イギリス連邦(読み)いぎりすれんぽう(英語表記)Commonwealth of Nations

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イギリス連邦」の意味・わかりやすい解説

イギリス連邦
いぎりすれんぽう
Commonwealth of Nations

一般に英連邦とよばれる。イギリスと旧イギリス領植民地から独立した合計53か国で構成される国家グループ。イギリス以外の構成メンバーは、大別して自治領ドミニオンDominion)とよばれたオーストラリアニュージーランドカナダと、第二次世界戦後に独立したアジア、アフリカオセアニアおよびカリブ海の諸国に分類される。南アフリカも以前には自治領の立場にあったが、1961年共和制に政体を変えイギリス連邦を離脱、1994年に復帰。パキスタンは1972年脱退、1989年に復帰。最近の加盟には、1995年のカメルーンモザンビークがある。オセアニアとカリブ海の構成メンバーには小国が多い。

 構成メンバーは、イギリスと対等な立場にある主権国家で、それらの集合体がイギリス連邦とよばれている。イギリス連邦の構成国の間には、普通の独立国家間にみられない特殊の関係がある。これは、これらの構成国が、かつてのイギリスの植民地であったという歴史的原因に基づいている。日本では普通、英連邦とよんでいるが、けっして国際法上の連邦ではない。正しい名称は「コモンウェルス・オブ・ネーションズ」であり、略して「コモンウェルス」である。

[池田文雄]

コモンウェルスの性格

コモンウェルスは国際法上の国家連合でも同君連合でも連邦でもなく、既成の概念ではとらえることのできない特殊な多民族の国家グループである。それはイギリス国土を相互の自由な結合の象徴として認め、かつイギリス国王をコモンウェルスの首長として認める諸国家のグループである。この諸国家の結合はきわめて緩く、友好協力関係と実利を基礎とするクラブ的な結び付きで、いわば「多民族クラブ」であり、「多人種の寄合い世帯」である。そこにあるのは実利による結合と緩やかな協力にすぎない。イギリス国王を元首とする国もあるが、別個の国王や大統領をもつ国も多い。各国は政治的にまとまることもなく、むしろ非政治的な国際協力がコモンウェルスの枠組みになっている。そのうちでも、経済援助と開発投資が大きな役割を果たしている。新独立国がコモンウェルスに加入するのは、そこに利益があるためで、利害が対立すれば離脱する。ただし、いずれもイギリス領植民地であったため、英語を共通語として使用し、英語が英連邦を結ぶきずなといわれるほか、議会制度をはじめイギリス流の社会制度ないし社会慣習という共通点をもつ。

[池田文雄]

コモンウェルスの成立と発展

構成国のなかで、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどは、自治領(ドミニオン)とよばれてきた。自治領は、当初はイギリス本国の植民地であったが、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)前に内政上の自治を獲得し、戦後は対外関係においても独立する傾向を強めた。1926年のバルフォア宣言はこの自治領独立化の傾向を進め、自治領は本国と対等で、国王に対する共通の忠誠によって結ばれ、英コモンウェルスの一員として自由に結合するものとなった。1931年のウェストミンスター条例は、このバルフォア宣言の趣旨を法律化し、自治領の独立的地位を法的に確立した。ここに第一次コモンウェルスが成立した。そこにはイギリス国王を共通の元首とする濃い血族の連帯意識があった。第二次世界大戦後、アジア、アフリカ、オセアニア、カリブ海の旧イギリス領植民地の独立に伴い、白人の自治領で構成されていた第一次コモンウェルスは変質して、異文化をもつ多民族の国家グループである第二次コモンウェルスが成立した。そこでは第一次コモンウェルスがもっていた高度の内部的同質性は失われていった。ことに、インドが1949年政体を共和制に変え、イギリス国王に対する忠誠を拒否したのちも、コモンウェルス内に残ることとなったため、従来の国王に対する共通の忠誠という観念は維持できなくなった。そこで1949年のコモンウェルス首相会議で「イギリス国王は独立したコモンウェルスの自由な結合の象徴であり、かかるものとしてコモンウェルスの首長である」という観念が形成された。まさにコモンウェルスの劇的な変身であり、この第二次コモンウェルスが現在のイギリス連邦である。

[池田文雄]

コモンウェルス諸国の特殊関係

(1)イギリス国王はコモンウェルス諸国の自由な結合の象徴である。(2)イギリス国王はコモンウェルス諸国において、首長という特別の地位をもつ。首長は元首ではなく、自由な結合の象徴にすぎない。(3)共通の問題を協議するためにコモンウェルス首脳会議がある。(4)通常の外交使節のかわりに高等弁務官を派遣している。(5)条約を結ぶ際、相互に通報し、一部のコモンウェルス諸国間では、相互間の紛争は国際裁判機関に付託せず、犯罪人引渡しも普通と異なる。(6)コモンウェルス諸国の国民は、コモンウェルス市民という地位をもっている。

[池田文雄]

イギリスのEC加盟とコモンウェルス

第二次世界大戦後、イギリス経済の斜陽化に伴い、構成各国に対するイギリスの指導的地位が低下し、構成各国間の利害対立も目だってきた。1973年のイギリスのEC(現EU、ヨーロッパ連合)加盟により、コモンウェルスの経済的紐帯(ちゅうたい)といわれた「イギリス連邦特恵関税」が廃止された。イギリスは生き残るために、コモンウェルスを切り捨てて、大陸ECの一員となる道を選んだ。EC加盟に伴い、英ポンドは国際基軸通貨の座を降り、ポンド地域はほとんど消滅した。この二つの事実は、加速的にコモンウェルス諸国のイギリス離れをよんだ。ではコモンウェルスは解消してしまうかというとそうでもない。ポンドは基軸通貨ではなくなったが、ロンドンのシティは依然としてコモンウェルスを含む世界の金融市場の中心であり、イギリスがコモンウェルス諸国にもつ経済的権益はなお大きい。コモンウェルスを構成する貧しい諸国にとっては、頼りになるロンドンである。利益のあるところに結合がある。それがコモンウェルスである。

 コモンウェルスの機構としては、2年に1回開催される首脳会議、事務局、援助基金、技術基金などがある。

[池田文雄]

『伊東敬著『英連邦史論』(1963・表現社)』『英連邦研究会編『英連邦の研究』(1969・国際電信電話株式会社)』『池田文雄著『英連邦と国際問題』(1978・教育社、現、ニュートンプレス)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イギリス連邦」の意味・わかりやすい解説

イギリス連邦
イギリスれんぽう
Commonwealth of Nations

イギリス (連合王国) を中心とする自治領,旧植民地諸国から構成されるゆるやかな連合体。 1887年イギリス本国とその属領を結ぶため開かれたイギリス植民地会議は 1907年イギリス帝国会議と改称され,イギリス帝国 British Empireを事実上形成していた。しかし第1次世界大戦後,経済的にも政治的にも発言力が増した自治領の要求をいれ,23年の British Empireから British Commonwealthへの改称,さらに 26年のバルフォア報告の採択,31年ウェストミンスター憲章の制定など,本国と属領は次第に対等の関係におかれるようになった。この傾向は第2次世界大戦によってさらに促進され,44年従来の帝国会議に代ってイギリス連邦首相会議が開かれるようになり,また 47年のインド,パキスタンの独立を機に,49年以降はイギリス王室を共通の元首としない単なるイギリスと自治領・旧植民地諸国の連絡調整会議に変化し,名称も Commonwealth of Nationsに改称されるにいたった。政治的には 61年南アフリカ共和国の脱退,65年のローデシア (現ジンバブエ) 独立をめぐるイギリスとの対立によってイギリス連邦の結束はさらに弛緩しつつあり,経済的にはイギリスの経済力の低下,73年のヨーロッパ共同体 ECへのイギリスの加盟などによってイギリス連邦の役割は弱まりつつある。しかし 71年に締結されたイギリス,オーストラリア,ニュージーランド,マレーシア,シンガポール5ヵ国間の英連邦5ヵ国条約にみられるように,英連邦構成国間で緊密な防衛協力が行われているのも現実であり,その生命力には無視できないものがある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報