オスマン・トルコ帝国支配下のギリシアを独立させた戦争(1821~1829)。民族主義的なギリシアの独立運動は、18世紀のヨーロッパに散住したコライスAdamantios Korais(1748―1833)やリガスKonstantinos Rigas(1757―1798)などのギリシア知識人により、フランス革命の強い影響の下に準備されたが、武装蜂起(ほうき)を目的とする秘密結社「フィリキ・エテリア(友愛会)」が1814年にオデッサ(現、オデーサ)で結成された。同結社の総裁アレクサンドロス・イプシランディスは1821年2月22日(旧暦)モルダビア、ワラキア方面で決起したが、ギリシア本土では同年3月23日(旧暦)「スパルタ・メッセニア軍団」がカラマタを占領して、反乱の火の手はペロポネソス半島から中部ギリシアへしだいに拡大した。トルコ軍が謀反者アリ・パシャ追討に忙殺されている間は、反乱軍に戦況が有利であったが、友愛会総裁の弟ディミトリオスは、ペロポネソス長老会の抵抗にあって統帥権を貫けず、また同年12月招集の第1回国民会議は、暫定憲法を制定したものの地方割拠主義を克服することができず、1824年には内戦にまで発展した。1825年からはイブラヒム・パシャIbrāhīm Pasha(1789―1848)の率いるエジプト軍が本格的なギリシア再征服に乗り出した。この軍事的危機のなかで、1827年に開催されたトロイゼン国民会議は、列強の積極的干渉を求め、外交手腕に勝る国際人のカポディストリアスを大統領に選出した。ロンドン議定書によって共同干渉の体制を固めたイギリス、ロシア、フランスは、ギリシア支援の船隊を送って、同年10月ナバリノの海戦でトルコ・エジプト連合船隊を撃滅した。これによって、ギリシアはトルコ支配から事実上解放され、1829年3月のロンドン議定書によって、その独立が国際的に承認された。
[馬場恵二]
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オスマン帝国からのギリシアの独立をめざした戦争。1821年3月フィリキ・エテリアの総司令官A.イプシランディスのモルドヴァ,ワラキア両公国への進軍によって開始された。イプシランディス軍の蜂起は失敗に終わったが,ペロポネソスの名望家マヴロミハリスを中心とした蜂起は継続してギリシア軍の核となった。欧米からはロマン主義とフィルヘレニズム(親ギリシア)の風潮に感化された義勇兵が参加した。しかしながら,ギリシア反乱軍内の意思統一を欠き,地域,個人,あるいは社会階層ごとのさまざまな思惑と利益が交錯して内戦が引き起こされた。さらに,25年オスマン帝国に要請されたエジプト軍の攻撃は大きな打撃となった。当初ウィーン体制下で不介入の態度を示していた西欧諸国のなかから,26年にイギリス,フランス,ロシアがギリシア側につき,27年にナヴァリノ海戦でオスマン‐エジプト連合軍に勝利したことで,ギリシア独立の可能性が生まれた。29年のエディルネ(アドリアノープル)条約に従い,30年ロンドン議定書によって独立が国際的に承認され,32年に国境が画定された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…1821‐29年にかけて闘われたオスマン帝国からのギリシアの解放戦争。ギリシア革命またはギリシア独立戦争ともいわれている。1821年春,バルカン諸民族の一斉蜂起をめざしたエテリア蜂起はオスマン・トルコ軍によって速やかに鎮圧されたが,エテリアの組織網はすでにギリシア各地にもひろがっており,蜂起のしらせは大きな反響を呼びおこした。…
※「ギリシア独立戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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