日本大百科全書(ニッポニカ) 「アラゴン王国」の意味・わかりやすい解説
アラゴン王国
あらごんおうこく
Reino de Aragón
11世紀初頭から18世紀にかけてのイベリア半島東部の一王国。狭義のアラゴン王国は、今日のウェスカとサラゴサとテルエルの内陸3県に相当するが、広義ではカタルーニャ、バレンシアおよびバレアレス諸島を含むアラゴン連合王国Corona de Aragónをさす。
711年の西ゴート王国の滅亡後、旧勢力の一部が避難したピレネー一帯はやがてカロリング帝国の支配下に入ったが、もとより辺境であるために自主独立は自然の成り行きであった。そして9世紀初頭、中部ピレネーの南側ハーカJacaを中心に土侯アスナール・ガリンドAznar Galindoの支配が成立、アラゴン伯領となった。以後、周辺勢力、とくに西のナバラ王国との関係を強め、922年にはこれと合併した。1035年ナバラ王サンチョ3世の死とともに、アラゴンは独立王国となった。まもなくヨーロッパからの援軍を得てレコンキスタ(国土回復戦争)に着手、1118年にはサラゴサを征服して首都とし、ついでその他の拠点都市の占領によって後世のアラゴンの版図ができあがった。1137年、西のカスティーリャからの圧力に対抗するために、アラゴン王女とバルセロナ伯が結婚、この結果アラゴン・カタルーニャ連合王国が誕生した。13世紀前半、両国はバレンシアとバレアレス諸島をイスラムの支配から奪回して連合に加え、ついで「シチリアの晩鐘」(1282)を機に事態に介入して同島を支配下に収め、以後イタリア進出に乗り出した。15世紀中葉、カトリック両王の結婚を通じてアラゴン連合王国はカスティーリャと連合して近代スペイン成立の一端を担うが、その法制上の独自性は18世紀初頭まで存続した。
[小林一宏]