メッテルニヒ(読み)めってるにひ(英語表記)Klemens Wenzel Lothar, Fürst von Metternich

日本大百科全書(ニッポニカ) 「メッテルニヒ」の意味・わかりやすい解説

メッテルニヒ
めってるにひ
Klemens Wenzel Lothar, Fürst von Metternich
(1773―1859)

オーストリア政治家。3月15日ライン地方の貴族の家柄に生まれる。ストラスブールマインツ法学、政治学および歴史学を学ぶ。1795年オーストリア元宰相カウニッツの孫娘と結婚。1806~1809年オーストリアの駐仏大使、1809年外相に任命され、皇女マリ・ルイーズナポレオン1世の結婚を勧めるなど巧みな外交でフランスとの友好を保ちつつ、オーストリアの勢力の温存を図った。1813年対仏連合国側に加わり、ナポレオンを屈服させ、1814~1815年のウィーン会議では議長として、正統主義と勢力均衡の原則に基づくヨーロッパ政治秩序の再建に努力し、1820~1822年には、いわゆる「会議外交」を展開してイタリアやスペインの革命運動の武力弾圧を行った。ドイツ連邦内でも、カールスバートの決議などで「自由と統一」のための運動を抑圧し、ウィーン反動体制の指導者とみられた。1821年オーストリア宰相に就任し、30年近くその座を占めたが、政敵コロブラートKolowrat(1778―1861)のため内政上の権限を奪われ、活動はもっぱら外交の領域に限られた。1848年の三月革命勃発(ぼっぱつ)と政界内紛のために失脚し、オランダ経由でイギリス亡命、1851年帰国したが、すでに政治的生命は終わっていた。1859年6月11日老衰のため死去。思想的には保守的で君主主義を擁護したが、フランス革命に伴うヨーロッパの激変を冷静に既成事実として受け止める現実的政治家の側面もあわせ備えていた。

[末川 清]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メッテルニヒ」の意味・わかりやすい解説

メッテルニヒ
Metternich, Klemens Wenzel Nepomuk Lothar, Fürst von

[生]1773.5.15. コブレンツ
[没]1859.6.11. ウィーン
オーストリアの政治家,外交官。外交官の子として生れ,シュトラスブルク,マインツの大学で外交と法律を学んだ。マインツでフランス革命軍を目撃,亡命貴族たちとの対話を通して,その生涯の反動思想をはぐくんだ。 1795年前宰相 W.カウニッツの娘と結婚,高位の官職につく資格を得,98年ウェストファリア代表としてラシュタット会議に出席。 1801年ザクセン駐在公使,03~05年ベルリン駐在公使,06年パリ駐在大使を経て,09年 10月外相となり,対フランス戦に敗れたオーストリアの再建をはかるとともに,老練な外交手腕と権謀術策を用いて 13年に始るナポレオン1世に対するヨーロッパの解放戦争を勝利に導いた。 14~15年ウィーン会議を主宰し,15年神聖同盟,四国同盟などを成立させ,列強の力の均衡に基づく平和維持に主眼をおき,ロシアとプロシアの勢力拡大を巧妙に押えて,いわゆるウィーン体制を築き上げ,エクスラシャペル (1818) ,ライバハ (21) ,ベロナ (22) などの列強会議において,彼の国際的名声は絶頂に達した。 21年宰相に就任。しかしイギリスが他国の革命に対する干渉政策を放棄したとき,西ヨーロッパに対する彼の影響力も衰えはじめた。 26年以降急速に崩壊の一途をたどる多民族国家オーストリアの現状維持のため,ドイツ内外の自由主義・国民主義運動の抑圧に努めたが,ラテンアメリカ諸国の独立やギリシア独立運動への干渉に失敗,抑圧と反動のシンボルとして民衆の憎悪の的となり,48年の三月革命の結果失脚してイギリスに亡命,51年帰国。政界への復帰はならなかった。

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