ロンドン会議(読み)ロンドンカイギ

デジタル大辞泉 「ロンドン会議」の意味・読み・例文・類語

ロンドン‐かいぎ〔‐クワイギ〕【ロンドン会議】

ロンドンで開かれた国際会議
1829年、ギリシャの独立を認めた会議。
1831年、ベルギーの独立を認めた会議。
1867年、ルクセンブルクの独立を認めた会議。
ロンドン軍縮会議

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精選版 日本国語大辞典 「ロンドン会議」の意味・読み・例文・類語

ロンドン‐かいぎ‥クヮイギ【ロンドン会議】

  1. ロンドンで開かれた国際会議。
  2. [ 一 ] 一八三〇年に開かれたイギリスロシア・フランス・プロイセンオーストリアによる会議。ベルギーの独立と永世中立を認めた。
  3. [ 二 ] 一八五二年の会議。デンマークの領土の保全とシュレスウィヒ・ホルシュタイン両公国の不可分と独立とを原則的に認めた。
  4. [ 三 ] 一八六七年五月の会議。ルクセンブルク問題を議した。
  5. [ 四 ] 一八七一年に開かれた会議。ロシアの黒海中立条項の破棄を決めた。
  6. [ 五 ] 一九一三年に開かれた、第一次バルカン戦争の講和会議
  7. [ 六 ] 一九一五年、第一次世界大戦中、イタリア三国同盟を脱して、連合国側に参戦する条件を決めた会議。
  8. [ 七 ] 一九二一年二月から二二年にかけて開かれた、対ドイツ賠償問題に関する連合国の数回の会議。
  9. [ 八 ] 一九三〇年、英・米・日・仏・伊による海軍軍備縮小の会議。→ロンドンぐんしゅくかいぎ(━軍縮会議)

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百科事典マイペディア 「ロンドン会議」の意味・わかりやすい解説

ロンドン会議【ロンドンかいぎ】

(1)1930年ロンドンで開かれた海軍軍縮会議。日・米・英・仏・伊の5ヵ国が参加したが仏・伊は途中で脱退。主力艦数を英・米各15隻,日本9隻と限定し,補助艦艇の総トン数比を英・米各10,日本7とするロンドン条約を締結。この結果は日本軍部の不満を招き,いわゆる統帥権干犯問題をひき起こし,民間右翼と軍部の結合による超国家主義運動が表面化する契機となった。1935年条約満期に伴う第2次ロンドン会議は日本と英・米の対立で実現せず,軍拡・無条約時代が始まった。(2)1933年世界大恐慌対策の討議のためロンドンで開かれた国際経済会議。67ヵ国が参加したが,米国と西欧諸国との対立によってなんら得るところなく解散。このため経済的国際協調への道は閉ざされ,ブロック経済への道がとられるに至った。
→関連項目海軍加藤寛治関税休戦会議幣原外交ジュネーブ会議若槻礼次郎

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ロンドン会議」の解説

ロンドン会議(ロンドンかいぎ)

ロンドンで開かれた国際会議は,近代史上数多くあるので,ここでは主要なものだけあげる。

①〔1827~31〕1827年7月から31年まで続いた,ギリシア独立戦争ベルギーの独立に関する英仏ロシアの外交官協議

②〔1864〕1864年4月から6月にかけて開かれたシュレースヴィヒ‐ホルシュタイン問題に関する列強会議。

③〔1867〕1867年5月に開かれたルクセンブルクの永世中立を認めた列強会議。

④〔1871・83〕1871年3月および83年2~3月に開かれたダーダネルス海峡およびドナウ川問題などに関する会議。

⑤〔1912~13〕1912年12月から13年1月まで,続いて5月に開かれた第1次バルカン戦争の講和会議。

⑥〔1921~22〕1921年2月から22年にかけて,数回開かれた対ドイツ賠償問題に関する連合国会議。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロンドン会議」の意味・わかりやすい解説

ロンドン会議
ロンドンかいぎ
London Conference

ロンドンで開かれた国際会議。 (1) 1827~32年 ギリシアの独立をめぐるイギリス,フランス,ロシア3ヵ国会議。 (2) 1830~31年 ベルギーの独立をめぐるイギリス,フランス,ロシア,オーストリア,プロシア5ヵ国とオランダの会議。 (3) 1864年 シュレースウィヒ=ホルシュタイン問題をめぐるイギリス,フランス,ロシア,オーストリア,プロシア5ヵ国会議。 (4) 1867年 ルクセンブルクの中立保障に関するイギリス,フランス,プロシア,オランダ諸国会議。 (5) 1871年 黒海中立化 (1856年のパリ講和会議承認条項) をめぐる列国会議。 (6) 1912~13年 第1次バルカン戦争講和会議。 (7) 1921年 近東問題に関する列国会議。 (8) 1924年 ドイツ賠償問題をめぐる列国会議 (ドーズ案採択) 。 (9) 1930年 第1回ロンドン海軍軍縮会議。 (10) 1935~36年 第2回ロンドン海軍軍縮会議。 (11) 1936年 スペイン内乱への不介入を討議する列国会議。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ロンドン会議」の解説

ロンドン会議
ロンドンかいぎ

①ギリシア独立が国際的に承認された会議(1830)
②第2回エジプト−トルコ戦争処理のために開催された国際会議(1840)
ギリシア独立戦争に勝利したギリシアは,アドリアノープル条約(1829)でオスマン帝国からの独立を認められたが,この会議の議定書(同年2月)により英仏などから,ギリシアは世襲君主のもとでの独立国家として承認された。
露英墺普4か国とオスマン帝国の間でロンドン4国条約が締結され,ダーダネルス・ボスポラス海峡の通行権をロシアに認めたウンキャル−スケレッシ条約(1833)は破棄され,オスマン帝国に外国軍艦の航行を禁じた。また,エジプトのムハンマド=アリーには占領したシリアを返還させたが,エジプト統治の世襲権を認めた。これによりロシアの南下の野心は挫かれ,イギリスが外交的に勝利した。

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世界大百科事典(旧版)内のロンドン会議の言及

【ギリシア解放戦争】より

…ロシアはさらにオスマン・トルコとの戦争準備をし,イギリス,フランスはロシアの影響の増大を恐れてそれを阻止しようとしたが,スルタンの好戦的態度によって露土戦争(1828‐29)が勃発,軍事的に大敗を喫したオスマン・トルコはロシアとアドリアノープル条約を締結して,初めてギリシアの自治を承認した。主権国家ギリシアの独立は翌年2月のロンドン会議でイギリス,フランス,ロシア3国によって正式に承認されたが,国境設定など未解決の問題を残した。【萩原 直】。…

※「ロンドン会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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