日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホール」の意味・わかりやすい解説
ホール(Stuart Hall)
ほーる
Stuart Hall
(1932―2014)
ジャマイカのキングストンに生まれ、イギリスで活動した社会学者、批評家。その活動はカルチュラル・スタディーズに多大な影響を及ぼした。1951年奨学金を得てイギリス、オックスフォード大学に留学。同大学院に進み、その間にスターリニズム、帝国主義への批判の姿勢を強め、ニュー・レフトの運動にかかわる。『ユニバーシティーズ・アンド・レフト・レビュー』The Universities and Left Review誌の編集を務めると同時に、1957年にロンドンに移り、中学校の補助教員となり、1959年から『ニュー・レフト・レビュー』New Left Review誌の編集長を務める。教条的マルクス主義を批判しながら、ロラン・バルトの記号論、アントニオ・グラムシのヘゲモニー論、アルチュセールをはじめとするフランスの構造主義、ポスト構造主義の思潮を英語圏に紹介。従来の古典的なマルクス主義が目を向けなかったテレビやポピュラー・カルチャーなどのマス・メディアの諸問題にも積極的にかかわり、現代文化とイデオロギー再生産との連関のメカニズムの解明を試みる。
1961年に『ニュー・レフト・レビュー』誌を離れ、ロンドン大学チェルシー・カレッジでメディア、映画、ポピュラー・カルチャーについて教える。このころの映画やテレビ研究を、『ザ・ポピュラー・アーツ』The Popular Arts(1964年、共著)として発表。1964年にバーミンガム大学現代文化研究センターの初代センター長だったホガートRichard Hoggart(1918―2014)に招聘(しょうへい)されて同センターに赴任、1968年から同センター長を務める。メディアとイデオロギー、サブカルチャー、若者文化、教育など、当時のイギリスが直面する問題に取り組み、理論的、実践的な活動を行った。それらの研究は、送り手が一方的に受け手に伝送するという従来のメディア観を批判的に検討し、送り手によりエンコード(記号化)されたメッセージと、受け手によりデコード(記号解読)された読みの多様性との抗争の場としてメディアをとらえた論文「テレビの言説におけるエンコーディングとデコーディング」Encoding and Decoding in the TV Discourse(1973年。のちにEncoding/Decodingに改題)や、モッズ(1960年代ロンドンで若者に流行したファッション・音楽スタイル。名前はモダンズmodernsからきている)、テッズ(エドワード7世時代の貴族的ファッションとリズム・アンド・ブルースをあわせた、おもに1950年代イギリスの労働者階級の若者たちの間で流行したファッション・音楽スタイル。テディ・ボーイズTeddy Boysの略)、パンク、レゲエといったサブカルチャーにおける多様なスタイルのなかに社会や政治、両親の文化、職場、学校といった体制や権力への「抵抗」の可能性をみいだそうとした『儀礼を通じた抵抗』Resistance through the Rituals(1976年、共著)などに結実した。また、「マギング(強盗)」とよばれたストリート犯罪がどのようにイギリス社会にパニックをもたらし、メディアの報道により黒人の若者が犯罪者としてステレオタイプ化されていったかを指摘した論文集『ポリーシング・ザ・クライシス』Policing the Crisis(1978年、共著)など、サッチャー政権下、移民に対する人種差別政策が進められるなかで人種問題の理論化を試みた。ホールは数多くの著書を発表したが、その多くはその時々の状況や事象に応じて複数の人間とともに取り組んだ共同作業である。このことは、意見の矛盾や不一致も含めて、いかに政治的介入を試みるために活発な論議がなされたかを示唆するものでもある。
1979年にバーミンガム大学現代文化研究センターを離れオープン・ユニバーシティ(おもに社会人向けの放送公開大学)へ転任。以後も論文「ザ・グレイト・ムービング・ライト・ショー」The Great Moving Right Show(1979)、論文集『ザ・ハード・ロード・トゥ・リニューアル』The Hard Road to Renewal(1988)、1980年代以降の黒人表現文化にみる新しい形態のエスニシティについて記した論文「ニュー・エスニシティーズ」New Ethnicities(1992)や、「〈新時代〉の意味」The Meaning of New Times(1996)をはじめ、グローバル化と文化的アイデンティティに関する数多くの論文を発表。人種、文化、国家の諸問題に正面から介入し、ディアスポラ(もともとはユダヤ人の離散を示すことばだが、1980年代以降の文化研究、社会理論、ポスト・コロニアリズムの文脈において新たな意味を獲得している。自らの起源、ルーツからの離脱、あるいは流浪の身にありながら、依然として自らのルーツに文化的、政治的、倫理的な強い結びつきをもち、それによって社会的連帯を志向する人々およびその概念)やアイデンティティの文化研究の新たな視座を切り開いた。1997年オープン・ユニバーシティを退職。その後も論文執筆や講演など活発な活動を続けた。
[清水知子 2015年7月21日]
『Stuart Hall, Paddy WhannelThe Popular Arts(1964, Hutchinson, London)』▽『Stuart Hall, Tony JeffersonResistance through Rituals(1976, HarperCollins, London)』▽『Stuart Hall et al.Policing the Crisis(1978, Macmillan, London)』▽『The Great Moving Right Show(in Marxism Today, January 1979, Communist Party of Great Britain, London)』▽『Encoding/Decoding(in Culture, Media, Language; Working Papers in Cultural Studies, 1972-79, 1980, Hutchinson, London)』▽『The Empire Strikes Back(in New Socialist, July/August, 1982, Labour Party, London)』▽『The Hard Road to Renewal(1988, Verso, London)』▽『New Ethnicities(in Culture, Globalization and the World System, 1991, Macmillan, London)』▽『The Meaning of New Times(in Stuart Hall Critical Dialogues in Cultural Studies, 1996, Routledge, London/New York)』▽『小笠原博毅著「文化と文化を研究することの政治学」(『思想』1997年3月号所収・岩波書店)』▽『「総特集スチュアート・ホール」(『現代思想』1998年3月臨時増刊号・青土社)』▽『グレアム・ターナー著、溝上由紀他訳『カルチュラル・スタディーズ入門――理論と英国での発展』(1999・作品社)』▽『上野俊哉・毛利嘉孝著『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書)』
ホール(Jim Hall)
ほーる
Jim Hall
(1930―2013)
アメリカのジャズ・ギター奏者。本名ジェームズ・スタンリー・ホールJames Stanley Hall。ニューヨーク州バッファロー生まれ。オハイオで少年時代を過ごし、13歳のころからローカル・バンドで演奏活動を行う。クリーブランド音楽院で学位を得た後、1955年ロサンゼルスに赴(おもむ)き、ドラム奏者チコ・ハミルトンChico Hamilton(1921―2013)のクインテットに参加する。このころからジャズ・ファンの間で名を知られるようになり、翌1956年にはサックス、クラリネット奏者ジミー・ジュフリーJimmy Giuffre(1921―2008)のグループ、ジミー・ジュフリー・スリーのメンバーとなり1959年まで在籍する。この間、1957年に初リーダー作『ジャズ・ギター』を録音、1959年にはピアノ奏者ビル・エバンズとのデュオ・アルバム『アンダー・カレント』で、インタープレイ(ミュージシャンが相互に触発されながら行う即興的な演奏行為)の極致ともいえる素晴らしい演奏を残している。
1960年から1961年にかけてジャズ・ボーカリスト、エラ・フィッツジェラルドの伴奏者を務めるかたわら、アルト・サックス奏者リー・コニッツとデュオを組み、ニューヨークのクラブに出演。1961年、テナー・サックス奏者ソニー・ロリンズのグループに加わり、サイドマンとしてアルバム『ブリッジ』(1962)に参加する。1963年、トランペット奏者アート・ファーマーArt Farmer(1928―1999)とピアノレスの双頭カルテットを結成し、アルバム『ライブ・アット・ザ・ハーフ・ノート』Live at the Half Noteを録音。1965年には、『ダウン・ビート』Down Beat誌国際批評家投票ギター部門の1位に輝く。
1970年代に入ると、ベース奏者ロン・カーターRon Carter(1937― )とのデュオ・アルバム『アローン・トゥゲザー』(1972)や、『アランフェス協奏曲』(1975)などのヒット・アルバムでファン層を拡大させ、従来の「名脇役」から一躍花形ギター奏者としての地位を確立する。1980年代はピアノ奏者ミシェル・ペトルチアーニ、テナー、ソプラノ・サックス奏者ウェイン・ショーターとのトリオや、ギター奏者ビル・フリゼールとのデュオなど多様な編成で演奏活動を行い、1989年からはエフェクターの使用も開始する。1990年代以降もオーバーダビングを含むソロ・アルバムの制作や、ホーン・ストリング・アンサンブルを従えた演奏など、さらに活動の幅を広げた。
ホールのギター奏法は、ジャズ・ギターの開祖といわれるチャーリー・クリスチャンからウェス・モンゴメリーに連なるビ・バップ的スタイルとは性格を異にしている。彼らの奏法が、ビ・バップ・ピアニストであるバド・パウエルのメロディ・ラインを重視した奏法をギターに引き写したものであるのに対し、ホールは、後の世代のピアニスト、ビル・エバンズの、より和声構造に重きをおいた奏法をギターに引き写したものといえる。こうしたスタイルは地味な印象を与えるので1950~1960年代はサイドマンとしての仕事が多かったが、その先進的なアイディアは、その後第一線で活躍するギタリスト、パット・メセニー、ジョン・スコフィールド、フリゼールらに多大な影響を与えた。
[後藤雅洋]
ホール(Steven Holl)
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Steven Holl
(1947― )
アメリカの建築家。ワシントン州ブレマートン生まれ。1971年ワシントン大学建築学部卒業。その後ヨーロッパに留学し、ローマとロンドンのAAスクール(Architectural Association School)で研究活動を行う。1976年ニューヨークで独立し、スティーブン・ホール・アーキテクツを開設。1981年からはコロンビア大学で教鞭をとり、そのほかワシントン大学やニューヨークのプラット・インスティテュート等でも教えている。
独立初期のプロジェクトとしては、ソコロフ邸の隠れ家(1976、サン・トロペ)、メッツ邸(1981、ニューヨーク)などがある。この時期のホールの作品はほとんどが架空の計画案でとどまっているが、そのため、かえってホールの空間への志向が高い純度で表現されている。それらを特徴づけているのは、明快な幾何学による厳格な空間構成と、詩情あふれるドローイングである。メッツ邸を発表したころから、ホールの作品には幾何学的な厳格さを基本としながらもそれを崩していく流動性や動き、リズムといった要素が導入される。そうした住宅作品の代表例としてストレット・ハウス(1992、ダラス)が挙げられる。
1980年以降にはアパートメントやショールームの改装を断続的に手がけ、水彩のドローイングによる複雑な建具(ドアや窓といった建築部位)の計画や多様な光のコントロールによって、独自のインテリア空間を生み出した。そうした事例としては、コーエン・アパートメント(1983、ニューヨーク)、ギアダ・ショールーム(1987、ニューヨーク)、D・E・ショー・オフィス(1992、ニューヨーク。アメリカ建築家協会優秀賞)などがある。
また、1991年ウォーカー・アート・センター(ミネアポリス)で個展開催。1995年にはMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された「ライト・コンストラクション」展で、レム・コールハースやフランク・O・ゲーリーとともに、1990年代を代表する建築家として招待された。
こうした活動と同時にコンペティションにも参加し、1992年にはヘルシンキ現代美術館国際コンペで516案のエントリーのなかから最優秀賞に選ばれている。ヘルシンキ現代美術館(1998)は、「キアズマ」(ギリシア語で「交差」の意味)をテーマに、二つのボリュームがねじれながら交差している建築で、1か所に留まることのない流れるような空間を生み出している。また、ホールは水彩によるドローイングから空間を構想することを得意としており、メルロ・ポンティらの現象学の言説を援用しつつ、客観的な図面のみでは記述できない空間の質について繰り返し言及している。これは、初期のころからインテリア・デザインを多く手がけていることとも無縁ではないが、1990年以降、大規模な作品を手がけるようになってからも、そうした問題に対する関心はあらゆる作品に通底している。
ホールはまた日本にもなじみが深く、龍安寺をたびたび訪れ、芭蕉の『奥の細道』について言及するなど、その思い入れの強さがうかがえる。日本における作品にはネクサスワールド香椎(かしい)(1991、福岡県)、幕張ベイタウン・パティオス11番街区(1996、千葉県)といった集合住宅がある。
1995年シアトル大学聖イグナティウス礼拝堂によりニューヨーク・アメリカ建築家協会デザイン賞受賞。1998年アルバ・アールト・メダルが授与される。そのほかの代表作にはサルファティストラート・オフィス(2000、アムステルダム)やマサチューセッツ工科大学学生宿舎(2002)などがある。これらの作品では建物の表層がテーマとなっており、これまでのホールの作品とは異なる新しい建築表現が試みられている。
[南 泰裕]
『スティーヴン・ホールほか著、櫻井義夫訳『知覚の問題――建築の現象学』(1994・エー・アンド・ユー)』▽『二川幸夫編『GA ARCHITECT 11: Steven Holl』(1993・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』
ホール(Jeffrey Hall)
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Jeffrey Hall
(1945― )
アメリカの遺伝学者、時間生物学者。ニューヨーク州ブルックリン生まれ。1969年アマースト大学卒業、1971年ワシントン大学(シアトル)で遺伝学の博士号を取得。カリフォルニア工科大学(CIT、Caltech(カルテック))での博士研究員を経て、1974年にブランダイス大学助教授、1986年に同大学教授。退職後、2004年からメーン大学で非常勤教授、2008年から2010年まで同大学教授。現在、ブランダイス大学およびメーン大学名誉教授。
ホールはカリフォルニア工科大学で、ショウジョウバエの求愛など行動突然変異体の研究で知られる遺伝学者シーモア・ベンザーSeymour Benzer(1921―2007)教授の指導を受けた。ベンザーらは、ショウジョウバエのある遺伝子が変異を起こすと、生物が約24時間周期で変動する生理現象「サーカディアンリズム」(概日(がいじつ)リズム)が破壊されることを示した。ベンザーらはこの概日リズムを制御する時計遺伝子がX染色体の一定領域にあることを突き止め、「period(ピリオド)」と命名した。ホールは、1974年、ブランダイス大学で同僚となったマイケル・ロスバッシュと、共同でショウジョウバエを使ったサーカディアンリズムの研究に取り組み、1984年に時計遺伝子「period」のクローニング(遺伝子同定)に世界で初めて成功した。2人はその後も、periodが活発化しmRNAが発現すると、細胞質に24時間周期でタンパク質「PER」が産生されることを発見した。そして、PERが夜に多くつくられ、日中に核内に取り込まれ減少することを突き止めた。また、2人と同じ時計遺伝子の研究をしていたロックフェラー大学教授のマイケル・ヤングは、このPERが核内に取り込まれ、24時間の時を刻むのに深くかかわる遺伝子「timeless(タイムレス)」「doubletime(ダブルタイム)」をみつけ、時間生物学は飛躍的に進歩した。こうした研究成果はショウジョウバエだけでなく、人間など高等生物でも確認されている。体内時計を生み出す遺伝子は、体温、血圧、ホルモン分泌、睡眠など生物の恒常性維持にかかわる生理現象を制御している。
2009年グルーバー賞、2012年にガードナー国際賞、2013年ショウ賞。2017年に「サーカディアンリズムを制御する分子メカニズムの発見」の業績で、マイケル・ヤング、マイケル・ロスバッシュとノーベル医学生理学賞を共同受賞した。
[玉村 治 2018年2月16日]
ホール(John L. Hall)
ほーる
John L. Hall
(1934― )
アメリカの物理学者。カーネギー工科大学卒業、同大で博士号取得。国立標準技術研究所上級研究員、コロラド大学天体物理学合同研究所特別研究員。2005年、「レーザーによる高精度分光学の発展への貢献」によってヘンシュとともにノーベル物理学賞を受賞した。「光干渉性の量子理論への貢献」が認められたグラウバーも同時受賞した。
光は波なのか粒子なのかという問題について、20世紀初頭から物理学界は論争を繰り返していたが、アインシュタインは、光は電子と同じ粒子であり、しかも波でもあるという新しい説を示した。この波動と粒子の二重性によって量子力学が誕生した。1960年に開発されたレーザー光は、振動数が光に近い周波数であり、短波長で位相のそろった光である。レーザーを利用して原子や分子を計測したり、きわめて短い時間の測定ができるようになった。しかしレーザーにはわずかな揺らぎがあるので、超精密な測定では誤差を生んでしまう。グラウバーは量子力学を基礎にして、揺らぎも含めたレーザーの基本的な性質を科学理論として説明することに成功し、量子光学という新しい学問を創設した。
ホールとヘンシュは、グラウバーが築いたこの基礎理論をもとに、揺らぎの少ないレーザーに特殊な処理を行って、さまざまな周波数のレーザーをつくった。とくに周波数ごとに等間隔で櫛(くし)状に並べる「光周波数コム(光コム)技術」をつくり、レーザーの周波数を高精度に測定できる手法を開発した。この開発によって、性質のよくわかっているレーザーを基準にして、わかっていないレーザーの周波数を正確に測定することも可能になった。この研究は、きわめて正確に時間を計ることができる時計の開発や全地球測位システム(GPS)の精度を向上させることなどに貢献すると考えられる。
[馬場錬成]
ホール(Granville Stanley Hall)
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Granville Stanley Hall
(1844―1924)
アメリカの心理学者。マサチューセッツ州に生まれる。ウィリアムズ・カレッジに学ぶ。初め宗教や哲学に関心をもってドイツに留学したが、帰国後、W・ブントの『生理学的心理学原論』を読んで感動し、ハーバード大学のW・ジェームズのもとで心理学の研究で博士号をとった。その後再度ドイツに留学、ブントの最初のアメリカ人の学生となった。帰国後のホールは、二つの大学に心理学実験室をつくったこと、『American Journal of Psychology』など4種の心理学雑誌を創刊したこと、アメリカ心理学会を発足させたこと、クラーク大学の初代学長となり、フロイトおよびユングらを招いて精神分析がアメリカに導入されるきっかけをつくったこと、児童期・青年期・老年期の研究に先鞭(せんべん)をつけたこと、宗教心理学の研究を始めたことなどで、草創期のアメリカ心理学界に対して組織および研究の両面で大きく貢献した。日本にアカデミックな心理学が成立する土台を築いた元良勇次郎(もとらゆうじろう)は、ホールに学びホールと共同研究をした人である。
[宇津木保]
ホール(Sir Peter Reginald Frederick Hall)
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Sir Peter Reginald Frederick Hall
(1930―2017)
イギリスの演出家。ケンブリッジ大学在学中、アマチュア劇団の演出を手がけ、1953年以後ウィンザー、ロンドンで本格的活動を始めた。1955年サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のイギリス初演を果たして注目を集め、1958年にストラトフォードのシェークスピア記念劇場の責任者に指名された。1960年芸術監督として活動を開始、劇団名を新たにロイヤル・シェークスピア劇団として、シェークスピアだけでなくハロルド・ピンターなどの現代劇の演出にも才能を発揮した。1968年辞任、1973年ローレンス・オリビエの後を継いでナショナル・シアター(国立劇場)の総監督に就任(~1988)、クリストファ・マーローからピーター・シャファーの『アマデウス』(1979)まで幅広い制作・演出活動を行った。ロイヤル・オペラの演出スタッフでもあり、1983年にはバイロイトの『ニーベルングの指環(ゆびわ)』の演出で話題をまいた。最後の大作は2011年、バースのロイヤルシアターで行われたシェークスピアの『ヘンリー4世』であった。1977年、サーの称号を授与された。
[中野里皓史・大場建治 2019年1月21日]
ホール(Charles Martin Hall)
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Charles Martin Hall
(1863―1914)
アメリカの化学技術者。アルミニウムの溶融塩電解法を発明し工業化した。オハイオ州に生まれる。オバーリン大学在学中に師のジューエットFrank Fanning Jewett(1844―1926)教授の示唆により、アルミニウムの製法に関心をもち実験を開始した。1886年溶融水晶石にアルミナを溶解させ、溶融塩電解法により金属アルミニウムをつくることに成功し特許をとった。これは、彼と生没年がまったく同じフランスのエルーと偶然にもほぼ同じ方法で、しかも同じ年の発明であったので、ホール‐エルー法といわれている。1888年ピッツバーグ製造会社(現、アルコア)がこの方法でアルミニウムの生産を開始し、1890年彼は副社長となり、今日のアルミニウム工業の基礎を築いた。
[矢木哲雄]
ホール(Asaph Hall)
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Asaph Hall
(1829―1907)
アメリカの天文学者。惑星観測の第一人者。コネティカット州ゴーシェンの時計作りを父として生まれたが、13歳で死別。家計を支えるため16歳で大工見習いとなった。しかし修学の意志が強く、1854年ニューヨークのセントラル・カレッジに入学した。天文学を志し、まずハーバード大学の助手に採用され、熟練計算手として才能を認められた。1862年、ワシントンの海軍天文台に入って観測生活を開始し、1863年同天文台教授となり、1869年シベリアへ日食観測に赴き、1876年には土星の白斑(はくはん)を、1877年には火星のフォボスとデイモスの2衛星を発見、1884年には土星の衛星軌道の回転を発見した。1891年に退職、その後、ハーバード大学天文学教授を務めた。
[島村福太郎]
ホール(Edwin Herbert Hall)
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Edwin Herbert Hall
(1855―1938)
アメリカの物理学者。メーン州生まれ。1888年ハーバード大学助教授、1895年同大学教授となる。1879年「ホール効果」を発見した。電流が板状の導体の長さ方向に流れているとき、この電流の方向と垂直な幅方向の両端には電位差は生じない。しかし、電流と垂直な厚さ方向に磁場をかけると、電位差が生じる。この値(EH)は電流(I)と磁束密度(B)との積に比例し、厚さ(d)に反比例する。この現象をホール効果(電流磁気効果の一種)といい、式EH=RH・I・B・1/dで表される。比例定数RHをホール係数といい、電流の担体によって、符号(電子のときは正、正孔のときは負を示す)や大きさが異なる。
[武澤 隆 2018年11月19日]
ホール(Marshall Hall)
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Marshall Hall
(1790―1857)
イギリスの医者、生理学者。ノッティンガム近くのバスフォードに生まれる。エジンバラ大学で医学を学び、1812年学位を得た。1816年ノッティンガムで開業、1826年ロンドンに移って開業した。医業のかたわら生理学の研究を行い、反射運動、脊髄(せきずい)に関する研究で業績をあげた。1833年に著した『延髄および脊髄の反射作用』Reflex Function of the Medulla Oblongata and Medulla Spinalisでは随意運動と不随意運動との差を明らかにした。そのほか、神経疾患、人工呼吸、消化器病、婦人病に関する研究論文がある。
[大鳥蘭三郎]
ホール(James Hall)
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James Hall
(1811―1898)
アメリカの地質学者、古生物学者。マサチューセッツ州ヒンガムに生まれる。1836年にニューヨーク州地質調査所ができたとき、地質技師補として入所する。翌1837年、地質技師となる。調査費に州の援助がないときには私費を投じて調査するなど、熱心な研究活動が実って古生界ニューヨーク系の確立を行い、またニューヨーク州の地質と古生物についての大著を発表した。1859年には、アパラチア山脈地区が堆積(たいせき)に歩調をあわせて徐々に沈降し、褶曲(しゅうきょく)して大山脈になったとする説、すなわち地向斜のオリジナルな概念を初めて発表した。また、初代アメリカ地質学会会長となった。
なお、同名で同等に名高いSir James Hall(1761―1832)はイギリスの地質学者で、「実験地質学の創設者」といわれる。
[木村敏雄]
ホール(Edward T. Hall)
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Edward T. Hall
(1914―2009)
アメリカの文化人類学者。コロンビア大学で哲学博士号をとり、その後、海外派遣要員の教育その他にあたり、イリノイ工科大学を経てノースウェスタン大学教授を務めた。非言語コミュニケーション、文化間コミュニケーションが専門であり、「プロクセミックス」Proxemicsとよばれる学問を提唱した。これは空間に対してそれぞれの社会集団が与える意味には一定の体系と秩序があるとするもので、これにより、他人との間合いのとり方や、都市空間のつくり方など、人間の空間的行動も、文化ごとの秩序が反映されるとした。おもな著書として『沈黙のことば』(1959)、『かくれた次元』(1966)などがある。
[豊田由貴夫 2019年1月21日]
『國弘正雄・長井善見他訳『沈黙のことば』(1966・南雲堂)』▽『日高敏隆・佐藤信行訳『かくれた次元』(1970・みすず書房)』
ホール(Gus Hall)
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Gus Hall
(1910―2000)
アメリカの政治家。フィンランド移民の子として貧困のうちに育ち、アメリカ共産党創立メンバーであった両親の影響を受け17歳で青年共産同盟に入った。1931~1933年モスクワで学び、帰国後、共産党全国委員となる。1937年の鉄鋼ストに活躍し、第二次世界大戦に従軍したのち、1950年に党中央書記、1959年に書記長となる。第二次世界大戦後、共産党が初めて大統領選立候補を認められた1972年以降1984年まで、党代表として出馬し主張を訴えた。著書多数。
[長沼秀世]
ホール(Harry Reginald Holland Hall)
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Harry Reginald Holland Hall
(1873―1930)
イギリスの考古学者。1896年大英博物館に入り、古代オリエント史を中心に研究活動を行った。エジプト・アッシリア部副部長を経て同部長に就任(1924~30)、エジプトのデル・エル・バハリ(1903~10)、メソポタミアのウル(1919)の発掘を行った。エーゲ海考古学の著作もあり、『ケンブリッジの古代史』の編集にも携わった。
[寺島孝一]