨーロッパでは、イギリスの対独宥和政策を牽制しようとはしなかった。
 独ソ不可侵条約によってソ連の中立を確保し、東西での二正面戦争を回避できても、ヒトラーはまだ躊躇(ちゅうちょ)していた。開戦を決意したのは1939年8月31日であって、軍事的には対ポーランド戦争の準備も十分でなく、それ以後の作戦計画も準備もなされなかった。9月1日、ついにドイツはポーランドに宣戦布告もなく侵入した。同3日、英仏はドイツに宣戦し、第二次大戦は始まった。
 ヒトラーはなぜ、英仏との戦争の危険を冒してまでも、対ポーランド戦争を始めたのか。なぜ第二次世界大戦を「引き起こした」のか。この問題は、大戦の原因論の核心に触れるだけに激しく論議されてきた。前述したように、ヒトラーは政権について以来、着々と準備を重ね、計画を練り、大戦を「引き起こした」という説(ホーファー)に対して、テイラーAlan John Percivale Taylor(1906―1990)は、機会主義者ヒトラーを過大評価していると批判し、英独をはじめとするヨーロッパ列強の政治家の計算違いから戦争は始まったといい、論議を巻き起こした(「テイラー論争」)。第三帝国の経済的・政治的体制の全面的危機のため、ヒトラーは政策を選択しうる余地を失い「前方に逃走」し、戦争する以外になかった(メイスン)。否、この議論を認めたとしても、ヒトラーが1939年9月に戦争を始めた理由は説明できず、彼は、機を失すれば軍備上の優位が失われるのを恐れ、1939年9月という時点で戦争を始めたのである(カー)。このように議論は果てしなく続いている。
 1939年9月3日、イギリスはなぜ宣戦布告をしたのか。世論に押されたことは確かであるが、この問題もチェンバレンの評価にかかわらせて論議されている。かりにヒトラーの「修正」要求がダンツィヒに限定されたとしたら、つまり「合理的」であったとしたら、あるいは英独妥協の可能性はあったろう。だが、ヒトラーの要求は明らかに東方での「生存圏」獲得にあった。これは、イギリスがとうてい容認できるものでなかったから、英独妥協の余地はなかったと思われる。
 フランスの宣戦布告は、イギリスに追随したものである。国民はナチズムを脅威とせず、ヒトラーのポーランド侵略に重大な直接の国民的利益の侵害を認めなかったから、戦意も高まらなかった。ムッソリーニは、1939年9月、第二の「ミュンヘン会談」の主宰を夢みたが、幻想にすぎなかった。ドイツとの鋼鉄条約にもかかわらず、軍備が整わなかったため「非交戦」にとどまらざるをえなかった。[吉田輝夫]

大戦の経過


ドイツのポーランド侵攻
1939年9月1日ポーランドに侵攻したドイツ軍は、2週間足らずでポーランド軍主力を撃破した。これは空軍と機甲部隊との緊密な連携に基づく電撃作戦の成功によるもので、騎兵に依存する時代遅れのポーランド軍はひとたまりもなかった。このような状況を前に同月17日、ソ連軍はロシア民族保護の名目で突如ポーランドに侵入し、ブク川の線まで兵を進め、同28日独ソ境界・友好条約を締結し、両国間でポーランドを分割した。続いてソ連は9月末から10月初めにかけて、エストニア、ラトビア、リトアニアとそれぞれ相互援助条約を結び、軍事的拠点を確保した。ポーランド政府はルーマニアに亡命するが、ドイツの圧力で拘禁された。同月30日パリにシコルスキー亡命政府が成立し、イギリス、フランス、アメリカの承認を得、やがてポーランドは10万の亡命軍を擁するに至る。[吉田輝夫]
ソビエト・フィンランド戦争
ソ連はさらに1939年10月初め、フィンランドに対して、ハンコ島の租借と、レニングラード周辺地域およびカレリア地峡の一部を他の地域と交換するよう要求したが、交渉は決裂し、11月30日フィンランドに侵入した(冬戦争)。フィンランド国民はよく抵抗し、ソ連軍は苦戦を強いられた。この戦争での苦戦、また1936~1938年に行われたソ連軍首脳の大粛清から、のちに、ドイツのみならず英米の軍部はソ連軍の戦力を過小評価し、1941年6月の独ソ戦争の際、ソ連軍の抗戦力を2~3か月と判断することになる。
 1939年12月14日、ほとんど有名無実となっていた国際連盟は、ソ連を「侵略者」と認めて除名した。英仏はフィンランド援助のため兵力を派遣しようとした。ソ連もフィンランドも戦争の早期終結を望み、1940年3月12日休戦協定が成立し、ソ連はその要求を実現した。フランスでは、フィンランド援助計画の失敗から、ダラディエにかわりレイノー内閣が成立した(1940.3.21)。[吉田輝夫]
ドイツのデンマーク・ノルウェー侵略
英仏のフィンランド援助計画は、一面では、ナルビクなどノルウェー諸港を確保し、スウェーデン鉄鉱石を押さえ、ドイツ軍需工業に打撃を与えようとするものであったから、1940年4月、ドイツは機先を制し、デンマークを占領すると同時にノルウェーに侵入し、英仏軍を撃退した。この成功は、ノルウェー陸相クビスリングの通謀によるところ大きく、以後クビスリングとは「祖国を売る者」を意味するようになる。イギリスでは、ノルウェーでの失敗の責任を問われ、1940年5月10日チェンバレン内閣が倒れ、対独強硬論者チャーチルが労働党を含む挙国内閣を組織した。この日、ドイツ軍は西部戦線で攻撃を開始した。[吉田輝夫]
「奇妙な戦争」
英仏の対独宣戦を意外としたヒトラーは、対ポーランド戦終了後の1939年10月6日、英仏に和平を提議するが、英仏はこれを拒否した。だが、英仏は西部戦線では積極的攻撃を行わず、独仏国境に沿って構築された要塞(ようさい)、マジノ線に頼り、ドイツの軍事的圧力をそらすとともに、その経済的弱化を図る計画に没頭した。スカンジナビア作戦もその一環であったが、さらにバルカン作戦計画、あるいはドイツの石油供給源を断ち切るためのソ連のカフカス(コーカサス)地方爆撃計画などである。これらの計画は今日では空想的にみえるが、戦争が英仏対独ソの対抗関係に発展する契機をはらんでいた点で注目される。
 和平提議を拒否されたヒトラーは、フランスを軍事的に打倒すれば、イギリスも妥協するであろうと考えたが、対仏作戦は、第一次世界大戦のときと同じような戦線膠着(こうちゃく)を恐れる軍部の消極的態度、あるいは天候悪化のため、再三にわたり(1940年5月10日までに29回)延期された。しかも、参謀将校の不測の事故で作戦計画が漏れたこともあって、当初の、第一次世界大戦時のようにベルギー中央部を突破する計画は、森林地帯のアルデンヌ地方を機甲部隊で突破するマンシュタイン計画に変更された。この意表をつく作戦計画はヒトラー好みでもあった。[吉田輝夫]
フランスの降伏
1940年5月10日、ドイツ軍は第一次世界大戦時と同様、中立を侵犯してベルギー、オランダ、ルクセンブルクに侵入した。連合国軍は不意をつかれ、5月15日オランダ軍は降伏し、オランダ国王と政府はロンドンに亡命した。同月19日、ドイツ軍はイギリス海峡に達し、英仏軍を南北に分断した。28日ベルギー国王は軍とともに降伏した。北部に孤立した英仏軍33万は、6月4日までにダンケルクからイギリス本土に撤退した。翌5日、ドイツ軍はパリに向け総攻撃を開始し、14日パリを占領した。この情勢をみてイタリアは、6月10日にわかに参戦するが、軍事的に有効な作戦を展開しなかった。フランス首相レイノーはルーズベルトにアメリカの即時参戦を懇望するが、ルーズベルトは孤立主義的世論の強まるなかでこれにこたえられるはずもなかった。イギリス首相チャーチルは「英仏連合」を提案し、フランス艦隊を率い北アフリカ植民地に逃れ、ここを拠点とする徹底抗戦を勧めるが、レイノー内閣はこれを拒否し、同月16日総辞職した。かわってペタン元帥が首相となり、翌17日降伏を申し入れた。休戦協定は、6月22日、第一次世界大戦でドイツが降伏したときと同じく、コンピエーニュの森に置かれてある鉄道車両の中で調印された。この結果、フランス本国の約3分の2はドイツ軍の占領下に置かれ、南部の残りの地域は「自由地帯」として植民地とともに、ビシーに移ったペタン政府にゆだねられた。7月10日、第三共和国憲法は廃止され、ペタンは国家元首となり、ファッショ的な体制が樹立された。一方、降伏と同時に亡命したドゴール将軍は、ロンドンに「自由フランス」を設立し、国民に対独抗戦を訴えた。[吉田輝夫]
イギリスの戦い
フランスを打倒したヒトラーは、イギリスとの妥協の平和を期待した。イギリスは帝国の維持が保障されたら、ドイツのヨーロッパ大陸支配を認めるであろう、こう思ったのである。だが、チャーチルの抗戦の意志は堅く、1940年7月19日ヒトラーが平和を呼びかけたときも、これを一蹴(いっしゅう)した。ナチズムとは妥協の余地はないというのである。政治的に妥協できなければ、軍事的に屈服させる以外にない。このためもっとも有効な手段はイギリス本土上陸作戦(「あしか作戦」)であるが、これは制空権の獲得を前提とする。こうして、ヒトラーは「あしか作戦」の準備を7月16日に命ずるとともに、8月13日ゲーリングの指揮をもってイギリス空軍に対する攻撃を開始した。その目的は制空権掌握にあったから、イギリス戦闘機の撃墜、空軍基地・軍需工場の爆撃に重点が置かれた。だが、イギリスの沿岸レーダー網はよく整備され、空軍も性能や装備・訓練において優れていたので、ドイツ空軍は容易に目的を達成できなかった。9月7日ロンドン爆撃が始まり、11月14日コベントリー空襲以後、都市への夜間の無差別爆撃に方針が転換されるが、これは軍事的圧力から経済的・心理的圧力への戦術転換を意味する。事実ヒトラーは10月12日、「あしか作戦」を翌1941年の春まで延期すると決定していた。[吉田輝夫]
ヒトラーの対ソ戦への転換
前述のように「あしか作戦」の準備を命じたものの、ヒトラーはイギリスとの妥協の道を模索し、1940年7月31日、陸軍首脳に、翌年春を目途に対ソ攻撃を開始するとの決意を示した。ヒトラーの考えはこうであった。イギリスはソ連とアメリカに期待している。ソ連を一掃すれば、イギリスは最後の期待を失い、ドイツはヨーロッパとバルカンの支配者になる。また、ソ連の一掃によって東アジアでの日本の地位は強まり、アメリカとの対立を深めよう。海洋帝国イギリスと大陸帝国ドイツとが妥協できないはずはない。むしろ日独はユダヤ人金融資本家のアメリカと対決せざるをえない。ソ連からユダヤ人共産主義者を一掃するには5か月あればよく、ウクライナ、バルト諸国、白(はく)ロシア(ベラルーシ)に生存圏を拡大するのは本来の目標である、と。
 もちろんまだ確定したわけではなく、1940年8月にはイギリスとの制空権をめぐる戦いが始まるが、陸軍は対ソ戦争の準備を始めていた。作戦計画が検討され、180個師団の装備を生産するため、軍から30万の労働者が軍需工場に一時投入された。
 ドイツが対仏戦に勝利した1940年6~7月に、ソ連はリトアニア、ラトビア、エストニアに最後通牒(つうちょう)を突きつけてこれらを併合し、ルーマニアにも同じく最後通牒によって、ベッサラビア地方と北ブコビナ地方を割譲させた。これはソ連にすれば、第一次世界大戦後失った領土の回復であるとともに、対独予防措置でもあったが、ヒトラーには「平手打ち」のようなものであった。ルーマニアの油田にソ連軍が迫ったからである。
 ルーマニアがソ連に屈すると、ハンガリーとブルガリアも相次いでルーマニアに領土の割譲を求めた。ルーマニアとブルガリアとの交渉はまとまったが、ハンガリーとの交渉は決裂した。ソ連の介入を恐れたヒトラーは、にわかに1940年8月末、ウィーンでムッソリーニとともにルーマニア・ハンガリー間を調停したが、ソ連を除外してのこのような処理の仕方に、ソ連の対独不信はいっそう強まった。しかも、10月ヒトラーはルーマニアにドイツ軍事顧問団を派遣していたし、11月にはハンガリーとルーマニア、翌1941年3月にはブルガリアを日独伊三国同盟に加盟させていた。
 ソビエト・フィンランド戦争に親ソ的中立の立場をとって以来、ヒトラーのフィンランドに対する態度は冷たかったが、ここでも政策は転換し始めた。フィンランドに武器を供与するとともに、北ノルウェー駐屯部隊を強化し、万一ソ連軍が攻撃してきた場合、ペツァモ地域のニッケル鉱山を確保しようとした。このようにヒトラーは、ソ連包囲の姿勢を強めていたから、リッベントロップ外相の、日独伊三国同盟にソ連を加え「マドリードから横浜に至る大陸ブロック」を形成し、英米に対抗するという案は現実的でなく、1940年11月12~13日の独ソ会談において両者の主張が平行線をたどったのも当然であった。12月18日、ヒトラーは、対ソ作戦(「バルバロッサ」)の準備を翌1941年5月15日までに完了するよう命じた。
 1939年5月の軍事同盟条約(鋼鉄条約)にもかかわらず、独伊間には軍事協力はみられなかった。それどころか相互不信が渦巻いていた。ムッソリーニはヒトラーに連絡もせず、1940年10月突如ギリシアに侵入したが、2週間にして早くも敗退し、ドイツに援助を要請した。ヒトラーは、1941年3月、ユーゴスラビアを日独伊三国同盟に加盟させたが、その2日後には親西欧的な軍部のクーデターが起こったため、4月ユーゴスラビアに侵入し、たちまち全土を制圧した。これと同時にギリシアにも侵入してイギリス軍を撃退し、さらに5月には空挺(くうてい)部隊でクレタ島を占領した。こうしてバルカン作戦を終了した4月29日、ヒトラーは対ソ攻撃開始日を6月22日と命令した。バルカン作戦が、予定の対ソ攻撃開始日を延期させたのではないか、とよくいわれる。だが、気象条件からして、6月なかば以前の開始が可能であったか否かは問題である。5月10日、副総統ヘスは単身飛行機を操縦しイギリス本土に赴き、対ソ戦のため英独休戦を実現しようとしたが、相手にされなかった。ヘスはヒトラーの意を受けて行動したともいわれるが、明らかでない。
 一方、スターリンは1940年11月の独ソ会談失敗後、東西での戦略的地位の強化に努めた。1941年1月10日、第二次独ソ経済協定を締結し、ドイツに戦略物資を供給し続けたが、1941年春のドイツのバルカン作戦をみて、4月13日突如松岡洋右(ようすけ)外相と日ソ中立条約を締結し、東アジアでの安全を確保した。5月6日、スターリンは自ら首相となり、緊迫する事態に対処しようとした。スターリンは、近い将来の独ソ戦争を不可避とみていたが、この6月とは予想しなかったようである。各方面から警告は受けていたけれども、独ソ間はまだ調整できると思っていたのではあるまいか。[吉田輝夫]
独ソ戦争―1941年
1941年6月22日、ドイツ軍はバルト海からカルパティア山脈に至る全戦線で一斉にソ連領に侵入した。118個歩兵師団、15個機械化師団、19個戦車師団、将兵300万人、戦車3600台、航空機2700機で、ドイツ陸軍の75%、空軍の60%にあたる。これにフィンランド軍、ルーマニア軍、ハンガリー軍、チェコスロバキア軍、およびイタリア軍も参加した。
 北部軍はバルト三国を経てレニングラードを包囲し、中部軍はスモレンスクを抜きモスクワに迫った。また、南部軍はウクライナを東進した。ヒトラーおよび軍部は、3~4か月でソ連軍主力を粉砕し、ウクライナとカフカスの資源を確保できると考えた。それは、ソ連軍を過小評価し、また社会主義体制が急速に内部崩壊するという期待に基づくものであった。だが勝利の陶酔も7月末までで、戦線は停滞し始めた。10月初め、ヒトラーはモスクワ攻略を命じた。ソ連政府はクイビシェフに退き、モスクワは戒厳令下に置かれた。11月、冬装備を欠くドイツ軍は冬将軍(厳寒)に対抗できず、モスクワ攻略に失敗した。それどころか、12月初めにはソ連軍の反攻が始まったのである。これは、対ソ戦の短期勝利を前提とするヒトラーの世界戦略の破綻(はたん)を意味する。11月末、軍需相トットは戦争経済の行き詰まりを理由に、戦争の政治的終結をヒトラーに進言した。
 雪崩(なだれ)のように殺到するドイツ軍に席巻(せっけん)されてソ連軍が総崩れになった7月3日、スターリンはラジオ演説で、この戦争はファシスト抑圧者に対する祖国防衛の国民戦争(大祖国戦争)であるとし、国民にパルチザン戦を呼びかけた。工業施設をウラル以東に移すとともに赤軍の再建を図った。12月初めのモスクワでの反攻は、ソ連が英米の物資援助を受ける前に独力で敗北の危機を克服したことを意味する。独ソ戦が始まると、英米はただちにソ連支持を表明したが、ソ連の抗戦力を2~3か月とみたから、戦局の推移を注視するにとどまった。7月末ルーズベルトの懐刀(ふところがたな)ホプキンズがモスクワを訪れたとき、ソ連の抗戦力を再評価して、11月初めアメリカはソ連に武器貸与法を適用することにしたのである。
 12月、日米戦争が勃発し、独伊も対米宣戦するに至って、英米ソの「大同盟」(チャーチル)が形成された。アメリカ参戦は英米ソの勝利を確実にしたが、対独戦ではさしあたりその負担を全面的に背負うソ連が決定的要素となった。ソ連は、対独戦での勝利を通じて戦争目的を実現し、戦後世界に大国として圧倒的地位を占めるようになる。[吉田輝夫]
大西洋憲章
1940年5月、チャーチルは首相に就任すると、対独徹底抗戦を続けるため、ルーズベルトに武器援助を要請した。ルーズベルトはただちにこれにこたえるが、これは、アメリカが対英援助を通じてヨーロッパ戦争に介入することを意味した。しかもフランス敗北後、国内の孤立主義的傾向も弱化していた。同年11月ルーズベルトは大統領に三選されると、対英援助を強化した。1941年3月武器貸与法を成立させ、実質上武器を無償供与することにした。これは、のちにあらゆる反ファシズム勢力に適用され、アメリカは「民主主義の兵器廠(しょう)」となるが、武器援助を通じて、被援助国の戦略、したがって政略をも左右しうるようになる。ついで対英供給物資の輸送路確保のため、1941年7月アイスランドを占領した。さらにアメリカ海軍が英米商船を護送し、枢軸国船を発見しだいイギリス海軍に「通報」するとしたが、のちには「必要とあらば発砲」するとエスカレートした。これはすでに「中立」とはいえない。ヒトラーは、この「参戦への挑発」にのらぬよう海軍に厳命した。まだアメリカとの全面対決の時期でないとしたのである。
 1941年8月9~12日、チャーチルとルーズベルトは大西洋上で会談した。ここでチャーチルは、アメリカを参戦させようとし、日本の侵略に対する強硬な態度を求めた。日本が退けばイギリスの権益は擁護されるし、日米が衝突すればアメリカ参戦となるからである。だが、ルーズベルトはヨーロッパ第一主義を守り、日米関係については明確な態度を避けた。この会談で「大西洋憲章」がまとめられ、英米両国の戦争目的および戦後処理の一般原則が明らかにされた。ソ連その他はただちに憲章の支持を表明した。[吉田輝夫]
太平洋戦争の勃発
1937年7月以来の日中戦争は泥沼の深みにはまり、解決の見通しはたたなかった。1940年5月以後、ドイツがオランダ、フランスを降伏させ、イギリス本土上陸の気配を示すと、日本は独伊との提携強化と「好機南進」の方針を決定し、1940年9月かねて懸案の日独伊三国同盟を結び、フランス領インドシナ(仏印)北部を占領(「援蒋ルート」遮断の意味をももつ)し、さらにオランダ領インドネシア〔蘭印(らんいん)〕をうかがうに至った。日本の「南進」に対して、アメリカは、輸出制限、援蒋強化、米英結束をもってこたえた。悪化する日米関係を打開すべく、日本は1941年4月日米交渉を始めるが、アメリカはこの4月に締結された日ソ中立条約に「南進」の姿勢を認めたので、交渉は容易でなかった。
 1941年6月独ソ戦が始まると、日本ではふたたび「北進」論が台頭し、対ソ戦の準備を進めて(関東軍特種演習)、機会をうかがう一方、7月仏印南部に進駐した。これはアメリカを硬化させた。アメリカは在米日本資産の凍結、石油の対日禁輸でもってこれにこたえ、フィリピンに極東アメリカ陸軍総司令部を創設し、総司令官にマッカーサーを任命した。このようなアメリカの措置は日本軍部を刺激し、9月6日の御前会議は10月末開戦を目途とする対米英蘭戦争の準備を決定した。だが、開戦をめぐって閣内が分裂し、近衛文麿(このえふみまろ)内閣は倒れ、10月主戦派の東条英機内閣が成立した。開戦必至とみたアメリカは、11月26日最後通牒に等しいハル・ノートを手交し、以後日本が行動を起こすのを見守った。12月1日の御前会議は、「米英蘭に対し開戦」することを最終的に決定した。開戦日は12月8日とされた。
 12月8日(ハワイ時間7日)南雲忠一中将麾下(きか)の機動部隊から発進した攻撃隊は真珠湾を奇襲し、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えた。この奇襲はアメリカに根強い孤立主義をも一掃した。「真珠湾を忘れるな」のスローガンの下にアメリカ国民は結集したからである。アメリカ参戦にチャーチルは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。米英の勝利は確実となったのである。
 12月11日、独伊もアメリカに宣戦した。こうして世界の諸戦場は一体化し、連合国(民主主義)対枢軸国(ファシズム)という基本的対抗関係は明瞭となった。1942年1月1日、英米中ソなど26か国は「連合国宣言」に調印し、大西洋憲章を再確認するとともに、単独不講和を宣言したのであった。[吉田輝夫]
太平洋戦争―1942年
日本は、真珠湾奇襲攻撃によってアメリカ太平洋艦隊を壊滅させるとともに、マレー沖でもイギリスの新鋭戦艦2隻を撃沈し、制海権を得た。仏印からタイを制圧し、マレー半島では1942年2月シンガポールを占領し、イギリス極東軍を無条件降伏させた。フィリピンでは1942年1月マニラを占領し、マッカーサーはオーストラリアに逃れた。1942年2~3月には、経済的に重要なスマトラ島、ジャワ島を占領し、オランダ軍を降伏させた。また、援蒋ルートの切断、インドに対する対英離間工作のためビルマ(現ミャンマー)に侵入し、1942年3月ラングーン(現ヤンゴン)を陥落させた。こうして日本の予定の作戦は一段落した。
 予想を超えたこのような成功は、十分準備を重ねた奇襲作戦の成功であって、米英はヨーロッパ第一主義をとり、アジアでは防衛的戦略をとったのであった。開戦時に日本が予定した作戦計画はほぼ終了したが、それは、南方地域を占領、その資源を戦力化し、長期不敗の態勢をとれば、ドイツがイギリスを屈服させ、アメリカは継戦の意志を放棄し、「大東亜共栄圏」は確保できるとするものであった。
 日独はともに英米と戦うことになったが、共同の世界戦略もなく、作戦協力もみられなかった。1942年1月の「日独伊軍事協定」は、東経70度(インダス川にかかる)で作戦地域を分割したが、これは日独の「広域圏」を画定した世界再分割案にすぎず、軍事協力については、英米艦隊の動向によって、日本海軍と独伊海軍は大西洋あるいは太平洋で協力するとの原則にとどまり、これを具体的に検討すべき「日独伊委員会」はほとんど活動しなかった。相互に秘密が多く、問題を共通にしなかったからである。[吉田輝夫]
大東亜共栄圏
戦争が長期化し拡大するなかで、日本は総力戦体制を確立するが、植民地でも人的・物的資源の総動員が強行され、支配はいっそう強化された。朝鮮・台湾では「内鮮一体化」「皇民化」の名の下に人民統制が進められ、労働力さらに兵力として徴発された。「満州国」経済も、日本戦時経済体制への従属をいっそう深め、崩壊の危機に瀕(ひん)した。中国では、行き詰まった日中戦争打開のため、重慶(じゅうけい)の国民政府との和平を図ったが進展せず、南京(ナンキン)に樹立した汪兆銘(おうちょうめい)政権を正式に承認したが、これは中国民衆の反日抗戦をいっそう強化したにすぎない。日本軍は、進攻作戦よりも占領地域の治安維持に兵力を向けざるをえなくなった。
 南方占領地は、「さしあたり」軍政下に置かれた。軍政とは、艦隊司令長官または軍司令官が治安を維持し、石油など戦略物資の獲得に努め、現地軍の自活を確保するための軍事独裁体制であった。1942年1月、東条英機首相は「大東亜共栄圏」建設の構想を示し、欧米帝国主義の軛(くびき)からのアジアの解放をうたったが、「大東亜共栄圏」とは、欧米帝国主義にかわる新たな日本帝国主義の植民地支配体制にほかならなかった。1943年5月の「大東亜政略指導大綱」では、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し重要資源の供給地として極力これが開発並びに民心把握」に努めるとされていた。もっとも他方では、汪兆銘政権を育成し、ビルマ(現ミャンマー)、フィリピンの独立を図り、スバス・チャンドラ・ボースの自由インド仮政府を承認するが、これらはいずれも日本帝国主義のアジア支配を覆い補強する限りで利用されたのである。「大東亜共栄圏」の実態は、1943年11月の東京での大東亜会議に明らかである。参加したのは、ビルマ、インド、フィリピン、「満州国」、汪政権にすぎず、唯一の独立国タイは首相名代の出席にとどまった。欧米帝国主義を放逐した日本に対する期待が、過酷な軍政によって裏切られるとともに、反日抵抗運動が生まれ、この抵抗を通じてアジアの民族運動は新たな段階に入った。[吉田輝夫]
新秩序
ヒトラーは、オーストリアを「合邦」し、ズデーテン地方を奪い、ボヘミア、モラビアを保護領とした(保護官は前外相ノイラート)。ポーランドを征服すると、第一次大戦後失った地域を含め隣接地域を大ドイツ帝国に編入し、ここからポーランド人を放逐した。未併合地域の総督ハンス・フランクは、精神的・文化的指導者を根絶し、教育・文化施設を破壊した。さらに、250万人が強制労働に徴発され、300万人のユダヤ人がアウシュウィッツ(オシフィエンチム)の絶滅収容所に送られた。
 フランスを敗北させると、フランスからアルザス・ロレーヌ、ベルギーからオイペン・マルメディを奪い、ルクセンブルクとともに大ドイツ帝国に併合した。オランダ高等弁務官ザイス・インクバルトは、500万人のオランダ人を労働力としてドイツに送り、14万人のユダヤ人を絶滅収容所に送るなど、過酷な占領地行政で知られるが、これはナチス占領地域では多かれ少なかれみられたところである。フランス、ベルギーからも労働者が、デンマークから食料、ルーマニアから石油、ポーランドから石炭・穀物がドイツにもたらされた。ナチス・ドイツは、支配下の全ヨーロッパからあらゆる人的・物的資源を収奪したのである。
 対ソ戦争は、戦争の様相を一変させた。対英仏戦争で国防軍はハーグ陸戦法規を遵守したが、対ソ戦争では、ヒトラーは国際法を無視した。1941年3月30日、ヒトラーは200名余の軍司令官に演説し、「共産主義は将来の危険である。絶滅戦争をしなくてはならぬ。そうしなければ、敵を破っても、30年もしたらふたたび共産主義の敵に直面するであろう。共産党員、秘密警察員は犯罪者として処分せよ」と命じた。共産党員、指導者層を絶滅するだけではない。ヒトラーによればボリシェビキとはユダヤ人と同じであるから、共産主義を根絶するためにはユダヤ人を絶滅すればよい。このためヒムラーに「特殊部隊」の編成を命じた。この部隊は1941年末までに50万人のユダヤ人を殺害したが、ヒトラーはこれを全ヨーロッパに拡大した。1942年1月20日「バンゼー」会議でハイドリヒは、全ヨーロッパのユダヤ人問題の「最終的解決」を命じた。ドイツの支配の及ぶ至る所からユダヤ人が狩り集められ、アウシュウィッツその他の絶滅収容所のガス室で420万人以上が殺害された。だが、イタリア、ハンガリーはこれに協力しなかった。1944年3月ハンガリーがドイツ軍に占領されたのち、70万人のユダヤ人がアイヒマンによってアウシュウィッツに送られたのである。
 このようなナチス・ドイツの「新秩序」、これを支える各国の「協力者」に対して、民衆は連帯しさまざまな抵抗をなし、パルチザン闘争に立ち上がった。連合軍の反抗は東でも西でも、かかる民衆の抵抗運動と相呼応しながら展開された。このようなレジスタンスに、第二次世界大戦の一つの特質は認められる。[吉田輝夫]
戦局の転換(ヨーロッパ戦争)
アメリカが参戦すると、英米会談でまずドイツ打倒に全力をあげるというヨーロッパ第一主義が再確認されたが、ドイツ打倒の戦略をめぐって英ソは対立した。ソ連は、負担軽減のため、西ヨーロッパでの「第二戦線」を強く要求した。1942年6月、アメリカが同年中の開設に合意すると、7月の英米軍事会談でイギリスはこれを延期させ、北アフリカ上陸作戦の実施を決定させた。チャーチルは地中海から中東、インドに至る大英帝国の植民地体制を確保し、ドイツをワニにたとえ、その「柔らかい下腹」から攻撃しようというのである。
 1942年夏、北アフリカ戦線は緊迫した。敗北を重ねるイタリア軍の援助に赴いたロンメル将軍の機甲師団は、6月トブルクを占領し、カイロからわずか100キロメートルにまで迫っていた。ドイツ軍のエジプト侵入はアラブ民族運動を激化させ、イギリスの中近東支配を崩壊させるに違いないと思われた。1942年10月、イギリス軍(モントゴメリーの第八軍)は反撃に転じ、これに呼応して11月、アイゼンハワー麾下の英米連合国軍はフランス領北アフリカに上陸した。独伊軍は東西から挟撃され、1943年5月北アフリカから一掃された。ついで、英米はイタリア進攻作戦を計画する。
 第二戦線が延期されたため、ヨーロッパ戦線で単独でドイツ軍と戦い、その95%を引き受けたのはソ連であった。だがここでも、1942年11月ソ連軍の反攻がスターリングラード(ボルゴグラード)で始まっていた。1942年夏、ヒトラーはスターリングラードとバクーの同時攻撃を命令した。スターリンを記念するロシア第三の工業都市を奪うことで、軍需生産に打撃を与え、カフカスからの北への石油輸送を切断し、さらにここからモスクワに迫ろうとした。もちろんソ連国民に心理的打撃を加える意図もあった。9月、ドイツ軍はスターリングラードに突入した。だが11月ソ連軍は反撃に転じ、包囲されたドイツ軍は1943年1月末降伏した。この敗北の与えた影響は大きかった。ソ連国民だけでなく、世界の反ファシズム抵抗運動をはじめとする連合国陣営の士気は高まった。一方、ヒトラーの戦争指導に対する軍部の不信は広がり、イタリアは戦線離脱を模索し始めた。独ソ戦は、ヒトラーには「死活の闘争」となった。ヒトラーは総動員体制をとったが、1943年夏の総攻撃に失敗し、以後、退勢を挽回(ばんかい)できなかった。
 1943年7月、英米軍がシチリア島に上陸し、たちまちこれを制圧すると、イタリアでは国王を中心とする軍部や保守派は、7月25日ムッソリーニを逮捕し、バドリオ政府を成立させた。バドリオ政府はただちに英米と交渉を始め、9月3日無条件降伏をした。同月8日これが発表されると、ドイツ軍はイタリア全土を制圧し始めた。翌9日、英米軍はサレルノに上陸し、ローマに向かった。国王とバドリオ政府は南イタリアに逃れ、10月13日ドイツに宣戦した。一方、ドイツ軍に救出されたムッソリーニは、北イタリアに「イタリア社会共和国」を樹立した。イタリアでの戦争は1945年5月まで続くが、この一種の内乱状態のなかで国王と保守派の権威は失われる(1946年5月王制廃止)。
 ソ連の強い要望にもかかわらず、英米が「第二戦線」を延期し、北アフリカ作戦を展開したことは、スターリンの英米に対する不信を強めた。1942年12月以来、ソ連はヒトラーに和平を打診するが、ヒトラーは独ソ間に妥協はありえないとしてこたえなかった。1943年1月の英米からのカサブランカ会談への招待も、スターリンは断った。だが、英米がこの会談で「無条件降伏」方式を宣言し、日独伊との妥協の可能性を自ら閉ざしたことは、対ソ関係には好影響を及ぼした。ところが、1943年4月「カティンの森」事件が起こった。ドイツのゲッベルスは、スモレンスク近郊カティンの森でソ連秘密警察に殺害された約4400人のポーランド将校の遺体を発見したと発表した。ポーランド亡命政府が国際赤十字の調査を要求すると、ソ連は亡命政府との関係を断った。さらに同年9月のイタリア降伏交渉からソ連が除かれたことも、ソ連の不信を高めた。
 こうして1943年8月のケベック会談で、米英は1944年5月の第二戦線開設を決定し、ソ連に通告したが、これが対ソ関係を改善したことはいうまでもない。1943年10月、米英ソ三国外相会議が開催され、戦後ヨーロッパ問題を検討するため「ヨーロッパ諮問委員会」をロンドンに設置することが決められた。なお、ケベック会談では、チャーチルの戦略(地中海作戦の強化)が初めてアメリカに対して貫徹できなかったが、以後、戦略ではイギリスはアメリカに従属するようになる。アメリカは、戦後ヨーロッパで圧倒的優位を占めるのはもはやイギリスでなくソ連であろうと予想し、ソ連との関係を重視し始めたのである。
 1943年11月、米英中首脳はカイロで会談し、対日処理方針として、中国への満州・台湾の返還、朝鮮の独立が宣言された。続いて11~12月、米英ソ首脳はテヘランで会談した。ここでは、ソ連軍の進撃を前にする東・中欧問題が取り上げられ、ポーランドの東国境はカーゾン線(第一次世界大戦後の1919年12月に画定された国境線)、西国境はオーデル川とされた。このとき、スターリンは、対独戦終了後の対日戦参加の意向を改めて示した。[吉田輝夫]
戦局の転換(太平洋戦争)
1943年、太平洋での戦局も転換した。すなわち、日本は、第二段作戦としてアメリカとオーストラリアを「遮断」しようとしたが、1942年6月のミッドウェー海戦で重大な打撃を受けた。日本海軍機動艦隊の主力は失われ、太平洋での戦略的主導権はアメリカに移った。ついで8月、アメリカ軍はガダルカナル島に上陸、激戦のすえ1943年2月、日本軍は敗退した。以後アメリカ軍の反攻は目覚ましく、ニューギニア、ソロモン群島から、同年秋にはギルバート諸島、マーシャル群島に向かって戦闘が展開された。1944年3月、ビルマの日本軍は、インパール作戦によってインドに侵入しようとしたが、7月大敗した。マリアナ諸島に迫るアメリカ軍もこの7月、サイパン島を占領し、日本本土空襲の基地を得た。この責任を問われて東条内閣は辞職し、7月小磯国昭(こいそくにあき)内閣が成立した。太平洋方面総司令官マッカーサーは、フィリピン奪回のため、10月レイテ島に上陸した。日本海軍はレイテ湾のアメリカ艦隊の撃滅に全力をあげたが、失敗した。中国戦線でも、1943年から1944年には重大な変化がみられ始めた。中国共産党の八路軍、新四軍によって華北や華中に「解放区」がつくられ、日本軍はようやく点(都市)と線(鉄道)を確保するにすぎなかった。[吉田輝夫]
ヨーロッパにおける戦争終結
1944年6月6日、アイゼンハワー将軍の指揮する英米連合軍は、北フランスのノルマンディー地方に上陸した。将兵15万人、戦車1500台、船舶5300隻、航空機1万2000機が投入された。英米軍の進撃とともにフランスの抵抗運動も活発化し、8月パリ市民は自力でパリを解放し、ドゴールを迎えた。敗北を前にドイツでは、軍部を中心とする保守派が、7月20日反ヒトラー・クーデターを試みたが、ヒトラー暗殺はならず、惨めな失敗に終わった。
 米英軍に呼応してソ連軍の進撃も目覚ましく、1944年夏から秋にはソ連領を解放し、東・中欧、バルカン諸国に進撃した。ここでは、ナチス・ドイツと結ぶ伝統的支配層が力を失い、かわって抵抗運動を担った共産党を中心とする民主勢力が登場し、ソ連軍と協力して新政権を樹立した。
 ルーマニアでは、1944年3月ソ連軍が迫ると、国王と軍部は国民民主戦線に協力してクーデターを起こし、9月ソ連と休戦協定を結び、対独参戦をした。
 ブルガリアは、英米に宣戦したが、対ソ戦争には参加しなかった。1944年戦局が枢軸側に不利になると、英米と和平工作を始めたが、同年9月ソ連がブルガリアに宣戦布告し領内に進撃すると、祖国戦線はクーデターで政権を樹立、10月に連合国と休戦協定を結び、対独参戦をした。
 ハンガリーは、ソ連および英米と交戦状態にあったが、1943年1月のスターリングラードの敗北以後方向転換し、連合国に接近し始めた。これをみたヒトラーは、1944年3月ハンガリーを占領し、親独的政府を樹立させた。1944年9月ルーマニアが戦線を離脱すると、摂政(せっしょう)ホルティは休戦を決意し、10月休戦協定に調印した。だが、この発表直後にクーデターが起こり、親独的政府が樹立された。東部から進撃してきたソ連軍の協力を得て、1944年12月独立戦線は政府を樹立し、1945年1月連合国と休戦協定を結び、対独参戦をした。
 ユーゴスラビアでは、チトーの率いるパルチザン部隊と、ロンドンの亡命政府に支持されるミハイロビチの「チェトニク」とよばれる抵抗組織があった。チェトニクは、大セルビア主義的傾向をもち、ドイツ軍の厳しい報復を前に待機主義をとったことなどのため、有効な戦闘が展開できず、勢力は伸び悩んだ。これに対してチトーのパルチザン部隊は、民衆の広範な支持を得て国土を解放し、1943年11月チトーは臨時政府を樹立した。連合国は同年11月のテヘラン会談で臨時政府支持を決定したが、チャーチルはこれに亡命政府代表シュバシチを加えることを要求し、ソ連もこれを支持したため、1944年6月チトー‐シュバシチ協定が成立した。
 アルバニアは、1939年4月以来イタリアの占領下にあった。ユーゴスラビア共産党の支援を受け、1941年11月アルバニア共産党が創設され、活発なパルチザン闘争を展開した。1942年9月共産党をはじめとするさまざまのパルチザン部隊は「民族解放運動」に結集し、イタリア軍と、その降伏後はドイツ軍と、独力で戦い、解放区を拡大した。1944年10月共産党のホッジャを首班とする臨時政府が樹立された。
 ユーゴスラビアとアルバニアでは、共産党が広範な民衆の支持を得て自力で国土を解放し、強固な権力基盤を確立したため、戦後政治ではソ連に対して独自性を主張できた。
 フィンランドは、1944年2月からソ連と休戦交渉を始めたが、ドイツの圧力で打ち切られ、9月ドイツと国交を断絶し、ソ連と休戦協定を結んだ。
 以上のような各国の状況を前に、1944年10月、チャーチルはモスクワに赴き、スターリンに、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーではソ連の、ギリシアではイギリスの優越権を認め、ユーゴスラビアでは対等の立場をもつことを提案し、その同意を得た。チャーチルはこうして、ロンドンのギリシア、ユーゴスラビア、さらにポーランドの亡命政府の発言権を確保しようとしたのである。ギリシアでは、ドイツ軍撤退と同時に共産党系の国民解放運動(EAM)が蜂起(ほうき)し、これをイギリス軍は弾圧したが、スターリンは介入しなかった。もっとも、このチャーチルとスターリンのいわゆるバルカン分割協定については明確でないことが多く、今後の研究が必要である。
 1944年6月、ソ連軍がカーゾン線を越えると7月末ソ連はポーランドにルブリン政府を樹立した。ソ連と断絶するポーランドのロンドン亡命政府は焦慮に駆られ、8月、武力蜂起によるワルシャワ解放を試みたが、2か月足らずでドイツ軍に鎮圧された。英米の再三の要請にもかかわらず、指呼の間にあったソ連軍は援助しなかった。1945年1月、ソ連軍はワルシャワに入った。ポーランドの両政権の統一や国境については1945年2月のヤルタ会談でいちおうの解決をみた。
 ヤルタ会談での重要な検討事項の一つは、ドイツ処理問題であったが、フランスにも占領地帯を割り当て、ドイツ処理問題での発言権を認めた。すでに1944年12月、スターリンは英米牽制(けんせい)のためドゴールに注目し、ドゴールも対独政策で英米を牽制しようとし、仏ソ相互援助条約を締結していた。こうしてフランスは大国の地位を回復する。なお、ヤルタ会談ではソ連の対日参戦も決定されるが、この条件としての対日処理に関する秘密協定は、のちに問題を残した。
 ヒトラーは1944年12月、西部戦線アルデンヌで一大反撃を試みたが、4日で壊滅した。ソ連軍は1945年2月オーデル川、4月ナイセ川に達した。英米軍は3月ライン川を渡り、4月25日、エルベ川のトルガウでソ連軍と交歓した。この日、ソ連軍はベルリンに突入した。事態に絶望したヒトラーは、4月29日、「政治的遺言」をしたため、翌30日愛人エバ・ブラウンと結婚式をあげ、自殺した。後継者に任命されたデーニッツ提督は、軍隊と民間人をできるだけ英米占領地区に移し、5月7日降伏、9日、ベルリンで降伏文書に調印した。5月23日、デーニッツ政府の全員は逮捕され、ここにナチス・ドイツの第三帝国は名実ともに消滅した。イタリア戦線のドイツ軍は4月29日降伏した(4月28日、ムッソリーニとその愛人は、ミラノ近郊コモ湖畔でパルチザンに殺害された)。こうしてヨーロッパの戦争は終了した。[吉田輝夫]
日本の降伏
1944年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を占領すると日本本土爆撃を計画し、1944年11月以来爆撃機B-29による空襲を始めた。1945年3月10日の東京大空襲では下町一帯が焼け野原となり、死者は約8万人に達した。1945年2月、アメリカ軍は硫黄島(いおうとう)に上陸し、1か月もの激戦ののち日本軍は「玉砕」した。4月には沖縄本島に上陸。3か月に及ぶ沖縄戦も日本軍の壊滅に終わったうえに、県民非戦闘員の死者は約9万人に上り、きたるべき本土決戦の悲惨な様相を暗示した。4月7日鈴木貫太郎内閣が成立すると、国民には本土決戦を呼びかけながら、ひそかにソ連に和平仲介を求める交渉を始めたが、進展するはずもなかった。7月26日、米英中は「ポツダム宣言」で対日処理方針を示すとともに、無条件降伏を要求した。日本がこれを「黙殺」したこともあり、アメリカは8月6日広島に、9日長崎に原子爆弾を投下した。2発の原爆による死亡者数は約34万人と推計されている。
 日本はソ連への和平仲介工作に期待をかけていたが、8月8日ソ連は日本に宣戦布告した。同9日ソ連軍は「満州」に進撃した。関東軍はたちまち崩壊し、取り残された日本人居留民には悲劇がもたらされた。ここに日本の最高指導層も降伏を決意し、10日、天皇の国家統治の大権を変更しないとの了解事項を付してポツダム宣言を受諾することに決した。これに対しアメリカは、英ソ中の承認を得て、天皇の権限は連合国軍最高司令官に従属するとの回答を示した。これは間接的に天皇の地位を認めるものであったが、主戦論者は「国体護持」を理由に、この回答ではポツダム宣言は受諾できないと反対した。かくて14日御前会議が開かれ、昭和天皇の裁断でポツダム宣言の受諾を決定し、15日天皇は詔書を国民に放送した。
 日本降伏とともに、日本占領連合国軍最高司令官となったマッカーサーは、1945年8月15日、占領地域を割り当て、ソ連には「満州」、内蒙古(うちもうこ)、38度線以北の朝鮮、南樺太(みなみからふと)をゆだねた。これはソ連を日本本土の占領から排除することを意味する。スターリンが北海道北半の占領を希望すると、トルーマンはこれを退け、アメリカ軍だけで日本本土を占領する意思を表明した。[吉田輝夫]

大戦の結果および諸特質


戦争被害
第二次世界大戦は、文字どおり世界を戦場とし、世界のほとんどの国を巻き込んだ。動員兵力約1億1000万人、戦死者約2500万人、民間人犠牲者約2500万人、戦傷者約3500万人といわれる。このうちソ連の犠牲がもっとも大きく、戦死者約1360万人、民間人を含めて約2000万人、全人口の10分の1以上であった。中国は死者約2000万人以上といわれる。ついでポーランドが、死者約600万人、戦前人口比率17%でもっとも高く、うち戦死者は2%で、圧倒的多数は民間人の犠牲者であった。第一次世界大戦と比べると、交戦国2倍、動員兵力2倍、戦死者5倍、民間人犠牲者50倍、戦傷者2倍、直接戦費6倍といわれる。戦争による物質的損害は、ソ連の一例から推測されるように莫大(ばくだい)なものであった。
 ポーランドの例が端的に示すように、第二次世界大戦の性格は民間人の犠牲者が多いことにも反映している。ナチス・ドイツの人種論的絶滅政策のため約500万人のユダヤ人が殺害されたが、これはドイツ支配下のユダヤ人の70%といわれる。もちろんロシア人も殺害された。さらにドイツ人植民のためのスラブ系住民の放逐政策、労働力不足を補うための労働力徴発政策に伴う犠牲者もいる。パルチザンを含む抵抗運動の犠牲者も少なくなかった。また、広島・長崎への原子爆弾投下(死者約34万人)、ドレスデン空襲(1945年2月13日、死者約13万5000人)にみられるように、第二次世界大戦は非戦闘員を除外しないジェノサイド〔大量殺戮(さつりく)〕戦争であった。[吉田輝夫]
戦争責任の追及と民主化
この大戦のもう一つの特質は、最初から戦争責任の所在が明瞭(めいりょう)であったことにある。日本、ドイツ、イタリアは国内でファシズム化を推進しつつ対外侵略に乗り出したからである。連合国は、ニュルンベルク国際軍事裁判、極東国際軍事裁判その他で、戦争犯罪人を追及するとともに、日本、ドイツを占領し、民主的改革を遂行した。この過程で伝統的支配層が弱化したことは否めない。[吉田輝夫]
技術革新
戦争は技術革新をもたらすという。勝利の武器を求めて互いに鎬(しのぎ)を削るからである。第二次世界大戦でも技術革新は著しく、経済や社会の構造を変化させ、その発展に大きな影響を及ぼした。第一次世界大戦では、小火器による歩兵戦が塹壕(ざんごう)戦に陥り決戦に至らなかったが、第二次世界大戦では航空機と戦車が戦局の帰趨(きすう)を決したといえる。戦艦「大和(やまと)」に象徴される大艦巨砲時代は去り、航空母艦を中心とする機動艦隊が海戦を決し、落下傘部隊が登場し、急降下爆撃機と結合する機甲部隊の「電撃戦」がみられるに至った。また、大型爆撃機による戦略爆撃も始まった。軍事施設や軍需工場、さらには都市を破壊し、抗戦力をくじこうというのである。このため、航空機の航続距離・速度・搭載力などが急速に改良された。ジェット機も開発されるが、大戦中はまだ重要な役割を果たさなかった。爆撃を有効にするため、爆弾の大型化、破壊力の強化も促進された。一方、空襲に対する防衛のためレーダーが発明された。こうして、無人機、誘導弾、ロケット弾、バズーカ砲(ロケット式対戦車砲)などさまざまな新兵器が開発され、対抗措置も考案されたが、開発競争の頂点にたつのは原子爆弾であった。
 戦争の機械化に伴い、不足する燃料や原料の代替品の研究と生産も推進された。ドイツでは、石炭を液化した人工燃料は1943年約570万トン生産され、全供給量の半分に達したし、1942年の人工ゴムの生産は1938年の供給量を上回ったという。そのほか、戦時下の医療面では、化学療法が発達し、スルフォンアミド剤、ペニシリンなどの抗生物質が用いられるようになった。もちろん、技術革新は軍需工業に限らない。需要増大と労働力不足のため大量生産方式が導入され、原料不足を補い生産費を引き下げるための技術革新はあらゆる産業で推進された。こうしてみると、第二次世界大戦は一面では技術革新の戦争であったといえる。勝敗は、より優れた爆撃機をより早く、より多く生産できるか否かにかかっていたからである。原子爆弾の開発は、初めイギリスで着手され、アメリカがこれを受け継ぎ、20億ドルを投じて完成させたが、ここに端的に示されるように、新技術の開発はアメリカのような経済大国で初めて可能であったし、またこのような開発によってアメリカは技術力でイギリスを凌駕(りょうが)し、さらに敗戦国ドイツのロケット技術を吸収して資本主義世界で最大最強の軍事国家となったのである。[吉田輝夫]
世界政治の構造変化
この大戦を通じて、世界政治の構造的要因は大きく変化した。
 大戦前には国際的に孤立し、独ソ戦で早期崩壊すら予想されたソ連は、連合国の対独戦争勝利に決定的に寄与したことで、社会主義に対する内外の信頼と威信を高め、戦後世界にはアメリカと並ぶ超大国としての姿を現し、国際的発言力を強めた。対独戦反攻過程で、東・中欧諸国では、ナチス・ドイツと結ぶ伝統的支配層は一掃され、共産党を中心とする反ファシズム勢力が政権につき、人民民主主義とよばれる体制を樹立した。こうしてかつての反ソ「防疫線」は瓦解(がかい)し、ソ連を中心とする社会主義圏は拡大した。西欧側はこれをソ連の膨張とみて反発する。
 第一次世界大戦が帝国主義体制の一角を崩し革命運動・民族解放運動を呼び起こしたとすれば、第二次世界大戦は帝国主義体制をさらに弱め、これらの運動を鍛え上げたといえる。抗日戦争を戦い抜いた中国は、五大国の一つになったが、国共対立は内戦に発展し、1949年10月中華人民共和国が成立した。東南アジアでは、日本の敗退と同時に、仏印にベトナム共和国、蘭印(らんいん)にインドネシア共和国が成立した。かつての植民国フランス、オランダはこれを武力で鎮圧するが、大戦前の植民地に戻すことはできなかった。すでに、東アジア・東南アジアの欧米帝国主義列強の植民地支配体制は、日本の侵略によって破壊されていたし、「大東亜共栄圏」に対する抵抗を通じて、民族解放のための運動が飛躍的に高まっていたからである。もちろん、インドから中東・アフリカに至る地域でも、民族解放運動は高まり、独立する国が相次いだ。
 イギリスは、勝利を収めたものの、戦争目的とした世界帝国を維持できなかった。植民地の独立はもはや抑えられず、自治領は独自の道を歩み始めていた。カナダ、オーストラリアでは、軍需生産による工業化が著しかった。イギリスの東・中欧における政治的・経済的支配は覆され、伝統的なヨーロッパ大陸に対する勢力均衡策の前提は失われた。しかも大戦を通じてアメリカとの関係は逆転し、アメリカに対する従属を深めたのである。1945年7月総選挙の結果、チャーチルにかわってアトリーの労働党政府が成立した。国民は国内改革でもって激動する世界政治的状況に対応する道を選んだというべきであろう。
 フランスは、1940年6月敗北し、ナチス・ドイツの従属国的地位に落とされたが、その名誉を救ったのは民衆の抵抗運動であった。ドゴールはこれら抵抗運動を統一し、新たな第四共和政の基礎を確立するとともに、米英ソに次ぐ大国としての地位を獲得し、米ソ間で独自の対独政策を追求した。だが植民帝国としての復活を夢みることで、フランスの栄光はふたたび失われる。
 こうして資本主義世界では、ひとりアメリカのみが生産力を発展させ、最大最強の資本主義国として、縮小し疲弊した資本主義世界を指導せざるをえなくなった。アメリカは、すでに1945年1月ソ連の約600億ドルの信用供与要請を拒否し、5月ソ連への武器貸与法による引き渡しを厳しく制限していた。8月に対日戦争で原爆を使用したのは、一つにはソ連に対する示威であった。米ソは対立し始める。[吉田輝夫]
平和条約
米ソを両極とする両体制の対立が激化した「冷戦」のなかで平和条約の締結は容易でなかった。1946年7~10月のパリ平和会議ではトリエステ問題をめぐって米ソが対立し、1947年2月10日、ようやくイタリア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、フィンランドに対する講和条約が調印された。イタリアは北アフリカの植民地を失い、フランス、ユーゴスラビア、ギリシアに領土を割譲した。トリエステは国際連合統治下の自由地域とされたが、1954年イタリアとユーゴスラビアとの間で分割され、いちおうの解決をみた。ルーマニアは1940年のソ連への領土割譲を再認したが、トランシルバニア地方の大部分を回復した。ハンガリーの国境はほぼ1938年の国境とされた。ブルガリアは南ドブルジア地方の領有が認められ、1941年の国境をほぼ維持した。フィンランドについては1939年のソビエト・フィンランド戦争によるソ連への領土割譲が認められた。
 ドイツ処理の方針は、1945年8月2日のポツダム議定書で明らかにされたが、その解釈をめぐって米ソはことごとに対立し、1947年末のロンドン四国外相会議は決裂した。1949年にはドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とドイツ民主共和国(旧東ドイツ)とが樹立され、米英仏は1952年5月西ドイツと「平和取決め」条約を結び、1954年10月のパリ協定で西ドイツの主権を回復し、事実上の単独講和を結んだ。これに対してソ連は、1953年5月東ドイツに自立権を与え、1955年9月東ドイツの主権を回復した。こうして二つのドイツは固定化され、平和条約は締結されなかったが、1970年西ドイツがオーデル・ナイセの国境線を認め、1972年には東西両ドイツ間に基本条約が調印されたことは、平和条約のなし崩し的な実現といってよい。
 対日処理方針は、1945年7月26日の対日ポツダム宣言に示されたが、対日講和問題でも米ソは一致せず、また日本国内の世論も分裂したが、1951年9月8日サンフランシスコで対日講和条約が調印された。ソ連、チェコスロバキア、ポーランドは調印を拒否した。中国は招請されず、インド、ビルマ(ミャンマー)、ユーゴスラビアは会議に参加しなかった。中華民国、インド、ビルマとはのちに平和条約を締結した(ただし、日華平和条約は1972年9月の日中国交回復で消滅した)。[吉田輝夫]

研究史


研究史の動向
大戦史の研究を回顧してみれば、そこには戦後史の展開が強く反映されているのに気づく。米ソを両極とする両陣営の対立が激化したいわゆる「冷戦」期には、アメリカが『独ソ関係文書集』(邦訳『大戦の秘録』)で独ソ不可侵条約の秘密付属議定書を暴露し、ソ連の大戦責任を示唆すると、ソ連は『歴史の偽造者』で英仏の宥和(ゆうわ)政策を激しく非難した。以後、大戦史研究の重心は1939年夏に置かれてきたといっても過言ではない。大戦の歴史的意義をどうとらえるか、つまり近代史の発展ないし展望のなかで大戦をいかに位置づけるかは、独ソ関係と宥和政策の評価にかかっているからである。研究史上有名な前述のテイラー論争も、ヒトラーの評価をめぐるとともに宥和政策の評価をめぐって展開されたのであった。大戦史研究における若干の論点については、本文で簡単に触れておいた。[吉田輝夫]
戦史に関する基本的文献
第二次世界大戦関係の資料・文献は、現在10万点に上るといわれる。このうち基本的文献としてとくに注目すべきものをあげれば、まずアメリカ、イギリス、日本の公式・準公式の膨大な戦史シリーズ(後記注1)がある。だがこれは詳細な戦争の記録であって、第二次世界大戦の世界史的意義を明らかにするようなものではなかった。最近、欧米でも第二次世界大戦の研究はますます精緻(せいち)化し、詳細な個別研究に埋没しているが、それだけにこれらの研究を踏まえた全体的な総合的展望の必要性が強調されている。この点では、旧ソ連、旧東西ドイツの第二次世界大戦史(注2)に意欲的な試みが認められるが、これらはいずれもヨーロッパ中心的、自国中心的解釈をまだ克服していないように思われる。われわれは、日本の太平洋戦争史(注3)を誇りにしてよい。[吉田輝夫]
(注1) ▽United States Army in World War , Office of the Chief of Military History, Dept. of the Army, Washington, 1947 ff.(現在99巻に上る)
▽The Army Air Forces in World War , U. S. Air Force, USAF Historical Division, 7 vols., Chicago, 1948~1958
▽United States Strategic Bombing Survey Reports(319 Parts), Washington, 1945~1947
▽Samuel Eliot Morison : History of United States Naval Operations in World War , 15 vols., Boston, 1947~1962
▽History of the Second World War, United Kingdom Military Histories, United Kingdom Civil Series, United Kingdom Medical Series, London, 1952 ff.(現在80巻に上る)
▽航空自衛隊幹部学校訳・編『アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告』全26巻(1959~1961・航空自衛隊幹部学校)
▽防衛庁防衛研究所戦史部編『大東亜戦争公刊戦史叢書』全102巻(1966~1980・朝雲新聞社)
(注2) ▽История великой отечественной войны советского союза/Istoriya velikoy otechestvennoy voynsovetskogo soyuza 1941~1945, 1960(川内唯彦訳『第二次世界大戦史』全10巻・1963~1966・弘文堂)
▽W. Schumann / G.Hass (hrsg.) : Deutschland im Zweiten Weltkrieg, 6 Bde., 1974~1985
▽Militrgeschichtlichen Forschungsamt (hrsg.) : Das Deutche Reich und der Zweite Weltkrieg, 10 Bde., 1979~
(注3) ▽日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』7巻・別巻1(1962~1963・朝日新聞社)▽歴史学研究会編『太平洋戦争史』全6巻(1971~1973・青木書店) ▽家永三郎著『太平洋戦争』(1968・岩波書店)
『●大戦前史 ▽H・メイヤー著、岡田丈夫・陸井四郎訳『第二次世界大戦の史的分析』(1953・三一書房) ▽W・ホーファー著、林健太郎・斉藤孝訳『第二次世界大戦前史』(1958・御茶の水書房) ▽A・J・P・テイラー著、吉田輝夫訳『第二次世界大戦の起源』(1977・中央公論社) ▽P・ルヌーバン著、鹿島守之助訳『第二次世界大戦の原因』(1972・鹿島研究所出版会) ▽斉藤孝著『第二次世界大戦前史研究』(1965・東京大学出版会)』
『●戦間期および大戦の概観 ▽上山春平著『世界の歴史 23 第二次世界大戦』(1974・河出書房新社) ▽宍戸寛著『世界の歴史 12 二十世紀の世界』(1975・社会思想社) ▽岡部健彦著『世界の歴史 20 二つの世界大戦』(1978・講談社) ▽筑摩書房編集部編『世界の歴史 16 大戦間時代』(1979・筑摩書房) ▽村瀬興雄責任編集『世界の歴史 15 ファシズムと第二次大戦』(中公文庫) ▽神谷不二著『世界の戦争 9 20世紀の戦争』(1985・講談社) ▽『岩波講座世界歴史28 現代5――1930年代』『岩波講座世界歴史29 現代6――第二次世界大戦』(1971・岩波書店) ▽A・J・P・テイラー著、古藤晃訳『第二次世界大戦』(1981・新評論) ▽R・カルチェ著、伊東守男・大友徳明・志摩隆訳『全史第二次世界大戦実録』全3冊(1972・小学館)』
『●軍事史・回想録・伝記 ▽B・リデルハート著、上村達雄訳『第二次世界大戦』(1978・フジ出版社) ▽服部卓四郎著『大東亜戦争全史』(1965・原書房) ▽チャーチル著、毎日新聞翻訳委員会訳『第二次大戦回顧録』全24巻(1949~1955・毎日新聞社) ▽A・バロック著、大西尹明訳『アドルフ・ヒトラー』全2巻(1958、1960・みすず書房) ▽ドゴール著、村上光彦訳『ドゴール大戦回顧録』全6巻(1960~1966・みすず書房) ▽L・フェルミ著、柴田敏夫訳『ムッソリーニ』(1967・紀伊國屋書店) ▽R・シャーウッド著、村上光彦訳『ルーズヴェルトとホプキンズ』全2巻(1957・みすず書房) ▽I・ドイッチャー著、上原和夫訳『スターリン』(1963・みすず書房)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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