翻訳|Tito
旧ユーゴスラビアの政治家。本名ヨシップ・ブロズJosip Broz。「チトー」というのは、コミンテルン書記局員として非合法活動に従事したころの偽名の一つである。5月7日クロアチアのクムロベツ村の農家の七番目の子として生まれ、鍛冶(かじ)工となり、1910年に社会民主党に入って金属労働者の間で活動した。第一次世界大戦中にロシア戦線で負傷し、十月革命により捕虜収容所から釈放され、赤衛軍に参加した。1920年に帰国してユーゴ共産党に加入、クロアチアで金属労組書記として活動した。1928年に党ザグレブ地区委書記となったが、すぐ逮捕され5年間投獄された。1934年に党政治局員に選任され、コミンテルン書記局員となったり、スペイン義勇軍派遣活動を行ったりした。1937年に国内組織再建の任務を負って党書記長に任命された。第二次世界大戦ではパルチザン部隊を結成しその最高司令官となり、枢軸軍と戦った。1943年の第2回民族解放反ファシズム評議会で臨時政府の首相兼国防相に就任、同時にユーゴスラビア元帥の称号を得た。
戦後、首相兼国防相に正式に就任、憲法が制定された1953年以降は大統領に移った。党(1966年に共産主義者同盟と改称)の最高指導者の地位も継続して保持した。その間、1947年のコミンフォルム結成を含む東欧圏の再編成に尽力したが、その自主的態度がスターリンの怒りを買い、1948年にユーゴスラビアはコミンフォルムから追放された。その後、ソ連圏からの多様な圧力のもとで、労働者自主管理を軸とする独自の社会主義を樹立した。スターリンの死(1953)後ソ連の態度が変わり、1955年に関係が改善されたが、チトーは第三世界諸国とともに非同盟運動を創設した。私的生活面では、1952年に三度目の結婚によりヨバンカ夫人といっしょになった。1980年に足の動脈瘤(りゅう)が悪化し、5月4日リュブリャナの病院で死去した。
[木戸 蓊]
『V・ヴィンテルハルテル著、田中一生訳『チトー伝』(1972・徳間書店)』▽『Z・シュタウブリンゲル著、岡崎慶興訳『チトー・独自の道』(1980・サイマル出版会)』
ユーゴスラビアの革命家,政治家。ティトーとも書くが,正しくはティトと発音する。本名ヨシップ・ブロズJosip Brozで,ブロズ・ティトとも名のった。クロアチア北部,ザゴリエ地方の生まれ。15人兄弟の7番目で,貧しい幼年時代を送る。15歳のときにシサクで錠前師の徒弟となり,進歩的な思想に接した。1910年,主都ザグレブで金属労働組合員,社会民主党員となる。その後チェコ,ドイツ,オーストリアで修業時代を送った。第1次世界大戦に従軍するが負傷,ロシア軍の捕虜としてロシア革命を体験した。20年に帰国すると共産党へ入党し,27年ザグレブ地区書記となる。28年非合法活動のかどで逮捕され,5年の刑を受けた。34年出獄,クロアチア地方委員となり,匿名〈チトー〉を使用し始める。同年末モスクワのコミンテルン・バルカン書記局へ赴き,36年末まで滞在。37年ユーゴスラビア共産党書記長に就任すると,スペインへ義勇兵を送り,中央委員会を国内に移し,とかく依頼心と利権争いの因となっていた外部からの資金援助を絶った。こうして独立強化された党を率いて反ナチス闘争を展開し,まもなく第2次世界大戦が始まると,パルチザン戦術を用いて祖国解放戦争を勝利に導き,王制を打倒して同時に社会主義革命をも達成した。43年すでに臨時政府の議長兼防衛長官,戦後も首相と国防相を兼務して,スターリンの信頼厚い東欧第1の指導者と目された。しかし民族主義的偏向などの理由(いわゆるチトー主義)で糾弾され,ユーゴスラビア共産党は48年コミンフォルムから除名された。彼は50年工場の管理・運営を労働者にまかせ(労働者管理),大幅な権力をコミューンに下降させて国民の自覚を促し(自主管理),ネルーやナーセルらと語らい積極的中立外交を展開する。55年フルシチョフが飛来してスターリンの過ちを認めたことと,61年第1回非同盟諸国首脳会議をベオグラードで開いたことは,彼の輝かしい外交的勝利だった(非同盟諸国会議)。元帥,党書記に加え,53年初代大統領,63年終身大統領に選ばれても精力的に国民と接触し,複雑な多民族国家を統一して88年の生涯を全うした。これほど国民から愛された政治家も珍しい。
チトーの政治哲学は中庸である。コミンフォルム追放後,スターリンの死を契機としてソ連と接近するに際しては,極端なリベラル派のジラスを退け,60年代半ばに新経済政策を断行したときに,正統マルクス主義の立場から抵抗した副大統領ランコビッチの首を切ったのは,その好例だろう。冷戦下で東西が分裂していた1950年代に積極的中立を唱えて第三世界を糾合し,非同盟諸国を今日のような一大勢力にまで発展させたのは,彼が国際舞台にあっても優れて平衡感覚の持主だったことを示している。
執筆者:田中 一生
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1892.5.25 - 1980.5.4
ユーゴスラビアの政治家,軍人。
元・ユーゴスラビア終身大統領。
クロアチア生まれ。
本名ヨシップ・ブロズ。
1910年社会民主党員となり、第一次大戦では、ロシア軍の捕虜となる。’20年ユーゴ共産党に入党。’28年党ザグレブ地区委書記となるが、逮捕され、5年間投獄される’34年党政治局員を経て、’37年党書記長となる。’43年臨時政府の首相兼国防相に選ばれ、戦後、正式となる。その後その自主的態度がスターリンから非難され、’48年コミンフォルムより追放される’53年憲法が制定されると、大統領となり、党の最高指導者としての地位も維持する。’55年第三世界諸国と共に非同盟運動を創設。’63年終身大統領となる。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…独自の社会主義への道は,ソ連社会主義モデルの信奉に引き戻され,それに抵抗したユーゴスラビア共産党は,48年6月破門された。チトーとユーゴスラビア共産党はファシズムの共犯者,アメリカ帝国主義のスパイと非難されながらも,スターリンの要求に屈せず独自の道を歩んだ。ソ連共産党が和解の手を差しのべたのは,スターリンの死後であり,第一書記に就任したフルシチョフは55年5月ベオグラードを訪問,ユーゴスラビア共産党に加えられた数々の侮辱を詫びた。…
… 53年ころからの〈雪解け〉によりアジア・アフリカ諸国の独自の動きは活発になり,54年4月のコロンボ会議,55年4月のアジア・アフリカ29ヵ国のバンドン会議という形で盛り上がった。1948年にソ連圏から追放されていたユーゴスラビアのチトー大統領が,54‐55年にインド,ビルマ,エチオピア,エジプトを訪問し,56年7月にネルー,ナセル(エジプト大統領)をブリオニ島に招いて会談したことが,非同盟諸国の国際的結束の出発点となった。61年2月になって,チトーとナセルが非同盟諸国首脳会議開催のイニシアティブをとり,同年9月にベオグラードにおいて第1回会議開催のはこびとなったのである。…
… しかし,抵抗が明確に武装闘争の局面に入っていくのは,東ヨーロッパでも独ソ戦開始以後のことであった。ユーゴスラビアではその5日後の6月27日,チトーの指導の下に人民解放パルチザン軍が結成され,占領軍との全面的な武装対決に進んでいった。ドイツ軍が深く国内に侵入し,ウクライナなどを占領されたソ連でも,パルチザン戦が各地で展開された。…
※「チトー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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