リキメル
Flavius Ricimer
生没年:?-472
西ローマ帝国末期の将軍。スエビ族長と西ゴート王女の息子でアリウス派キリスト教の信奉者。アウィトゥス帝治下の456年シチリアでバンダルを撃退し,西ローマの最高軍司令官となるが,同年反旗を翻してアウィトゥス帝を廃した。457年東帝からパトリキウス称号を授与されたのち,マヨリアヌスを西帝位に擁立。459年のコンスルに任じられた。マヨリアヌスの器量を警戒して461年8月同帝を廃位のうえ殺害し,11月リビウス・セウェルスを帝位に擁立。465年同帝が死去すると西帝を立てぬまま実権を振るったが,バンダルの横行に悩まされて東帝レオに援助を要請,その代償として467年アンテミウスを西帝位に迎えた。しかし同帝の娘をめとり,その勢力は依然衰えず,アンテミウス帝との反目は472年ついに内乱にまで発展した。リキメルは対立帝オリュブリウスを立て,同年7月アンテミウスをローマに攻囲して倒したが,翌8月没した。
執筆者:後藤 篤子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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リキメル
Ricimer, Flavius
[生]?
[没]472.8.18.
西ローマの将軍。スエビ人の首領と東ゴート王女との子。シチリア侵入を企てたバンダル族を破り,456年軍の実権を握るとアウィツス帝を退位させ,友人のマヨリアヌスを西ローマ皇帝に推戴,みずからは貴族に列せられ,459年執政官 (コンスル ) になった。やがてマヨリアヌスと不和になり,461年バンダル族に大敗してガリアから帰ったマヨリアヌスを退位させ処刑。次いでリビウス・セウェルスを西ローマ皇帝に推戴。政敵マルケリヌスやアエギディウスを押え,再三イタリアやシチリアに侵入を試みるバンダル,東ゴートを防いだ。リビウス・セウェルス帝の死 (465) 後も,アンテミウス,オリブリウスらの傀儡帝を擁して,東ローマ (ビザンチン帝国) からの干渉を打ち破ったが,みずからは,アリウス派のキリスト教徒で,蛮族の出身であったため,帝位につけなかった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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リキメル
りきめる
Flavius Ricimer
(?―472)
末期西ローマ帝国の将軍で実力者。スエビ人首長の子でアリウス派キリスト教徒。456年アウィトゥス帝に任じられてバンダル人のシチリア侵入を撃退。まもなくアウィトゥスを退位させて実権を握り、マヨリアヌスを西帝に擁立したが、彼の有能さを警戒して461年に処刑。かわりに西帝にたてたリウィウス・セウェルスが465年に死ぬと、しばらく空位状態が続いたが、467年東帝レオがアンテミウスを西帝として送り込むと、リキメルはアンテミウスの娘と結婚して勢力を保った。やがて両者の対立が激化し、472年リキメルはオリブリウスを擁立してアンテミウスを倒したが、まもなく彼自身も死んだ。
[島 創平]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内のリキメルの言及
【マヨリアヌス】より
…将軍アエティウスの下で軍功をたて,アエティウスの死後ウァレンティニアヌス3世によって登用される。456年[リキメル]とともにアウィトゥス帝を倒し,翌年西帝となる。その登位にはリキメルの力があずかっていたが,登位後は防衛力強化や徴税に関する不正の是正などに主体的・積極的に取り組んだ。…
【リビウス・セウェルス】より
…在位461‐465年。イタリア南部ルカニア出身の無名の元老院議員であったが,461年11月[リキメル]により西帝に擁立される。東帝レオをはじめ,アエギディウスら西ローマの有力武将にも承認されなかったが,リキメルは同盟部族の西ゴートやブルグントを利用して西ローマ内の不満を抑えた。…
【ローマ】より
… アエティウスはウァレンティニアヌス3世によって殺された(455)が,後者もアエティウスの部下に刺殺され,西の帝国は最後の急坂をころげていった。ペトロニウス・マクシムス(在位455),アウィトゥス(在位455‐456),マヨリアヌス(在位457‐461),リビウス・セウェルス(在位461‐465)と皇帝は続いたが,政治の実権は456年秋以後,スエビ出身の軍人リキメルが掌握して,リビウス・セウェルスの死後18ヵ月皇帝の空位期間が続いた。次のアンテミウス(在位467‐472)は東帝から送り込まれた皇帝であるが,リキメルと対立して殺され,リキメルもその6週間後に死んだ。…
※「リキメル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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