ウンキャルスケレッシ条約(読み)ウンキャルスケレッシじょうやく

改訂新版 世界大百科事典 の解説

ウンキャル・スケレッシ条約 (ウンキャルスケレッシじょうやく)

1833年7月8日オスマン帝国スルタン,マフムト2世ロシア皇帝ニコライ1世との間で締結された相互援助条約。ウンキャル・スケレッシUnkiar-Skelesi(トルコ語でフンカール・イスケレシHünkār İskelesi)はボスポラス海峡のアジア岸ベイコスの北にある小村で,エジプトムハンマド・アリー反乱に際し,マフムト2世の要請にこたえ,ロシア軍はこの地に上陸した。反乱収拾後,この条約が,ロシア側の英仏に対する牽制とオスマン帝国側のムハンマド・アリーに対する防御の必要から同地で締結された。ただし本条約はダーダネルス海峡をロシア以外の他国の全艦艇に対して封鎖するという秘密条項を含むため,イギリス側の抗議を受け,オーストリア首相メッテルニヒの調停でロシアはオスマン・トルコに対し野心のないことをあらためて表明したが,英仏の反対は強く,41年国際海峡協定によりこの条約は廃棄された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

ウンキャルスケレッシ条約
ウンキャルスケレッシじょうやく
Treaty of Unkiar Skelessi(Hünkâr İskelesi)

1833年7月8日,ロシアとオスマン帝国との間に締結された防御同盟で,東方問題を紛糾させた。有効期間8ヵ年。 1831~33年オスマン帝国は,エジプトの太守ムハンマド・アリーの反乱に脅かされたが,ロシアの介入を恐れるイギリスとフランスの圧力により,33年5月クタヤで講和を強いられた。かねて近東進出の機会をうかがっていたロシアは,この取決めに不満をもつオスマン帝国に接近,イスタンブールの対岸ウンキャルスケレッシ (現ユスキュダル) で,オスマン帝国への軍事援助を引受ける代償として,ボスポラス,ダーダネルス両海峡通過に関し,ロシア艦隊の優先権を認めさせる相互援助条約を結ぶことに成功した。これによって,ロシアは近東問題で優位に立ったが,イギリスの強硬な反対にあい,40年のロンドン会議で否定され,41年の国際海峡協定で廃棄された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 の解説

ウンキャル−スケレッシ条約
ウンキャル−スケレッシじょうやく
Unkiar Skelessi

1833年7月,第1次エジプト−トルコ戦争(エジプト事件)の際,オスマン帝国とロシアが結んだ相互援助条約
ウンキャル−スケレッシはコンスタンティノープル対岸の町。1831年からのムハンマド=アリー率いるエジプトの反乱に苦しんだオスマン帝国が,ロシアの援助を受けるかわりに,ニコライ1世に強制された条約。秘密条項でロシアのダーダネルス海峡の自由航行権を認めたため英・仏が強く反対し,第2次エジプト−トルコ戦争終了後,1840年のロンドン会議で廃棄された。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

百科事典マイペディア の解説

ウンキャル・スケレッシ条約【ウンキャルスケレッシじょうやく】

1833年トルコのウンキャル・スケレッシUnkiar-Skelessiで調印されたロシア・トルコ相互援助条約。これによりロシアは秘密条項で独占的なダーダネルス海峡通行権を獲得して英仏と対立東方問題一因となった。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のウンキャルスケレッシ条約の言及

【海峡問題】より

…1774年にオスマン帝国からロシアが黒海と両海峡の商船の自由航行権を獲得した。さらに1833年のウンキャル・スケレッシ条約によりロシアは,黒海に面していない国々の軍艦の海峡の航行を禁止し,不凍港から暖水域に進出する突破口をつくった。それに対し,第2期の1841年~第1次大戦には,イギリスなどがロシア艦隊の地中海進出を封じこめた。…

※「ウンキャルスケレッシ条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android