三一独立運動(読み)サンイチドクリツウンドウ

  • 三・一独立運動

百科事典マイペディアの解説

万歳(ばんざい)事件とも。1919年3月1日を期して始められた朝鮮近代史上最大の反日独立運動。南・北朝鮮では今日でもこの日を記念日として重視している。第1次世界大戦以後,民族運動や革命運動が世界的な高まりを示したが,朝鮮でも独立を達成しようとする動きが一段と活発になった。アメリカや上海で活動していた安昌浩呂運亨,金奎植らのグループは,パリ講和会議に朝鮮人代表を派遣し,朝鮮独立の必要性を国際世論に訴えるため奔走していた。朝鮮内では天道教,キリスト教,学校の教師・学生の間でそれぞれ独自に独立運動計画が練られていた。別々に進められていたこれらの運動は,1919年に入ると相互に連絡がつけられた。1919年2月8日在日留学生が東京で独立宣言書を発表,独立運動促進の気運が急速に盛り上がった。2月の末に決められた方針は,(1)ソウルのパゴダ公園で独立を宣言し,朝鮮全土で独立宣言書を配布すること,(2)日本政府および貴族院・衆議院あてに朝鮮併合は無意味であり即刻独立を認めるべきであるという通告文を送り,アメリカ大統領ウィルソンと講和会議各国委員には朝鮮独立を支援するよう請願書を送ることであった。独立宣言書は崔南善が起草し,これに天道教の孫秉熙(そんへいき),キリスト教の李昇薫,仏教の韓竜雲など計33名の民族代表が署名した。ひそかに印刷された2万1000枚の独立宣言書が宗教者や学生たちによって全国に運ばれた(各地ではこれを元にした別の宣言書が作成されたこともあった)。こうした大がかりな準備が〈水も漏らさぬ〉と豪語した日本の官憲の眼をぬすんで成功裡に進められた。 3月1日,運動はまずソウル,平壌,大邱,開城などの主要都市で始められた。ソウルではパゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に行動を開始した。独立宣言書の朗読を終えると太極旗(大韓帝国時代の国旗)をうちふり〈独立万歳〉を高唱しながら街頭に出,数万の群衆が参加する大規模なデモとなった。以後各地の運動は大衆の集まりやすい市のたつ日に合わせて行われ,3月中ごろからは朝鮮全土に運動が拡大した。日本の支配層はこの運動を徹底的に弾圧。憲兵・警察のほかに正規軍をも投入した鎮圧作戦によって,水原の堤岩里事件(4月15日29名虐殺,近辺の死者は1000名を越したといわれる),天安事件(4月1日並川市場でデモ隊20名射殺,朝鮮のジャンヌ・ダルクといわれた柳寛順が逮捕され獄死),定州事件(3月8日デモ隊,市民120名余を無差別殺戮)が引き起こされた。 この運動は多くの犠牲者を出して終わったが,その影響は大きく,中国の五・四運動をはじめ被抑圧民族による反植民地運動の先駆けとなった。また,日本の植民地統治に深刻な打撃を与え憲兵警察制度は廃止せざるをえなくなった。制限つきではあったが,朝鮮人は集会・結社の自由や言論の自由をかち取った(翌年《東亜日報》《朝鮮日報》などが発刊)。朝鮮総督の長谷川好道は更迭されて斎藤実が第3代総督となった。斎藤総督は,非妥協的民族主義者を除外して自治派などの妥協的民族主義者をとりこむ〈文化政治〉に転換した。しかし三・一運動を経験した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。労働運動,農民,女性,青年などの大衆運動は,三・一運動をその出発点として本格的に展開されることになった。国外では4月10日,多くの独立運動家たちが集まって,上海で大韓民国臨時政府が組織された。
→関連項目安昌浩金子文子咸錫憲韓竜雲許憲高宗洪命熹斎藤実崔南善孫秉煕朝鮮総督府朝鮮独立運動原敬内閣李承晩柳寛順

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