日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
アリエノール・ダキテーヌ
ありえのーるだきてーぬ
Aliénor d'Aquitaine
(1122―1204)
フランス王妃、のちイングランド王妃。英語名エリナーEleanor。アキテーヌ侯ギレム10世の長女として生まれ、ボルドーの城館に育った。アキテーヌ侯家の本領はポアトゥー伯領であり、ギレム(ギヨームのオック語形)はポアトゥー伯としては8世である。ポアトゥー家はすでに数代にわたってアキテーヌ侯号をとり、ボルドーとポアチエを都としていた。アリエノールは1137年、父ギレムを襲って侯号と伯号をとった。同年フランス王家カペー家のルイ7世の妻となり、15年間フランス王妃であった。第2回十字軍(1147~1149)から夫に同行して帰国ののち、二女を残してカペー家を去り、その3か月後アンジュー伯アンリと結婚した。アンリはすでにその時点で、母方の血筋(ちすじ)からノルマンディー侯位を相続していて、1154年にはイングランド王位についた。プランタジネット朝アンジュー王家初代のヘンリー2世である。アリエノールはノルマンディー侯妃、イングランド王妃となった。アンリとの間に8人の子女を得たが、男子のうち2人は早世し、残った3人のうちリチャード、ジョンが相次いでアンジュー王家を相続した。このアンジュー家の勢いを阻もうとしたのが、アリエノールの前夫ルイであり、その後添いの腹に生まれたフィリップ2世であった。
アンジュー家対カペー家の抗争に彼女の果たした役割についてはさまざまな意見がある。1172年息子たちがカペー家の扇動にのせられて父王に反逆した際、彼女は息子たちをかばい、以後、夫の監視下に置かれた。彼女は両王家対立の緩衝になろうとしたと思われる。その努力もむなしく、1204年、アンジュー家は大陸領土をいっさい失った。同年、彼女は死んだ。
彼女は「トルバドゥールの女王」とたたえられる。南フランスのオック語圏は北フランスに比べて文化の先進地帯であり、爛熟(らんじゅく)した宮廷文化の高度な社交形式であったオック語叙情詩は、実に彼女の宮廷を媒体として北フランスに伝えられ、騎士道文学の形成を促し、ひいては西ヨーロッパの叙情詩の源流となったのである。
[堀越孝一]
『Amy KellyEleanor of Aquitaine and the Four Kings (1963, Harvard University Press, Cambridge,Massachusetts)』