イプシランディス
Aléxandros Ipsilántis
生没年:1792-1828
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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イプシランディス(兄)
いぷしらんでぃす
Alexandros Ypsilantis
(1792―1828)
ギリシア独立運動の指導者。秘密結社「友愛会(ヘタイリア・フィリケ=フィリキ・エテリア)」の総裁。オスマン・トルコ帝国の一公国ワラキアを支配したギリシア系官僚(ファナリオテス)の家柄に生まれる。出生地はイスタンブール。
1805年以降ロシアの軍籍にあり、少将まで進んだが、20年、友愛会創立者の1人クサントスの要請にこたえ、同結社の総裁ならびに独立革命軍総帥の大任を引き受けた。ギリシア本土のモレア(ペロポネソス半島)を反乱決起の地とする計画が挫折(ざせつ)するや、21年2月22日、プルート川を渡りベッサラビアからモルダビア公国に兵を進め、同24日ヤーシから各地に革命の檄(げき)を飛ばしたのち、ワラキア公国にも進撃した。ロシア皇帝アレクサンドル1世により軍籍を剥奪(はくだつ)され、公国住民の支持も得ないままドラガツァニで壊滅的打撃を受けた。トランシルバニアでオーストリア官憲に捕らわれ、長い牢獄(ろうごく)生活ののち、27年釈放されたが、翌年1月ウィーンで死去。
[馬場恵二]
イプシランディス(弟)
いぷしらんでぃす
Dimitrios Ypsilantis
(1793―1832)
ギリシア独立運動の志士。モルダビア、ワラキア両公国で反乱決起した「友愛会」(フィリキ・エテリア)総裁の兄アレクサンドロスによって、1821年4月、革命軍全権総代としてギリシア本土のモレア(ペロポネソス半島)に派遣された。途中モレアの反乱蜂起(ほうき)の事実を知って急行したが、ペロポネソス長老会を構成する豪族層の激しい抵抗にあい、民衆やカペタニオス層の熱い支持にもかかわらず、自分を総帥とする統一的指揮体制を確立することに失敗した。
エピダウロスに招集した第1回国民議会(1821年末~22年初)においても、彼は指導力を振るえず、引退を余儀なくされた。
[馬場恵二]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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イプシランディス
Aleksandros Ipsilantis
1792~1828
ギリシア独立を掲げた秘密結社フィリキ・エテリアの総司令官。オスマン帝国のギリシア人商人貴族層の出身。ロシア軍に従軍し皇帝アレクサンドル1世の副官を務めた。のちのデカブリストとも交流し,自由主義的な思想を身につけた。1821年に開始した蜂起はギリシア独立戦争の発端となった。この蜂起はまもなくオスマン軍に鎮圧された。オーストリアに逃亡したが,逮捕,投獄され,のちに獄中死した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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イプシランディス
Ypsilantis, Alexandros
[生]1792.12.12.
[没]1828.1.31.
ギリシア独立戦争の指導者。ファナリオテス出身の貴族。ロシア軍に勤務したが,1820年ギリシアの秘密結社「フィリキ・エテリア」に入り,21年に義勇軍を率いてロシアからモルドバ,ワラキアに進軍したがオスマン帝国軍に敗北,オーストリアへ逃げたが,逮捕,投獄された。この反乱がギリシア独立戦争の発端となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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イプシランディス
生年月日:1792年12月12日
ギリシア独立戦争の指導者
1828年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のイプシランディスの言及
【エテリア】より
…彼らはフリーメーソンやカルボナリの影響をうけ,秘儀的な入社式や厳格な位階制を設けたが,その組織網は18年以降,東欧からオーストリア,イタリアの諸都市へもひろがった。20年,最高指導者にロシア陸軍少将[A.イプシランディス]が選ばれて蜂起計画をすすめ,当初はモレア(ペロポネソス)半島へ直行して蜂起する予定だったが,結局ワラキア,モルドバのドナウ両公国を経てバルカンを南進し,諸民族を加えた一斉蜂起の策がとられた。21年1月にはエテリアと通じていた[T.ブラディミレスク]がワラキアで農民蜂起をおこした。…
※「イプシランディス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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