アメリカのジャズ・ギター奏者。テキサス州ダラスでトランペット奏者の父親とピアニストの母親の間に生まれる。兄弟も楽器を演奏する音楽一家で、5歳のときオクラホマ・シティに移住。はじめは父親の影響もあってトランペットを吹いていたが、12歳のときにギター、ベースを演奏するようになる。15歳になると地元のクラブでギターを弾き、このころテナー・サックス奏者レスター・ヤングの影響を受ける。1934年にプロ・ミュージシャンとしてデビューしたが、そのときはベース奏者としてであった。35年にギブソン社からエレクトリック・ギターが発売され、時をおかずしてクリスチャンもエレクトリック・ギターを使用する。
38年、ピアニストのアル・トレントAl Trent(1905―59)のセクステットに参加し独創的なスタイルを創出、中西部の傑出したギタリストとして注目される。その演奏を聴いた、評論家でレコーディング・プロデューサーでもあるジョン・ハモンドJohn Hammond(1910―87)の仲介によって、39年に「キング・オブ・スウィング」と呼ばれたクラリネット奏者ベニー・グッドマンのセクステットに、破格の高給で採用される。
40年、マンハッタンのハーレム地区に開店したジャズ・クラブ「ミントンズ・プレイハウス」では、ミュージシャン目当ての客を集めるために、ジャズマンに無料で食事を提供するサービスを行った。そこでは他のクラブでの演奏が終わったミュージシャンたちが、仕事を離れ自由に技を競った。これを「アフター・アワーズ・ジャム・セッション」というが、そのセッションから、後にジャズの革命と呼ばれたビ・バップが起こる。クリスチャンはこの深夜のジャム・セッションに参加し、スウィングからビ・バップへとジャズが大きく変化していく動きのただ中に参入した。その模様は、41年に録音された『ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン』で知ることができるが、クリスチャンのプレイはモダン・ジャズ・ギター奏法の始まりともいうべき極めて斬新なものだった。しかしこのころから麻薬に浸り、また過度の飲酒癖も加わって健康を害し、風邪がもとで42年に亡くなる。
クリスチャンはジャズ史上もっとも早い時期にエレクトリック・ギターを使用し、ジャズにおけるギターの位置づけを変えた。彼がジャズ・シーンに登場した30年代はビッグ・バンド・ジャズの全盛期で、そのなかに占めるギターの役割は低かった。音量も小さく、同時に複数の弦を奏し、コードとリズムを表現するにとどまるギターは脇役であり、ソロ楽器とは見なされていなかった。クリスチャンは電気増幅装置の力も借り、力強いシングル・トーンでトランペットやサックスのような(「ホーンライク」な)表現を行った。これによってギターもまたジャズにおける主要な楽器と見なされるようになる。彼が出入りした「ミントンズ・プレイハウス」では、トランペット奏者のディジー・ガレスピー、ドラム奏者のケニー・クラークKenny Clarke (1914―85)など、後のビ・バップ運動の重要人物が実験的な試みを行っており、クリスチャンは彼らとともにジャズの改革に寄与した。
[後藤雅洋]
アメリカの黒人ジャズ・ギター奏者。ジャズの初期以来,リズム・セクションの目だたぬ一員にすぎなかったギターが,彼の登場によって吹奏楽器と肩を並べるソロ楽器となった。1939年評論家J.ハモンドの推薦でベニー・グッドマン・コンボに加わり,当時珍しかったアンプ付きの電気ギターを用い,サックスのようにアドリブした。彼の新鮮なハーモニー感覚はグッドマン・コンボのレパートリーにも大きな変化をもたらした。41年退団。モダン・ジャズ・ギター奏者のすべてから開祖と仰がれている。代表レコードに《ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン》がある。
執筆者:油井 正一
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