チトー(読み)ちとー(英語表記)Tito

翻訳|Tito

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チトー」の意味・わかりやすい解説

チトー
ちとー
Tito
(1892―1980)

ユーゴスラビアの政治家。本名ヨシップ・ブロズJosip Broz。「チトー」というのは、コミンテルン書記局員として非合法活動に従事したころの偽名の一つである。5月7日クロアチアのクムロベツ村の農家の七番目の子として生まれ、鍛冶(かじ)工となり、1910年に社会民主党に入って金属労働者の間で活動した。第一次世界大戦中にロシア戦線で負傷し、十月革命により捕虜収容所から釈放され、赤衛軍に参加した。1920年に帰国してユーゴ共産党に加入、クロアチアで金属労組書記として活動した。1928年に党ザグレブ地区委書記となったが、すぐ逮捕され5年間投獄された。1934年に党政治局員に選任され、コミンテルン書記局員となったり、スペイン義勇軍派遣活動を行ったりした。1937年に国内組織再建任務を負って党書記長に任命された。第二次世界大戦ではパルチザン部隊を結成しその最高司令官となり、枢軸軍と戦った。1943年の第2回民族解放反ファシズム評議会で臨時政府の首相兼国防相に就任、同時にユーゴスラビア元帥の称号を得た。

 戦後、首相兼国防相に正式に就任、憲法が制定された1953年以降は大統領に移った。党(1966年に共産主義者同盟改称)の最高指導者の地位も継続して保持した。その間、1947年のコミンフォルム結成を含む東欧圏の再編成に尽力したが、その自主的態度スターリンの怒りを買い、1948年にユーゴスラビアはコミンフォルムから追放された。その後、ソ連圏からの多様な圧力のもとで、労働者自主管理を軸とする独自の社会主義を樹立した。スターリンの死(1953)後ソ連の態度が変わり、1955年に関係が改善されたが、チトーは第三世界諸国とともに非同盟運動を創設した。私的生活面では、1952年に三度目の結婚によりヨバンカ夫人といっしょになった。1980年に足の動脈瘤(りゅう)が悪化し、5月4日リュブリャナの病院で死去した。

木戸 蓊]

『V・ヴィンテルハルテル著、田中一生訳『チトー伝』(1972・徳間書店)』『Z・シュタウブリンゲル著、岡崎慶興訳『チトー・独自の道』(1980・サイマル出版会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チトー」の意味・わかりやすい解説

チトー
Tito

[生]1892.5.7. フルバツコザゴーリエ,クムロベツ
[没]1980.5.4. リュブリャナ
ユーゴスラビアの政治家,最高指導者。本名はヨーシプ・ブローズ Josip Broz。クロアチアの農家に生れ,金属労働者となり,1910年にクロアチア=スロベニア社会民主党に入党。 12年兵役につき,第1次世界大戦の勃発後,15年東部戦線に送られて重傷を負い,ロシア軍の捕虜となった。 17年ボルシェビキ革命に遭遇,赤衛隊に参加。 20年帰国,共産党に入党。 27年党ザグレブ地区委員として職業革命家の道に入り,翌年逮捕された。 34年出獄,党政治局員となり,35年コミンテルン・バルカン書記局へ派遣された。 37年党書記長となり,ユーゴ人から成るスペイン義勇軍の結成に尽力すると同時に,分裂して機能麻痺に陥っていたユーゴの党を再建する任務を遂行,国内組織を再建。第2次世界大戦では対独抵抗運動を組織,最盛時 80万にも及ぶパルチザン部隊を育て上げた。 43年に臨時政府首班,45年に正式に首相に就任。戦後の内外政策に対するソ連の干渉を受付けず,48年にコミンフォルムから除名されると,ソ連圏諸国からの各種圧力に屈せず,チトー主義と呼ばれる独自の社会主義路線を開拓し,61年に非同盟諸国首脳会議を主催するなど対外的にも活躍。 53年新憲法制定とともに大統領に就任,63年の新憲法により終身大統領となり,74年憲法でも終身大統領に選出された。また 52年に共産党が共産主義者同盟と改称してからもその議長をつとめ,名実ともに最高指導者として歴史的,文化的に多様な同国の一体性を保持する核となっていた。

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