日本資本主義の特質をめぐって、1920年代末から1930年代前半にかけて行われたマルクス主義者の間の論争。論争の中心的問題点が、農村の地主・小作関係を封建的あるいは半封建的関係とみなすかどうか、さらに日本資本主義全体について封建的諸要素を本質的な要素とみるか、それとも単なる遺制とみるかにあったので、封建論争とよぶこともある。
[山崎春成]
この論争は、1922年(大正11)にいったん結成された日本共産党が翌年早くも解体したあと、1926年に再建される過程で、日本のマルクス主義者の間に共産党系と非共産党系の分岐が生じたことに端を発している。共産党の結成に当初関与しながら再建共産党には参加しなかった山川均(ひとし)、堺利彦(さかいとしひこ)、荒畑寒村(あらはたかんそん)、猪俣津南雄(いのまたつなお)などは、1927年(昭和2)末に雑誌『労農』を創刊して、共産党とは異なる路線を追求することを明らかにした。以後、彼らおよびその政治的理論的同調者たちは労農派とよばれた。共産党系と労農派との対立点は、社会主義運動のすべての側面に及ぶが、とくに重要な対立点の一つは、革命戦略およびその前提となる日本の政治・経済構造の認識における対立であった。共産党系の理論家たちが、日本の国家機構や地主・小作関係の半封建的性格を強調し、そこからブルジョア民主主義革命からプロレタリア革命へという二段階革命戦略を主張したのに対し、労農派は、日本の国家権力はすでに金融ブルジョアジーの手中にあり、さまざまの封建的遺制が残っているにしても、より重要な要素は急速に発達した独占資本主義であり、資本主義を倒すことなしには封建遺制も清算できないと論じた。労農派のなかでこのような主張をもっとも精力的かつ詳細に展開したのは猪俣であった。その猪俣に対する批判者として共産党側から野呂栄太郎(のろえいたろう)が登場(1929)するに及んで、日本資本主義の構造的特質をめぐる論争が本格的に始まる。野呂は、猪俣の説を、特有の歴史的諸条件に規定されつつ発展した日本資本主義の特殊な構造とそこから生ずる特殊な矛盾とを資本主義一般に解消させてしまうものであると批判して、農村における半封建的生産関係の存続が日本資本主義の形成・発展にとって決定的な意義をもつことを歴史的に論証することに努めた。野呂はまた篤実なマルクス経済学者櫛田民蔵(くしだたみぞう)にも厳しい批判の矢を向けた。櫛田がその論文「わが国小作料の特質について」(1931)で、日本の高率現物小作料は共産党系理論家の主張するような封建地代ではなく、零細な小作人の競争の結果として生ずる前資本主義地代であることを丹念に論証して、猪俣説を補強したからである。櫛田も反論にたち、こうして論争は総論から各論に発展し始めた。
[山崎春成]
1932年から1933年にかけて、山田盛太郎(もりたろう)、平野義太郎(よしたろう)、羽仁五郎(はにごろう)、服部之総(はっとりしそう)、小林良正などを主要執筆者とする全7巻の『日本資本主義発達史講座』(その企画・編集の中心は野呂であったが、彼は病気と地下活動入りのため予定した論文をついに執筆できなかった)が刊行され、1934年には『講座』所収の山田、平野の論文がそれぞれ『日本資本主義分析』『日本資本主義社会の機構』として刊行された。『講座』の諸論文は日本資本主義の半封建的特質を重視する見地を共通の基調としており、以後この見地にたつ人々は講座派とよばれる。『講座』の日本資本主義論は、その刊行が始まってまもなく発表されたコミンテルンの「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(いわゆる三二年テーゼ)の日本認識ともほぼ合致するものであった。『講座』は日本資本主義の歴史と現状に関する最初の体系的な社会科学的分析として、知識人の間に大きな反響をよんだが、他方で向坂逸郎(さきさかいつろう)、土屋喬雄(たかお)、岡田宗司(そうじ)、伊藤好道(こうどう)、さらに猪俣、櫛田など、労農派系の学者、評論家からの批判を呼び起こした。労農派の批判は山田『分析』、平野『機構』、とくに前者に集中した。山田は沈黙を続けたが、平野ほかの講座派の論客が労農派の批判に応戦し、論争は1934~1936年のころ最盛期を迎えた。論争の題目は、幕末の経済発展段階(「厳密な意味でのマニュファクチュア時代」に達していたとする服部之総に対する土屋喬雄の批判から始まったマニュファクチュア論争)、幕末の新地主層の社会的性格、明治維新の歴史的性格など、幕末・維新史の諸問題にも広がったが、中心はやはり、地主・小作関係は本質的に封建的な生産関係であるかどうかという農業問題論、小作料論と、日本資本主義に対する軍事的半封建的という規定が適切かどうかという構造論、およびそれに関連する方法論上の問題であった。
[山崎春成]
この論争は、1936年7月の「コム・アカデミー事件」で講座派が、1937年12月および1938年2月の「人民戦線事件」で労農派が、その主要メンバーを検挙されたことによって強制的に終結させられた。しかし最終的には、日本資本主義の生成と発展の全過程について、歴史学、経済学、政治学、法学などの社会科学諸分野の専門家をも引き込んで展開されるようになったこの論争が、日本の社会科学の発展に及ぼした影響はきわめて大きいものがあった。この論争は、共産党系対非共産党系という党派的対立を根底にもっていたため、批判のための批判の応酬に終わることもあったが、欧米諸国とは異なる歴史的諸条件のもとに行われた日本の近代社会の発展過程に含まれる多様な問題への知的関心は、この論争によって強く刺激された。日本の社会科学は、この論争を通じて初めて日本の現実に本格的に取り組んだといえる。
[山崎春成]
『大塚金之助他編『日本資本主義発達史講座』全7巻(1932~33/復刻版・1982・岩波書店)』▽『小林良正著『日本資本主義論争の回顧』(1976・白石書店)』▽『小山弘健編『日本資本主義論争史』全2冊(青木文庫)』
1920年代後半から30年代におけるマルクス主義陣営内の論争。革命戦略,日本資本主義の特質,天皇制権力の階級的性格,地主的土地所有の本質,明治維新の歴史的性格などをめぐって議論がたたかわされた。第2次大戦前日本社会科学界最大の論争。論争は1927年ごろから約10年間にわたって続いたが,これを二つの時期に区分できる。第1期は1927-32年で戦略論争または民主革命論争の時期,第2期は1933-37年で,資本主義論争または封建論争の時期として要約できる。
第1期は金融恐慌,世界大恐慌,満州(中国東北)侵略,五・一五事件など日本資本主義が危機的様相を深めるとともに戦争とファシズムの時代に突入しつつある時代であった。当時のマルクス主義者はこの危機打開の道をめぐって二つの陣営に分かれて対立した。その代表的論争は,野呂栄太郎と猪俣津南雄との戦略論争である。野呂は日本共産党の〈27年テーゼ〉を支持する立場から,日本国家の民主主義化のための闘争は,不可避的に封建的残存物にたいする闘争から資本主義それ自体にたいする闘争に転化するであろうと主張した。すなわち当面する革命は絶対主義天皇制を打倒し,地主制を撤廃するブルジョア民主主義革命を経て,急速に社会主義革命へ転化するところの2段階革命でなければならないとした。これに対しての猪俣は,封建的絶対主義勢力の物質的基礎はすでに失われており,国家権力におけるヘゲモニーは独占資本が握っている。したがって無産階級の正面の敵は,金融資本=帝国主義ブルジョアジーであって,その革命戦略は必然的に,一挙的社会主義革命(いわゆる1段階革命)とならざるをえないと主張した。その後,この論争に決着をつけるためには,日本社会の全面的分析が必要であるとの認識が深まり,野呂は山田盛太郎,平野義太郎,羽仁五郎,服部之総らの協力を得て,《日本資本主義発達史講座》全7巻(1932-33)を岩波書店から刊行した。この《講座》は〈経済・政治・文化の全機構をその歴史的発展の具体的相互関連性の上に,科学的・体系的・弁証法的に認識〉することを試みた日本資本主義研究のマルクス主義的集大成とも呼ぶべきものであった。《講座》刊行と前後して,32年7月にはコミンテルンの〈32年テーゼ〉が翻訳・公表され,〈27年テーゼ〉ではあいまいであった天皇制の絶対主義的性質が明確化され,侵略戦争反対と絶対主義天皇制の打倒を第一の任務とする革命戦略が定式化された。ここにおいて論争は戦略論争をはらみつつも資本主義論争へと旋回し,学問上の大論争へ発展した。
論争の主要な争点の第1は,地主的土地所有の本質規定をめぐるものである。《講座》に結集した学者たち(通称講座派)は,地主が取り立てる現物・高額の小作料は,小作農民の全剰余労働を搾取する高率小作料であって,本質において封建的な半封建地代であるとした。これに対して,櫛田民蔵,猪俣ら(労農派)は土地は商品化しており,地主・小作の関係は契約にもとづき,土地緊縛などの経済外的強制も存在しないのであるから,本質的にいって近代的な前資本主義地代であると主張した。第2は,講座派の理論的支柱たる山田盛太郎の《日本資本主義分析》(1934)をめぐる批判と反批判である。労農派の向坂逸郎は,《分析》の軍事的・半封建的資本主義の規定に対して,山田の〈日本資本主義〉には発展がなく,日本型という〈型制〉の固定化があるばかりであると批判した。これに対して,山田勝次郎,相川春喜らの講座派の論客は,向坂の立論は特殊性をすべて一般性に解消する公式主義にすぎないと応戦した。第3は明治維新の理解にかかわるものである。講座派は天皇を頂点とする中央集権的国家機構の樹立,土地変革の不徹底性に起因する半封建的地主階級の強固な残存,藩閥的軍部・華族勢力の台頭,人民の政治的未解放などを理由に,明治維新はブルジョア革命では決してなく,絶対主義の成立にほかならないと主張した。これに対して,労農派は地租改正によって半封建的な土地所有の成立発展は不可能となり,それにともなって封建的絶対主義勢力の物質的基礎も取り除かれたこと,維新政権によって資本主義の育成がはかられたことをもって明治維新=ブルジョア革命説を主張した。このほか幕末経済史に関しても講座派の服部之総と労農派の土屋喬雄との間で,マニュファクチュア論争,新地主論争がたたかわされ,明治維新研究に大きな刺激をあたえた。両派の論争は政治路線の対立をはらんでいたためにきわめて激しい形をとり,当時のジャーナリズムをにぎわした。しかし1936年の講座派検挙(コム・アカデミー事件),37-38年の労農派検挙(第1・2次人民戦線事件)による弾圧によって,論争は中断・終結せしめられた。
資本主義論争は次の点で大きな歴史的意義をもっている。(1)それまで日本の社会科学は西欧からの輸入学問としての性格がつよかったが,この論争において初めて日本の歴史的現実に対する科学的分析が加えられ,対立点が明確となった,(2)重箱の隅をつつくような瑣末な論争ではなく,日本国民の将来にかかわるような現実との緊張に満ちた学問の存在を青年や知識人に知らせた,(3)日本資本主義の特殊的性格を一般的発展法則との関連でいかに統一的に把握するかという,社会科学の方法にかかわる根本問題を提起した,(4)次の時代の社会科学を担う世代に強烈な影響をあたえ,講座派の流れから大塚久雄の比較経済史,丸山真男の政治学,川島武宜の法社会学,大河内一男の労働問題研究などが生まれ,労農派の流れから宇野弘蔵,大内力らの経済学が開花した。
執筆者:中村 政則
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日本資本主義の性格規定をめぐって,1927~37年(昭和2~12)までマルクス主義者の間で展開された論争。32年までの第1期には,おもに日本資本主義の現状規定と革命戦略をめぐる論争が行われた。この過程で,日本資本主義の歴史・現状についての総合的分析の必要性を痛感した野呂栄太郎は,マルクス主義理論家を結集して「日本資本主義発達史講座」を刊行した。これに対して雑誌「労農」に依拠する労農派が批判・反論を行い,第2期の論争が開始された。論争は,小作料・経済外強制・新地主・マニュファクチュア・明治維新などの評価をめぐって展開され,講座派が日本資本主義の半封建的性格を強調したのに対し,労農派は封建遺制は日本資本主義の発展過程のなかで解消しうるものとみなした。
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…非マルクス学派との論争は地代論にも波及し,そのほか貨幣論,再生産論,恐慌論などにもマルクス学派の理論研究がすすめられつつあった。 それとともに,《資本論》の経済理論に基づき,日本資本主義の歴史的特性をどのように明らかにすべきかをめぐり,マルクス学派の内部に大規模な日本資本主義論争が展開される。そのなかで,野呂栄太郎,山田盛太郎,羽仁五郎らの講座派(封建派)は,コミンテルンの指示による日本共産党の二段階革命路線を支持し,明治維新後の日本の農村にも封建的地主制が存続しており,これと都市のブルジョアジーとの双方に支えられた絶対主義的天皇制の変革をともなうブルジョア民主主義革命が,社会主義革命に先だってまず行われなければならないと主張していた。…
…当時,日本では経済恐慌(1920,27,29)や社会不安が拡大し,社会主義運動と一定の関連をもった労働組合運動や農民運動が著しく高揚したが,その思想的背景としてマルクスやレーニンの著作が紹介され(《資本論》,高畠素之訳,1920‐24,《レーニン著作集》1926‐27,《マルクス・エンゲルス全集》1928‐35等),同時に各種の理論的研究と論争が活発化した。
[日本資本主義論争]
そのなかで最も重要な論争は,いわゆる日本資本主義論争であった。 まず,野呂栄太郎,平野義太郎,山田盛太郎らによって編集された《日本資本主義発達史講座》(1932‐33)に結集したマルクス経済学者は,一般に講座派と呼ばれたが,彼らは当時の日本資本主義の性格を次のように理解した。…
※「日本資本主義論争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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