ロイヤル・シェークスピア劇団(読み)ろいやるしぇーくすぴあげきだん(その他表記)Royal Shakespeare Company

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ロイヤル・シェークスピア劇団
ろいやるしぇーくすぴあげきだん
Royal Shakespeare Company

ナショナル・シアターと並ぶイギリスの代表的劇団シェークスピア生誕の地ストラトフォード・アポン・エイボンに1879年に開場したシェークスピア記念劇場に、やがて常駐劇団が生まれ、1925年ジョージ5世の勅許によって公的な運営になった。しかしロンドンから100マイル離れた地理的条件をなかなか克服できないでいたが、1958年11月にピーター・ホールが責任者に指名されると、劇団活動がにわかに活性化した。なお劇場のほうは1926年に火災のため焼失、6年後の1932年に再建されている。ホールが正式に活動を開始するのは1960年からであるが、最初の1年間に補助金の獲得、舞台の改造、劇団員の3年契約制などの改革を行い、また新たにロンドンでもオールドウィッチ劇場を管下に収めて、シェークスピアだけでなく現代劇にも演目を広げた。1961年2月にエリザベス女王(2世)の勅許を得て劇団名をロイヤル・シェークスピア劇団(RSC)に改称、劇場名もシェークスピア記念劇場からロイヤル・シェークスピア劇場になった。この際「記念」の文字を外したことは象徴的であり、ホールはシェークスピアをあくまで現代劇として現代に再生させることをポリシーに掲げた。たとえばピーター・ブルック演出『リア王』(1962)やホール自身の『ハムレット』(1965)はその答案である。ホールを1968年に引き継いだトレバー・ナンTrevor Nunn(1940― )もホールの路線を踏襲しながら、彼自身の『冬物語』(1969)など、斬新(ざんしん)で節度のある舞台を目ざした。ブルック演出『真夏の夜の夢』(1970)などナンの時代の優れた舞台は数多い。1978年にテリー・ハンズTerry Hands(1941―2020)が共同芸術監督に加わり、1987年に単独芸術監督になった。ハンズの後を1991年にエイドリアン・ノーブルAdrian Noble(1950― )が継いだ。

 劇場のほうも大劇場だけでなくロンドンとストラトフォードに実験用の小劇場を開場した。1982年にロンドンの小劇場はバービカン・センター内に付設された小劇場(ピットThe Pit Theatre)に引き継がれ、ストラトフォードでも小劇場のほかに中劇場(スワンThe Swan Theatre)を新たに開場した。この方針は、低予算の小劇場内にシェークスピア演出の先鋭な実験をみごとに盛り込んだバズ・グッドボディBuzz Goodbody(1946―1975)の『ハムレット』(1975)のような秀作を生んでいる。一方、劇団は不況下の助成金削除のなかで1980年代に『ニコラス・ニックルビー』(1980)にはじまる大掛かりな大衆化路線を打ち出し、『レ・ミゼラブル』(1985)を全世界的に成功させた。

 日本とのつながりでは、1970年(昭和45)の初来日以来しばしば来日し、日本の演劇界につねに影響を与え続けている。1999年(平成11)には蜷川幸雄(にながわゆきお)がこの劇団で英語による『リア王』を演出して話題になった。

[中野里皓史・大場建治]

『大場建治著『シェイクスピアを観る』(岩波新書)』

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