トレド(読み)とれど(英語表記)Alejandro Toledo Manrique

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トレド」の意味・わかりやすい解説

トレド(スペイン)
とれど
Toledo

スペイン中央部、カスティーリャ・ラ・マンチャ地方トレド県の県都。人口6万8382(2001)。タホ川右岸の標高529メートルに位置し、東・西・南の三方を曲流するタホ川が取り巻いている。マドリードが首都になる以前のスペイン政治・文化の一中心地で、首座司教座所在地でもあり、歴史的建造物が多い古都。1986年に「古都トレド」として世界遺産の文化遺産に登録されている(世界文化遺産)。市街の北半は、一部がイスラム時代の城壁に囲まれ、旧市街は迷路のような狭い道路と袋小路が多く、パティオ(中庭)と飾り鋲(びょう)のついたドアの家々が並び、イスラム支配時代の影響が色濃く残る。建造物にはゴシック様式トレド大聖堂(13~15世紀造営)、アルカサル(王城。13~16世紀)、この町で活動した画家エル・グレコの記念館、モスクを転用したエル・クリスト・デ・ラ・ルス教会などがある。またタホ川にはローマ時代のアルカンタラ橋、13世紀のサン・マルティン橋が架かっている。市内の建物の外観を変えるような改修は禁止されている。産業としてはイスラム時代からの刀剣製造や織物業が有名である。

[田辺 裕・滝沢由美子]

歴史

都市としての起源は有史以前にさかのぼる。ローマ時代にはトレトゥムToletumとよばれ、イベリア中央部の数少ない都市としてかなり栄えたが、にわかにその重要性が高まるのは560年に西ゴート王国の首都が置かれてからであった。イスラム時代に入ると、トレドは東のサラゴサ、西のメリダと並んでキリスト教スペインに対するアル・アンダルス(イスラム教スペイン)の国境防衛拠点となる一方、コルドバの中央政府に執拗(しつよう)な反抗を繰り返した。後ウマイヤ朝崩壊後は一時独立王国をなしたが、1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世の前に無血開城した。

 西ゴート王国時代にイベリア全土の首都であったトレドの歴史的権威は中世を通じて生き続け、特定の首都をもたなかったカスティーリャ宮廷は、しばしばここを滞在地とした。16世紀に入ってからもカルロス1世はアルカサルを再建するなどトレドを重視したが、1561年にフェリペ2世がマドリード遷都を決めてからは、人口や経済活動の面での発展はやんだ。しかし、文化・宗教面での重要性には大きな変化はなく、今日なおトレド大司教はスペインの首座司教であり、スペイン社会全体に大きな影響力をもっている。

[小林一宏]



トレド(Alejandro Toledo Manrique)
とれど
Alejandro Toledo Manrique
(1946― )

ペルーの政治家。同国北部アンカシュ県出身で、先住民(インディオ)の血を引く。農家の生まれ。8歳から靴みがきをして家計を助け、奨学金を得てアメリカに留学。1976年、スタンフォード大学で経済学博士号を取得した。以後、米州開発銀行顧問、世界銀行ラテンアメリカ地域人的資源問題担当エコノミストなどを歴任。1994年(平成6)、早稲田大学に客員研究員として半年間留学した。

 1995年、ペルー大統領選に初挑戦したが現職のフジモリ大統領に惨敗。1999年、野党「ペルー・ポシブレ(可能なペルー)」を創設し、党首に就任した。2000年4月の大統領選にふたたび挑み、フジモリ大統領との決選投票に進んだが、投開票での不正を予期してボイコットした。2001年4月、フジモリ大統領罷免(ひめん)に伴う大統領選に出馬し、6月の決選投票で当選を果たした。しかし、公約の貧困・雇用対策が果たせず、支持率は一桁(ひとけた)台に低落。2006年7月退任。なお、エリアン夫人はフランス生まれのベルギー人で、1996年12月に発生したペルーの日本大使公邸占拠・人質事件(ペルー事件)で人質となった経験がある。

[金子 亨]


トレド(アメリカ合衆国)
とれど
Toledo

アメリカ合衆国、オハイオ州北西部の都市。ミシガン州境に近いエリー湖南西端に位置する。人口31万3619(2000)。五大湖地域の商工業の中心都市として知られる。天然の良港は五大湖の主要な積出し港で、石炭、石油、鉄鉱石をはじめ多種工業製品や農産物が集まり、つねに活気がある。また、交通の要衝ともなっている。工業の面では「ガラスの町」とうたわれるほどガラス工業が盛んで、車の窓用破砕防止ガラスから薬品用の瓶、ファイバーグラスに至るまで多種多様なガラス製品が生産される。ジープを中心とした自動車部品、機械、エレベーター、医薬品などの製造も盛んで、製油業はシカゴ以西では上位にランクされる。1833年に2村の合併によって誕生した同市は、落ち着いた教育・文化の都市でもあり、トレド大学(1872創立)など多くの由緒ある大学や文化施設をもち、市民の間では文化、スポーツ活動も盛んに行われている。なかでもトレド美術館は世界最大のガラス古美術品の収集館として有名であり、市立トレド動物園も全米にその名を知られる。

[作野和世]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トレド」の意味・わかりやすい解説

トレド
Toledo

スペイン中部のカスティリア・ラマンチャ自治州中部,トレド県の県都。マドリードの南南西約 70km,タホ川の曲流部に三方を囲まれ,右岸に位置し,スペイン文化の特質を最もよく備えた都市といわれる。前2世紀にローマ帝国の重要な植民都市トレツムとなり,8~11世紀にベルベル人に支配されたが,1085年アルフォンソ6世が奪回,その後はカスティリア王国の政治,文化の中心として発展した。1560年フェリペ2世のマドリード遷都によって,政治的中心としての役割を喪失。古来剣の産地として知られ,今日でも軍需品の製造やムデハール様式の伝統を受け継ぐ金属加工が盛ん。ほかにクリスマス用の砂糖菓子製造で知られる。ローマ時代の橋や城,中世のイスラムのモスク,ムデハール様式のユダヤ会堂,城(→アルカサル),キリスト教聖堂などの歴史的建築物が残存する旧市街は,1986年世界遺産の文化遺産に登録された。特にイスラム文化の影響を反映しているスペイン・ゴシック様式の大聖堂(1226着工)は最もスペイン的と評価される。博物館にはこの地にゆかりの深いエル・グレコをはじめ,フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス,アンソニー・ファン・ダイクなどの絵が収められ,エル・グレコの住家は博物館として保存されている。人口 7万7601(2006推計)。

トレド
Toledo, Alejandro

[生]1946.3.28. カバナ
ペルーの政治家,経済学者。大統領(在任 2001~06)。フルネーム Alejandro Celestino Toledo Manrique。選挙で選ばれたペルー初の先住民系の大統領。支持者には「エル・チョロ」(インディオの意)の愛称で親しまれた。ケチュア族の貧農の息子として生まれ,北部沿岸のチンボテで靴磨きをして少年時代を過ごした。奨学金を得てアメリカ合衆国に留学し,1970年にサンフランシスコ大学を卒業。スタンフォード大学で 1971年に人的資源経済学,1972年に経済学の修士号を取得後,1976~78年と 1989年に国際連合および 1979~81年には世界銀行で国際エコノミストを務める。1981年に帰国,アルフォンソ・グラドス労働大臣の社会政策顧問に就任した。1993年スタンフォード大学で人的資源経済学の博士号を取得後,ハーバード大学国際開発研究所の客員研究員となる。1998年,リマのペルー経営大学院 ESANで国際問題学部長に就任。1995年の大統領選挙に中道派ペルー・ポシブレ党から初めて立候補,得票率はわずか 3%にとどまり,アルベルト・フジモリに敗北を喫した。2001年の大統領選挙では 6月の決選投票で勝利,同 2001年7月,大統領に就任した。就任演説で,観光業振興を通じた雇用創出,汚職や麻薬密輸,人権侵害の撲滅を訴え「全ペルー国民および全人種の大統領となる」ことを約束した。在任中にペルー経済は成長しインフレーションはほぼ解消したが,失業率改善はわずかにとどまった。

トレド
Toledo

アメリカ合衆国,オハイオ州北西部,エリー湖の西岸に近い工業都市。 18~19世紀に開拓され,エリー湖水運の要衝として発達。 1825年にエリー運河が開通し,オハイオ運河網建設が開始されると物資流通の大中心地となった。 37年市制。ガラス工業が有名で,造船,製油,自動車部品製造などの工業も盛ん。港は内陸港としては規模が大きく,移入は穀物,パルプ,紙,鉄鉱石,石材など,移出は石炭,石油製品,ガラス,自動車,工具,造船などである。トレド大学 (1872創立) ,美術館などがある。人口 28万7208(2010)。

トレド
Toledo

フィリピン,ビサヤ諸島中部,セブ島西岸の町。フィリピン最大の銅鉱山があり,露天掘りされている。近くに炭田もある。トウモロコシ,コプラなどを集散する港町でもある。人口 12万 (1990推計) 。

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