スペイン中央部の歴史的地方名。メセタとよばれる乾燥した内陸高原の大部分を占める。北をカンタブリカ山脈、東をイベリカ山脈、南をシエラ・モレナ山脈によって囲まれ、高原全体が西へ向かって傾斜している。中央部をグアダラマ山脈をはじめとする中央山系が走り、カスティーリャを南北に二分する。北側の旧カスティーリャ(カスティーリャ・ラ・ビエハ)は、標高700~800メートルの高位メセタ上にあり、ドゥエロ(ドーロ)川の上流域にあたる。アビラ、セゴビア、ソリア、ログローニョ、ブルゴス、サンタンデル、パレンシア、バリャドリードの8県からなり、面積6万6094平方キロメートル、人口215万3785(1970)であった。南側の新カスティーリャ(カスティーリャ・ラ・ヌエバ)は、平均高度600メートルの低位メセタ上にある。マドリード、グアダラハラ、トレド、クエンカ、シウダー・レアルの5県からなり、面積7万2364平方キロメートル、人口516万4026(1970)であった。1983年5月には、南はアルバセテ、シウダー・レアル、クエンカ、グアダラハラ、トレドの5県からなるカスティーリャ・ラ・マンチャ(面積7万9226平方キロメートル、人口176万0516、2001)、北はアビラ、ブルゴス、レオン、パレンシア、サラマンカ、セゴビア、ソリア、バリャドリード、サモラの9県からなるカスティーリャ・イ・レオン(面積9万4147平方キロメートル、人口245万6924、2001)の2自治州に再編された。
大陸性気候で、年降水量300~500ミリメートル、夏には3~4か月間の乾燥が続く。気温の年較差、日較差がともに大きい。森林の乱伐も加わって植生が乏しく、ステップ(短草草原)や砂漠に近い所が多い。はげ山と茶褐色土壌の台地が続き、もっともイベリア半島らしい景観を呈する。麦などの粗放的農業や牧羊を主産業とし、一部の灌漑(かんがい)畑では野菜、テンサイ、果物などが栽培されている。人口減少地域で、マドリード首都圏を除けば人口密度は低い。とくに1950年代以降、離農者などが都市に流出し、農村部の過疎化、老齢化が進んでいる。歴史上はスペインの中心。
[田辺 裕・滝沢由美子]
この地方はすでに旧石器時代から狩猟民族が住んでいた形跡がある。住民の多くはケルト・イベリア系であるが、海岸沿いに植民したフェニキア、ギリシア、カルタゴなどの文明を直接受け入れることもなかった。ローマ軍とのヌマンシアの戦い(前133終結)ののち、しだいにローマの強い影響を受けることになる。セゴビアの水道橋のような技術面ばかりか、弁論家クインティリアヌスや皇帝テオドシウスのような知的、政治的な分野に至るまで、ローマ化は完璧(かんぺき)であった。ローマ滅亡後は西ゴート王朝の支配となるが、713年イスラムがカンタブリカ地域を除いて全土を占領する。アストゥリアス王国の東国境のエブロ川上流地域は、中世カスティーリャの中核となった所で、アルフォンソ2世(791―842)のころ、イスラムに対する築城が盛んになり、カスティーリャ(城の意)の名が使われ始めた。エブロ川、アルランサ川、ドゥエロ川の流域は自由民による開拓と防衛線ができ、独自の法と言語をもってレオン王国から離れ始めた。この王国衰退を利用して独立したのが、フェルナン・ゴンサレス伯(970没)の支配地であった。以後、周辺のナバラ、レオンなどの王国と併合・分離を繰り返しながら、強力なカスティーリャ王国に成長していった。
1469年、カスティーリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドが結婚し、スペイン統一の基礎が固められ、1492年イスラム最後の拠点であるグラナダを占領して、レコンキスタ(国土回復戦争)を終結させた。さらに孫のカルロスから5代にわたってハプスブルク王家がスペイン全土を支配した。18世紀以降はブルボン朝の時代となるが、アメリカとの戦いに敗れた1898年、ふたたびスペイン国の中核カスティーリャの理念が問い直され、現在でも中央と地方、中央集権と分離主義の問題が、スペインの政治、経済、社会、文化の重要な論点となっている。
[丹羽光男]
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