小野塚喜平次(読み)オノヅカキヘイジ

デジタル大辞泉 「小野塚喜平次」の意味・読み・例文・類語

おのづか‐きへいじ〔をのづか‐〕【小野塚喜平次】

[1871~1944]政治学者。新潟の生まれ。東大総長。日本における近代政治学基礎を築いた。著「政治学大綱」「現代政治の諸研究」「現代欧州之憲政」など。

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精選版 日本国語大辞典 「小野塚喜平次」の意味・読み・例文・類語

おのづか‐きへいじ【小野塚喜平次】

  1. 政治学者。新潟県出身。東京帝国大学総長。著「政治学大綱」で政治学を体系づけた。日露戦争の際に、強硬論を主張。明治三~昭和一九年(一八七〇‐一九四四

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改訂新版 世界大百科事典 「小野塚喜平次」の意味・わかりやすい解説

小野塚喜平次 (おのづかきへいじ)
生没年:1870-1944(明治3-昭和19)

日本における政治学の創始者。新潟県長岡に生まれる。1895年帝国大学法科大学を卒業し,大学院に進む。1897-1901年ヨーロッパ留学,帰朝後,母校で日本最初の政治学講座の専任教授となる。《政治学大綱》(1903)において,政治学とは〈国家ノ事実的説明ヲアタヘ其政策ノ基礎ヲ論スル学〉であると規定し,国家学からの独立を宣した。03年,対露強硬外交の意見書を桂太郎首相に提出したことによって起こった,七博士建白事件では〈大学の独立と研究の自由〉を守るべく抗議した。以後,早くから民衆主義democracyに着目し,《現代欧洲之憲政》(1913),《欧洲現代政治及学説論集》(1916)などを通して,現実政治の実証的研究方法を具体的に示した。また,吉野作造南原繁蠟山政道矢部貞治などの学者を育てた。17年帝国学士院会員,18年法科大学長,25年貴族院議員となる。28年病気の古在由直のあとを受けて東大総長となり,軍国主義化の中で大学の自治を守るために努力した。43年公職を辞す。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小野塚喜平次」の意味・わかりやすい解説

小野塚喜平次
おのづかきへいじ
(1870―1944)

政治学者。新潟県に生まれる。1895年(明治28)帝国大学法科大学卒業。1897~1901年ヨーロッパ留学。帰国して同大政治学講座初代担当教授。日露戦争直前、対露強硬外交を主張する「七教授建議書」に参加(1903)、七教授のなかの最強硬論者戸水(とみず)教授休職処分に、大学の自治を主張して反対(1905)。1917年(大正6)学士院会員、18~19年法科大学長(法学部長)、25年貴族院議員、28年(昭和3)総長代理、同年より34年まで総長。在任中、左翼の新人会解散、右翼の七生社戒告(1928)、陸軍配属将校増員事件(1933)などの処理にあたった。政治学者としては『政治学大綱』上下2巻(1903)により、明治初年以来国家学に従属してきた政治学を、政治における特殊現象としての政策に注目することによって学問的に独立させることを意図し、日本における近代政治学の第一歩を踏み出した。また『現代欧州立憲政況一斑(せいきょういっぱん)』(1908)、『現代欧州之憲政』(1913)、『欧州現代政治及学説論集』(1916)、『現代政治の諸研究』(1926)などで、欧州立憲政の動向を研究し、その大勢が衆民政(民主主義)、国家権力の拡大、ナショナリズムなどに向かっていることを示した。弟子に吉野作造、南原繁(しげる)などがある。

[半澤孝麿]

『南原繁・蝋山政道・矢部貞治著『小野塚喜平次 人と業績』(1963・岩波書店)』

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20世紀日本人名事典 「小野塚喜平次」の解説

小野塚 喜平次
オノヅカ キヘイジ

明治〜昭和期の政治学者 東京帝国大学総長;貴院議員。



生年
明治4年2月10日(1871年)

没年
昭和19(1944)年11月27日

出生地
新潟県長岡市

学歴〔年〕
東京帝大法科大学政治学科〔明治28年〕卒

学位〔年〕
法学博士

経歴
明治30〜34年ドイツ、フランスに留学、帰国後直ちに東京帝大教授となり、政治学を担当。大正7年東京帝大法科大学学長、昭和3〜9年総長。この間大正6年に帝国学士院会員、14年から昭和18年まで学士院選出の貴族院議員。わが国の近代政治学の基礎を築くと共に、門下から南原繁、蠟山政道、矢部貞治らを輩出した。また戸水事件など、軍国主義下の大学自治擁護に活躍した。著書に「政治学大綱」「現代欧州の憲政」「欧州現代政治及学説論集」「現代政治の諸研究」などがある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小野塚喜平次」の意味・わかりやすい解説

小野塚喜平次
おのづかきへいじ

[生]明治3(1870).12.21. 新潟
[没]1944.11.27. 東京
政治学者。日本における政治学の開拓者。東京大学卒業後,ヨーロッパに留学。 1901年帰国後,東京大学で日本最初の政治学講座専任教授となる。日露戦争開戦に大きな役割を果した七博士事件,戸水 (とみず) 事件ののち,研究に没頭,のち同大学総長となり大学行政においても重要な役割を果した。吉野作造南原繁,蝋山政道らの学者を育てた。主著『政治学大綱』 (1903) ,『現代欧州の憲政』 (13) ,『欧州現代政治及学説論集』 (16) ,『現代政治の諸研究』 (26) 。

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百科事典マイペディア 「小野塚喜平次」の意味・わかりやすい解説

小野塚喜平次【おのづかきへいじ】

政治学者。新潟県生れ。東大卒。1901年東大で日本初の政治学講座専任教授となる。政治学を国家学から独立させ,日本の近代政治学の基礎を築く。1928年―1934年東大総長として大学行政に大きな役割を果たした。日露戦争に当たって対露強硬論を唱えた七博士の一人。→七博士建白事件
→関連項目社会政策学会

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小野塚喜平次」の解説

小野塚喜平次 おのづか-きへいじ

1871*-1944 明治-昭和時代前期の政治学者。
明治3年12月21日生まれ。34年母校東京帝大の教授となり,日本最初の政治学講座を担当。「政治学大綱」で政治学の国家学からの独立を意図した。対露強硬外交をとなえた七博士のひとり。学士院会員。昭和3年東京帝大総長。昭和19年11月26日死去。75歳。越後(えちご)(新潟県)出身。著作に「現代政治の諸研究」など。

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367日誕生日大事典 「小野塚喜平次」の解説

小野塚 喜平次 (おのづか きへいじ)

生年月日:1871年2月17日
明治時代-昭和時代の政治学者。法学博士;東京帝国大学教授;貴族院議員
1944年没

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