サラマンカ(読み)さらまんか(英語表記)Salamanca

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サラマンカ」の意味・わかりやすい解説

サラマンカ
さらまんか
Salamanca

スペイン中西部、レオン地方サラマンカ県の県都。ドゥエロ川支流のトルメス川右岸、標高803メートルに位置する。人口15万6368(2001)。周辺の広大なメセタ台地)で栽培される小麦、豆類などの農産物集散地で、商業、農産物加工および化学繊維工業も行われる。13世紀初頭アルフォンソ9世創設のサラマンカ大学の所在地で、当時、大学はオックスフォード、パリ、ボローニャと並ぶ第一級の大学として広く知られ、16世紀には7000人の学生が在学した。大学の設立によって町はヨーロッパ有数の学術、文化の中心地として栄えた。今日では中世の建築物を多く残す歴史的都市で、歴史上の人物の彫像があるアーケードに囲まれた中央広場(1720~30建設)がその中心である。市街の南には、12世紀ロマネスク様式の旧聖堂と16世紀ゴシック様式の新聖堂が相接して建ち、その西方に中世の大学の建物が残る。このほかにもローマ時代の橋や劇場など、歴史的名所、旧跡が多い。旧市街は1988年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

田辺 裕・滝沢由美子]

歴史

古代にリグリア人、ついでケルト人が居住したといわれる。紀元前217年にカルタゴハンニバルがこの町を破壊してローマに迫ったが、第二次ポエニ戦争でローマの属領となり、ルシタニアの一部となった。この時代にサルマンティカSalmanticaとよばれ、セビーリャまでの「銀の道」の経由地として発達した。西ゴート人の支配後、7世紀のトレド宗教会議で司教管区となったが、その後11世紀までイスラム教徒に占領され、12世紀初頭アルフォンソ6世によって奪回された。同世紀後半、ここでレオン王国フェルナンド2世によってコルテス(議会)が招集され、同市には特権が与えられた。13世紀前半のサラマンカ大学創設を経て、16世紀のコムニダーデスの反乱の際には反乱側につき、1812年にはフランス侵入軍と大戦闘が行われた。スペイン内戦中は反乱派の拠点となった。

[深澤安博]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サラマンカ」の意味・わかりやすい解説

サラマンカ
Salamanca

スペイン北西部のカスティリア・レオン自治州サラマンカ県の県都。ドーロ川の支流トルメス川北岸,標高約 800mに位置する。12世紀以降レオン王国の主要都市となり,1218年創立のサラマンカ大学は 16世紀末までヨーロッパ学術発展の中心の一つとなった。今日も学生の町として知られる。メセタの農業地帯の商業中心地で,皮革加工,醸造,製粉などが行なわれる。3階建ての建物をめぐらした美しい大広場(18世紀)を中心に,ロマネスク様式の旧大聖堂(12世紀),新大聖堂(16~18世紀),大学の主要建物(1415~33),貴族の邸宅「貝殻の家」(16世紀),旧イエズス会の神学校(1617~1755),女子ドミニコ会修道院(1524~1610)など,歴史的建造物が数多い。1988年世界遺産の文化遺産に登録。人口 15万9754(2006推計)。

サラマンカ
Salamanca

メキシコ中部,グアナフアト州南部の都市。メキシコ市の北西約 260kmにあり,レルマ川にのぞむ。標高約 1720m。メキシコ高原南西部を占めるバヒオと呼ばれる肥沃な農業地帯の中心都市で,小麦,トウモロコシ,豆類,果実などを集散し,市内には製粉,繊維,なめし皮,陶器,化学などの工場があるほか,石油精製工場も立地する。人口 20万 6275 (1990推計) 。

サラマンカ
Salamanca, Daniel

[生]1869
[没]1935
ボリビアの政治家。大統領 (在任 1931~34) 。 1931年チャコ地方の領有権をめぐって対立していたパラグアイと外交関係を断ち,32年宣戦した。しかし,ボリビア軍の大敗,財政難などのため,34年政権を失った。

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