スペイン中北部、カスティーリャ・イ・レオン地方バリャドリード県の県都。人口31万6580(2001)。ドゥエロ川と支流ピスエルガ川との合流点に近いピスエルガ川左岸の標高692メートルに位置する。交通の要路にあたり、古くからこの地方の行政、文化、経済の中心都市。周囲には灌漑(かんがい)畑が広がり、農産物の集散地ともなっている。1860年に鉄道が敷設されて以後、織物工業、ついで鉄道、機械、鋳物、精糖などの工業が立地し、スペイン内戦(1936~39)以後はアルミニウム、化学肥料工業、1950年からは外国資本による自動車工業が順次立地、現在は爆薬、化学繊維の近代的工場もみられる。それに伴い人口は急増し、工業地区が鉄道の南西に分布し、新住宅地区はピスエルガ川の右岸に拡大した。1346年創立のバリャドリード大学、1585年ごろ建設の大聖堂、イサベル様式のファサード(正面)をもつサン・パブロ教会(15世紀)、美術館もあるコレヒオ・デ・サン・グレゴリオ教会(1480~96)など、旧市街には歴史的建造物が多い。
[田辺 裕・滝沢由美子]
古代ローマが征服したときにはケルト・イベリア人が居住していた。その後、5世紀に西ゴート人、8世紀にイスラム教徒の侵入を受け、レコンキスタ(国土回復戦争)の時期の11世紀にレオン王国の前哨(ぜんしょう)地点として都市が形成された。14世紀にはすでに大学が創設され、15世紀にはここでカスティーリャ王女イサベルとアラゴン皇太子フェルナンドとの結婚式が行われ、コムニダーデスの乱(1520~21)では反乱都市側の重要な地点となった。フェリペ2世はここで生まれ、彼の治世には大火災を経験したもののカスティーリャの工業・商業中心地として栄え、その子フェリペ3世の時代には短期間首都とされた。19世紀初頭のフランス軍侵入では由緒ある建物の破壊と殺戮(さつりく)が行われ、スペイン内戦では初期に反乱派に占領され、その重要な出撃地とされた。コロンブスの葬儀はここで行われ、現在コロンブス博物館があり、また『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスの居住を記念して「セルバンテスの家」が残されている。
[深澤安博]
スペイン北西部,旧カスティリャ地方の同名県の県都。人口32万1001(2005)。エスケバ川とピスエルガ川の合流点に位置し,都市名はイスラムのアミールの居住地を示すバラド・ワリードBalad Walīdに由来する。レオン王国出身者によって再征服,再植民された。13世紀には王宮が造られ,15世紀,16世紀前半は〈事実上〉カスティリャ王国の首都となり,王国議会(コルテス)もしばしば開かれた。1559年王宮はバリャドリードを離れ,91年には大火により市街地の高台部分が崩壊してしまった。フェリペ2世の命によって再建されたが,ハプスブルク家の都市計画の特徴は現在失われてしまっている。1601年再び王国の首都となったが,王宮は06年最終的にこの都市を離れた。イサベル様式のファサードのあるサン・パブロ,コレヒオ・デ・サン・グレゴリオなどの教会があり,後者にはA.ベルゲーテらの彩色木彫の美術館がある。フランコ体制下で工業都市へと移り変わった。
執筆者:フアン・ソペーニャ
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