日本における政治学の創始者。新潟県長岡に生まれる。1895年帝国大学法科大学を卒業し,大学院に進む。1897-1901年ヨーロッパに留学,帰朝後,母校で日本最初の政治学講座の専任教授となる。《政治学大綱》(1903)において,政治学とは〈国家ノ事実的説明ヲアタヘ其政策ノ基礎ヲ論スル学〉であると規定し,国家学からの独立を宣した。03年,対露強硬外交の意見書を桂太郎首相に提出したことによって起こった,七博士建白事件では〈大学の独立と研究の自由〉を守るべく抗議した。以後,早くから民衆主義democracyに着目し,《現代欧洲之憲政》(1913),《欧洲現代政治及学説論集》(1916)などを通して,現実政治の実証的研究方法を具体的に示した。また,吉野作造,南原繁,蠟山政道,矢部貞治などの学者を育てた。17年帝国学士院会員,18年法科大学長,25年貴族院議員となる。28年病気の古在由直のあとを受けて東大総長となり,軍国主義化の中で大学の自治を守るために努力した。43年公職を辞す。
執筆者:亀嶋 庸一
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政治学者。新潟県に生まれる。1895年(明治28)帝国大学法科大学卒業。1897~1901年ヨーロッパ留学。帰国して同大政治学講座初代担当教授。日露戦争直前、対露強硬外交を主張する「七教授建議書」に参加(1903)、七教授のなかの最強硬論者戸水(とみず)教授休職処分に、大学の自治を主張して反対(1905)。1917年(大正6)学士院会員、18~19年法科大学長(法学部長)、25年貴族院議員、28年(昭和3)総長代理、同年より34年まで総長。在任中、左翼の新人会解散、右翼の七生社戒告(1928)、陸軍配属将校増員事件(1933)などの処理にあたった。政治学者としては『政治学大綱』上下2巻(1903)により、明治初年以来国家学に従属してきた政治学を、政治における特殊現象としての政策に注目することによって学問的に独立させることを意図し、日本における近代政治学の第一歩を踏み出した。また『現代欧州立憲政況一斑(せいきょういっぱん)』(1908)、『現代欧州之憲政』(1913)、『欧州現代政治及学説論集』(1916)、『現代政治の諸研究』(1926)などで、欧州立憲政の動向を研究し、その大勢が衆民政(民主主義)、国家権力の拡大、ナショナリズムなどに向かっていることを示した。弟子に吉野作造、南原繁(しげる)などがある。
[半澤孝麿]
『南原繁・蝋山政道・矢部貞治著『小野塚喜平次 人と業績』(1963・岩波書店)』
明治〜昭和期の政治学者 東京帝国大学総長;貴院議員。
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