世界大百科事典 第2版
「アンティオコス[4世]」の意味・わかりやすい解説
アンティオコス[4世]【Antiochos IV】
前212?‐前164か163
シリア王。在位,前175‐前164か163年。アンティオコス3世の次子。〈エピファネス(顕神王)〉。前190か189年,父がローマに敗北したのち,ローマに人質として生活。前176年兄セレウコス4世が人質をその子デメトリオス(後の1世)に代え,彼は帰国。前175年暗殺された兄に代わり王位を兄の子と分かち,次いでそれを殺し王となる。前170‐前168年エジプトを勢力下に置いたが,ローマの干渉に遭い退却。
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世界大百科事典内のアンティオコス[4世]の言及
【アンチキリスト】より
…それはイエスのキリストたることを否認する者で,終りの日に先立って今現れているという。黙示文学では,エルサレムを荒らしたアンティオコス4世が終末時の敵の原型とされ,さらにローマ皇帝ネロやドミティアヌスもそのようにみなされた。宗教改革者はしばしばローマ教皇をアンチキリストと呼んだ。…
【シリア王国】より
…
[歴史]
セレウコス1世はアレクサンドロス大王の死後バビロニアの総督となり,前312年地歩を確立(セレウコス朝暦第1年),大王の後継者たち(ディアドコイ)の争いの渦中で勢力を拡大し,西は小アジアから東はインド国境におよぶ広大な領土を獲得した。しかし,その後はたび重なる戦争(とくにプトレマイオス朝とのシリア戦争),王家内部の紛争,王国内各地の離反独立(ペルガモン,パルティア,バクトリアなど)によって弱体化し,アンティオコス3世(在位,前223‐前187)のとき,内政改革と再征服遠征によって一時的に衰勢をたてなおし大版図を回復したが,東地中海に力を伸ばしたローマに敗れて頓挫し,アンティオコス4世(在位,前175‐前164か163)の膨張政策と国内改革も,ローマの介入やユダヤの反乱などによって挫折を余儀なくされた。前160年にはパルティアの勢力拡大に屈してイラン西部を併合され,前129年にはメソポタミアとユダヤを最後的に失って,王国は北シリアと東キリキアのみに縮小,その後は一段と混迷を深め,前64年ポンペイウスによってローマに併合され滅亡した。…
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