日本大百科全書(ニッポニカ) 「アイルランド土地法」の意味・わかりやすい解説
アイルランド土地法
あいるらんどとちほう
19世紀後半から20世紀にかけて制定されたアイルランドの小作農および自作農に関する法律。チューダー朝時代から始まっていたイギリス人によるアイルランドの土地収奪が、クロムウェルからウィリアム3世時代になっていよいよ本格化し、イギリス人不在地主制度がアイルランドに確立した。貧しい小屋住みの農民は、地主の厳しい取り立てと容赦ない追放に苦しまねばならなかった。18世紀に多くの秘密結社が農村に誕生して、激しい闘争を展開したが、19世紀に入るとそれが組織化されるようになった。
1830年に始まる「十分の一税戦争」は、イギリス国教会に十分の一税を支払わねばならないカトリック農民の闘争であった。また1850年に始まる3F運動は、公正な地代Fair Rent、小作権の安定Fixty、小作権の自由売買Free Saleを要求するものであった。十分の一税廃止にしても、3Fにしても、すでにイギリスでは実施されていることであり、とくに3Fは、スコットランドやイングランドからの移民の多いアルスターUlster(アイルランド島北東部)では慣行として18世紀に確立しており、イギリス自由主義の進展とともに認めざるをえなくなった。また自治運動やフィニアン主義対策としても必要であった。グラッドストーン首相は、まずアイルランド教会法(1869)で十分の一税を廃止し、教会領小作人に限って小作地購入を許した。第一次土地法(1870)ではアルスター慣行を法的に認めたが、それはアルスター地方に限ってであり、農民の要求を満足させるものではなかった。とくに1870年代の農業不況は、地代不払いを理由とした農民追放を増加させ、土地同盟を結成した農民の闘争を激化させた。メイヨーMayoの土地管理人ボイコットBoycott(1832―1897)に対する1880年の「ボイコット戦術」は、後世の民衆闘争に名を残すことになるが、土地同盟はついに1881年、第二次土地法を制定させて3Fを認めさせ、土地裁判所を設置させた。
第一次、第二次のグラッドストーン土地法でその方向が示された自作農創設は、土地購入法(1885)、ウィンダム土地法(1903)によって大幅に進展した。土地財産委員会(つまりイギリス政府)が土地を買い上げて小作人に分与し、小作人は長期に土地代金を分割返済するというものである。こうしてアイルランドの小作人が多く自作農になることによって土地問題はいちおう解決することになった。
[堀越 智]