日本大百科全書(ニッポニカ) 「アストゥリアス王国」の意味・わかりやすい解説
アストゥリアス王国
あすとぅりあすおうこく
Reino de Asturias
8世紀初めから10世紀初めにかけて、イベリア半島北西部にあった王国。その名は同地域の名称として現在も残る。711年、イベリアの西ゴート王国はイスラム教徒の侵攻によって崩壊した。旧勢力の一部は半島北辺の山岳部に逃れ、ここで先住民と融合、やがて各地に反イスラムを標榜(ひょうぼう)するキリスト教徒社会を形成した。これの先駆例がアストゥリアス王国で、通常西ゴート貴族ペラージョが国王に選ばれた718年を成立年とする。アストゥリアス王国は、当初、人口、経済、軍事、文化のいずれにおいてもまったくの弱小国であった。しかし、アル・アンダルス(イスラム教スペイン)の内紛と油断に乗じて比較的速やかに領土を拡大し、体制を強化すると同時に当時、国の存立に不可欠な独自の教会組織の確立に成功した。その王権は早くから西ゴート王権の正統な後継者を自任し、自分たちの反イスラム闘争を西ゴート王国復興を目ざす戦いとした。10世紀初頭、人口の増加と国力の充実を背景に首都を山間部のオビエドから平野部のレオンに移し、以後レオン王国として発展を続けた。ちなみに、スペイン皇太子の称号はpríncipe de Asturiasというが、これはイギリス皇太子のprince of Walesに倣って1388年に設けられた。
[小林一宏]