俳優を主体にして,そのほか演劇上演に必要な人々が集まり,上演という共通目的のためにそれぞれの職能において協力しながら,組織的かつ持続的に上演活動をおこなう団体のこと。なお,〈劇場〉という言葉も,とくに〈○○劇場〉のような形で,〈劇団〉と同じ意味に用いられるが,その多くの場合は,ある演劇集団の活動が密接に特定の劇場空間と結びついていて,自然にあるいは意図的に同じ名前で呼ばれた場合である。ある意味ではそのような結びつきの強いことがむしろ当然であるから,実際,以下に述べるようにその例は数多い。
〈劇団〉の萌芽は古く,古代ギリシアに始まる演劇の歴史とともにそれはある,ということもできるが,専門的俳優により,上演活動を持続的におこなう専門的劇団の成立は,イタリア・ルネサンス期の即興仮面喜劇上演集団〈コメディア・デラルテ〉が最初とされる。そしてイギリスの俳優兼劇作者シェークスピアの劇団とかフランスの喜劇俳優兼劇作者モリエールの劇団とか,16~17世紀以降,西欧各国の演劇基盤はこれらのような劇団活動を主体にしてつくられていった。日本では平安期の田楽・猿楽芸人の〈座〉の成立が劇団活動の最初であり,14世紀に観阿弥・世阿弥父子の能楽一座が結成され,のちに現在の能楽五流派に通じる各座,つまり各劇団が形成された。
能楽や17世紀の西欧における劇団が宮廷など王侯貴族の庇護のもとに活動する宮廷劇団的色彩が強いのに対し(〈宮廷劇場〉の項を参照),18世紀以降は,市民社会の成立にともない,実力のある人気俳優を中心に一座を組み,興行を経済的にも成立させて利益を生みだす,劇場主体の上演集団結成法がとられるようになった。江戸時代の歌舞伎上演も興行形態としてはそれに近く,各劇場が主要俳優と年間契約し,年末に顔見世興行をおこない,新年度の座組みを公表する習慣が生まれた。このように西欧や日本の近世の劇団は,劇場に従属する商業的劇団の傾向をもっていた。
しかし19世紀末になると,スター中心の座頭制度,長期間興行のロングラン・システムなど,芸術性よりも経済性追求の商業劇団に対する批判から,芸術優先の劇団制が新たに再生した。まずドイツ,マイニンゲン市のゲオルク2世が1860年に組織した〈マイニンゲン一座〉は演技アンサンブルの重要性を強調し,写実的装置の確立をはかり,近代演劇の先駆となった。そして87年にパリでA.アントアーヌの〈自由劇場〉運動が展開され,その自然主義的演劇活動が大きな衝撃を劇界に与えた。同時に,劇作家の協力を得て,演出家を中核に,演技アンサンブルを尊重し,装置,照明に立体的造形をはかる上演集団のあり方が劇団制の問題として再検討・再認識された。この自由劇場運動は各国に波及し,89年,O.ブラームがベルリンに〈自由舞台Freie Bühne〉を創立,91年,グラインJacob Thomas Grein(1862-1935)がロンドンに〈独立劇場Independent Theatre〉を創立し,98年にはスタニスラフスキーらが〈モスクワ芸術座〉を創設した。これらはイプセン,ストリンドベリ,ショー,チェーホフらの近代劇作家の登場と呼応し,各国近代劇運動の基礎をつくった劇場,劇団である。そして作品の芸術的表現を一義とすることから演技のアンサンブルを重視し,現在,われわれが考えるような〈劇団〉概念の基礎をつくりだした。また劇団の経営主体により国立劇団(国立劇場),公立劇団,私立劇団の区別も生まれた。その一方,商業劇場では,アメリカで発達した演劇制作者(プロデューサー)主体のオーディション制度が各国にも普及し,制作者がある演目を公演する都度,それにふさわしい俳優を特定の所属劇団等に制約されない自由な形で,公募等の形も含めて組織する,いわゆるプロデューサー・システムによる上演集団づくりも行われている。
日本では,明治以降の演劇近代化に基づく新劇団として,1888年(明治21)大阪で角藤定憲(すどうさだのり)一座,91年堺で川上音二郎一座がそれぞれ旗あげして,新派劇の基盤をつくった。しかし新派の諸劇団は1910年に興行会社松竹の傘下に入り,以後は歌舞伎同様に,商業的劇団の道をたどった。非商業的な近代劇運動の担い手である欧米劇団の影響を受けて,日本で近代劇運動を展開する新劇団の最初は,1909年に発足する後期〈文芸協会〉と〈自由劇場〉の活動である。しかし拠点劇場を持ち,名実ともに新劇活動を展開する劇団は,24年(大正13)に土方与志によって建設され,彼自身も演出家として活動した〈築地小劇場〉である。また築地小劇場によって,現在にいたる新劇団組織の基礎もつくられた。しかし,29年(昭和4),前年来の中心的メンバーであった小山内薫の急死を契機に築地小劇場は分裂,解散した。以後の戦前新劇は,〈新築地劇団〉〈新協劇団〉〈築地座〉の3劇団を中核に展開したが,40年夏に,左翼的傾向を持つ新築地劇団,新協劇団は強制解散を命じられ,築地座の発展である〈文学座〉(1937創立)のみが戦時中の活動を許され,42年には佐々木隆らにより〈文化座〉が結成された。
45年の敗戦後は,前記2劇団のほか,戦時中に弾圧されていた新劇人たちが一斉に戦前新劇を復興させる旺盛な劇団活動を展開した。とりわけ築地小劇場以来の伝統を継承し,現在も活動をつづける下記3劇団が注目される。まず1944年に千田是也らによって結成された〈俳優座〉である。俳優座は48年に創作劇研究会を発足させ,三島由紀夫ら新進劇作家にも場を与えた。49年には演劇研究所を創立,付属俳優養成所を開校して,仲代達矢(1932- ),太地喜和子(1943-92)ら数多くの新人俳優を世に送りだした。そして54年に戦後最初の劇団拠点劇場として東京六本木に俳優座劇場を建設した。杉村春子らの〈文学座〉は1949年に芥川比呂志(1920-81)らが加入し,フランス演劇研究会をつくって劇界に新風を送り,劇団けいこ場を試演会場とするアトリエの会活動を展開した。拠点劇場を持たない劇団がけいこ場を小劇場活動の拠点とした最初である。滝沢修(1906-2000),宇野重吉(1914-88)らの〈民芸〉(正称は〈劇団民芸〉)は,1947年に創立された〈民衆芸術劇場〉が発展的解消をとげ,50年に再建された劇団である。俳優座,文学座,民芸は〈三大新劇団〉といわれ,さらに山本安英(やすえ)(1902-93)らの〈ぶどうの会〉,村山知義らの再建〈新協劇団〉,そして〈文化座〉の6劇団が戦前・戦中の流れをくむ劇団として戦後の再スタートを切った。また53年前後には,民間放送の開始により新人俳優活躍の場も広がり,俳優座養成所卒業生らを主体とする〈青年座〉(1954年結成。森塚敏,東恵美子,初井言栄(ことえ),山岡久乃ら)をはじめとして,〈仲間〉(中村俊一,生井武夫ら。正式名称〈劇団仲間〉),〈新人会〉(早野寿郎,小沢昭一ら),〈三期会〉(広渡(ひろわたり)常敏,熊井宏之ら。現,〈東京演劇アンサンブル〉)らの若手新劇団も結成され,浅利慶太ら慶応大学や東京大学の学生演劇出身者によって〈四季〉(正式名称は〈劇団四季〉)も活動を始めた。
そのほかにも多くの新劇団が創立され,活動するが,60年代後半になると近代写実演劇や既成劇団のあり方に対する疑義表明や異議申し立てが盛んになり,既成劇団の分裂が起こるとともに,いわゆる〈アングラ小劇団〉が輩出した。すなわち63年に福田恒存,芥川比呂志らが文学座を脱退し,〈現代演劇協会〉を設立,その付属劇団として〈雲〉(正式名称〈劇団雲〉)を創立し,拠点劇場としての〈三百人劇場〉(東京千石)も建設した。しかし両者はさらに決別し,三百人劇場に拠る福田恒存らの〈昴(すばる)〉と,75年に脱退した芥川比呂志,岸田今日子,仲谷昇らの〈円〉(正式名称は〈演劇集団円〉)に分かれた。また俳優座,民芸でも数多くの脱退者を出した。その一方,唐(から)十郎(1940- )らの〈状況劇場〉が63年に結成され,67年に紅(あか)テント劇場の活動を開始した。1966年には,東京早稲田の喫茶店2階の小空間をけいこ場兼用の小劇場とする鈴木忠志(ただし)(1939- )らの〈早稲田小劇場〉が結成され,佐藤信,串田和美らの〈自由劇場〉(正式名称は〈アンダーグラウンド自由劇場〉)も同年活動を始めた。翌67年には,寺山修司(1935-83)らが〈天井桟敷(てんじようさじき)〉(正式名称は〈演劇実験室天井桟敷〉)を創設,さらに68年に蜷川幸雄らの〈現代人劇場〉が結成された。自由劇場など3劇団の連絡組織〈演劇センター68/69〉は同じ68年に設置され,70年から同68/70の黒色テント公演が開始された。中堅新劇団の青年座も1969年にけいこ場兼用の小劇場〈青年座劇場〉(東京渋谷)を持った。1960年代末の小劇場運動は,いわゆる大学闘争期と重なり合い,その担い手たちには学生演劇の活動家たちも多く含まれていた。そしてこれら小劇団の,既成劇団に対する異議申し立て的な活動は,近代写実劇からの脱皮を既成劇団に促す効果をももたらした。しかし,70年代後半には社会状況の変化に基づき,小劇団の活動も最盛期を過ぎ,停滞期に入った。
現在の新劇団の一般的組織のあり方は次のとおりである。(1)文芸部(または文芸演出部)。演出家,劇作家,評論・研究家などを主体に,上演作品の選定,演劇状況や作品の研究などを行う部門。(2)舞台部(または演出部)。装置,照明,効果,衣装,舞台監督,裏方要員など,舞台関係の各スタッフにより構成され,演出家をここに含める場合もある。(3)演技部。人数的にも劇団の主体をなす俳優集団。(4)制作部(または経営部)。演劇制作や宣伝,経理など公演事務を扱う部門。また劇団全体の運営事務を扱う総務部を独立させることもある。
国家や公共機関などの援助が少なく,大多数が拠点劇場も持たない日本の非営利的劇団では,劇団員の生活保証もほとんどないに等しい。とくに小劇団の場合,出演料その他,仕事の報酬すらほとんどないことが多い。したがって公演収入だけでは劇団の経営維持が困難で,テレビその他,俳優たちの外部出演収入を劇団の経営維持に役立てる劇団が多い。また俳優養成機関を持つ劇団が小劇団でも多い点は,欧米にない日本的特徴の一つである。つまり日本の劇団の多くは,個人の経済生活を維持する職業的自立性は薄いという意味において,アマチュア劇団的性格を帯びている。
現在,日本の劇団といえばいわゆる新劇団のほか,伝統演劇における劇団(的なもの),松竹などの商業資本傘下の各劇団,また児童劇専門劇団,人形劇団などがあり,さらに学生劇団,各地域のアマチュア劇団などもそれぞれに活動している。だが国立または公立の劇団はほぼ皆無である。その点が諸外国の劇団状況と大いに異なる。
→新劇
執筆者:石沢 秀二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
演劇の創造を目的として組織された団体。日本では座または一座とほぼ同義で、併用されることが多い。
[大島 勉]
劇団ということばは明治末に始まった新劇運動のなかから生まれたものであり、一般に用いられるようになったのは大正以降である。これは英語のカンパニーcompanyなどに対応するものとして、当初は座に比べてかなり近代的なニュアンスが強かった。しかし今日にみるように、新劇団(現代劇団)の多くが座の呼称を用い、また逆に歌舞伎(かぶき)や新派などの団体が劇団を呼称するなど、両者は混用、併用されていて、実質的には同一といって差し支えない。これは劇団の成立、内容についてもいえることで、契約制に基づく欧米型の劇団組織に対して、日本型の家族主義的体質を温存する現代劇団も少なくないからである。いずれにせよ劇団(カンパニー)とは、一定の演劇理念をもって持続的な上演活動に必要な各部門を担当する専門人を備えた芸術団体と定義することができよう。したがって整備された劇団は、演技部門(俳優)を主体に文芸演出、美術(装置・衣装など)、照明、効果(音響)、経営制作の各部門から成り立っているのが普通である。映画放送部や付属の俳優養成所を併置しているところも多い。
[大島 勉]
従来、日本の劇団には商業劇団(大劇場)と非(反)商業劇団(新劇団)の対立ないし区分の図式が支配的であった。これは、新劇運動が出発時から反商業演劇をスローガンの一つにしていたために久しく喧伝(けんでん)された。しかし、とくに第二次世界大戦後に急増した新劇人の大劇場進出、またテレビなどのマスコミ出演の増大につれて、この対立区分はほとんど有名無実と化している。また専門劇団(職業劇団)とアマチュア劇団(学生劇団・自立劇団)の区別も、1960年代後半以後の小劇場運動などによる演劇状況の多様化によって、むしろ相互の交流に力点が置かれるようになった。とくに大学劇団や半アマチュア劇団からプロ劇団への進出が著しく、若手・中堅劇団のなかで特異な位置を占めている。劇団名もさまざまで、まさに百花繚乱(りょうらん)の趣(おもむき)がある。
[大島 勉]
劇団の歴史は演劇の歴史とともに古く、その萌芽(ほうが)はすでに紀元前にみられる。歴史に記録された最古のものは、古代エジプトの宮廷においてオシリスの秘儀に携わった神官の一団である。彼らは神話に基づいて死と復活のドラマを演じた。また古代中国でも、神と人を媒介する巫覡(ふげき)に由来する職能的な俳優集団が存在したことが記録されている。とくに古代ギリシアでは、紀元前3世紀ごろには劇作家、俳優、合唱団(コロス)、楽手などからなる「ディオニソス芸術家組合」が組織されて、遠くオリエント世界にまで巡演し、国家の文化使節的役割を果たした。ローマ時代には、宮廷奴隷による専門的な俳優集団があり、貴族たちの寵愛(ちょうあい)を集めた。
[大島 勉]
ヨーロッパで恒久的な職業劇団が生まれたのは、16世紀中ごろから17世紀にかけてイタリアで流行したコメディア・デラルテ(仮面即興喜劇)が最初とされる。彼らはイタリア喜劇団の名でヨーロッパ各地を巡演し、各国の職業的ないし半職業的な劇団を生む素地をつくった。エリザベス朝のイギリス、黄金世紀のスペインなどで常設劇場に拠(よ)る専門劇団が誕生し、シェークスピア、ローぺ・デ・ベガらの劇作家がここから生まれた。近世に入ると、資本主義の発達とともに各国に興行師の支配するスター中心の商業劇場が輩出したが、19世紀後半にドイツのゲオルク・マイニンゲン公が組織したマイニンゲン公劇団がアンサンブルを重視した写実的な舞台を創造し、各国の演劇に多大の影響を与えた。やがてこれに刺激されて反商業劇場をスローガンとする近代劇運動(自由劇場運動)がおこり、同志的結合による芸術創造体としての劇団が各国に次々と誕生して、劇団の主導権は作家と演出家の手に移った。チェーホフとスタニスラフスキーを擁したモスクワ芸術座はその好例である。
[大島 勉]
日本では古くは万葉の時代から、歌舞して色を売る遊行女婦(うかれめ/あそびめ)の一群があり、これは近代初頭の歌舞伎誕生の淵源(えんげん)として日本演劇史上、欠かすことはできない。しかし本格的な芸人集団としては、平安末期ごろから各地の宮座に所属する田楽(でんがく)法師の座が文献にみえる最初の例とされる。鎌倉期に入ると中国の散楽の流れを引く猿楽(さるがく)の座が生まれ、やがて能狂言に大成されて、座頭(ざがしら)を頂点とする階層的な劇団組織の基礎が固まった。この日本芸能独自の構造は、その後、人形浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎に引き継がれ、新劇団をはじめとする現代劇団にも多少とも影を落としている。
日本で一定の演劇理念のもとに近代的な劇団組織が生まれたのは、大正末に小山内薫(おさないかおる)らによって設立された築地小劇場が最初である。この劇団は活動拠点として近代的劇場機構を備えた座席500余の劇場をもっていた。だが今日に至るまで、ごく少数の劇団を除いて、日本の現代劇団は自らの劇場をもたず、その大部分は貸し劇場・ホールでの公演に甘んじているのが現状である。第二次世界大戦後半世紀以上を超えてなお逆戻りの現象を呈しているといえる。これに加えて、国家や公的機関からの財政的援助が欧米諸国に比べて格段に乏しいため、ショー・ビジネス化した、またマスコミ出演を優先する一部の劇団を例外として、ほとんどの劇団はなかば慢性化した経営不安を脱却できず、その持続は劇団員の演劇的情熱によって支えられているといっても過言ではない。
[大島 勉]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…それは,固定した理論や方法論を持つ学校方式の修業の場とは異なり,新しい理念と技術を参加者全員で模索しながら流動的に訓練を重ねていくことを特徴としている。当初は劇団など上演グループの中で組織され,技術の研修とグループ独自の上演活動の追求を目的とした小規模な内輪の仕事場であったが,しだいにアメリカの〈オープン・シアター〉やポーランドのJ.グロトフスキの演劇実験室などが評判を呼び,劇団組織の枠を越えるものも増え,ワークショップによる上演がクローズアップされるケースも多くなった。そこでは,演者,演出者,また作者がいっしょに研修を重ねながら共同作業としての舞台づくりが行われるが,こうした実験の成果としての舞台はさまざまの意味で前衛的なものであり,作品と演出と演技ほかが有機的に働く生きた総体としての迫力を持ち,感銘を与えることが少なくなかった。…
※「劇団」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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