デジタル大辞泉 「ヤング」の意味・読み・例文・類語
ヤング(young)
[類語]青年・若者・
翻訳|young
アメリカの作曲家。アイダホ州ベルン生まれ。1953~1955年ロサンゼルス市立大学、1956~1957年ロサンゼルス州立大学、1958~1960年カリフォルニア大学大学院で作曲などを学ぶ。またロサンゼルス市立大学のクラスメートであったエリック・ドルフィーとクラリネットの演奏を競ったりした。このころビリー・ヒギンズBilly Higgins(1936―2001、ドラム)、デニス・バディミールDennis Budimir(1938― 、ギター)などとジャズ・バンドを組み、ドン・チェリーとも共演した。
1955~1956年シェーンベルクの弟子であるレオナード・ステインLeonard Stein(1916―2004)に対位法、作曲を師事し、1959年にはダルムシュタット国際現代音楽講習会でカールハインツ・シュトックハウゼンに学ぶ。このとき、ジョン・ケージの音楽と思想に初めて触れる。大学院生のときにウェーベルンや雅楽の影響を受けた作品『弦楽三重奏』(1958)を作曲。1959年に書かれた『ビジョン』は、13分間という時間の枠を設定し、その間に11の音が鳴らされるようになっており、音を出す間隔ときっかけは、乱数表あるいは電話帳を用いて決定された。その後ヤングはことばの指示による作品をつくるようになり、シリーズ「コンポジションズ」(1960~1961)は、コンセプチュアル・アートやフルクサスに影響を与えた。また1960年ニューヨークのオノ・ヨーコのスタジオで、一柳慧(いちやなぎとし)、テリー・ライリーTerry Riley(1935― )らが出演したパフォーマンス・シリーズを監督した。
1962年グループ「シアター・オブ・エターナル・ミュージック」(永久音楽劇場)を創設。厳格に決められたガイドラインのなかでミュージシャンが電子音のドローン(持続低音)で即興演奏をする『亀、その夢と旅』や『ザ・ウェル・チューンド・ピアノ』(ともに1964)といった大作を生み出す。ヤングは、このグループでソプラノ・サックスと歌を担当し、メンバーにはライリー、ジョン・ハッセルJon Hassell(1937―2021)、リー・コニッツ、デビッド・ローゼンブームDavid Rosenboom(1947― )らがいた。グループの創設がきっかけとなって、ヤングと妻でビジュアル・アーティストのマリアン・ザジラMarian Zazeela(1940―2024)による「ドリーム・ハウス」(夢の家)プロジェクトが生まれた。これはザジラによる光のインスタレーション環境のもとでヤングらが演奏を行うコラボレーション・プロジェクトで、1960年代から各地で1週間から数年にわたって常設され、とくに1979年から6年間続けられたニューヨーク、ハリソン通り6番地の「ドリーム・ハウス」は評判の高いものであった。
『ザ・ウェル・チューンド・ピアノ』は世界中で演奏されているが、1987年グラマビジョンから5枚組でリリースされた同作では、完全に調律されたベーゼンドルファー(オーストリア製ピアノ)を使った1981年のライブ演奏が収められている。この作品のピアノは純正調で調律され、それぞれの鍵盤は、最低音の10オクターブ下のEフラットの倍音にそれぞれ対応している。そして、この倍音に基づく調律特有の音響特性によって、ときどきピアノ以外の楽器に似た音色が出現し、まるでホルンやゴングのような響きが立ち上る。また、『ザ・ウェル・チューンド・ピアノ』のそれぞれのセクションはヤングの数学的な能力を発揮してつくられており、数学者の関心をよんだものもある。
1987年ニューヨークのディア財団が作品の回顧展を行う。その後フランス政府から、ミレニアムを祝うエキシビションに招かれ、アビニョンのサン・ジョゼ教会で4か月間「ドリーム・ハウス」を実施した。
ヤングの作品はアンビエント・ミュージックやパンク・ロックの先駆とみなされ、ベルベット・アンダーグラウンドの創立メンバーであるジョン・ケイルJohn Cale(1942― )などが「永久音楽劇場」で演奏していた。また、北インドの歌手パンディッド・プラン・ナートPandit Pran Nath(1918―1996)に20年以上にわたって学び、ナートのコンサートをニューヨークでしばしば行い、アルバムもプロデュースした。
[小沼純一]
『La Monte Young, Jackson Mac Low eds.An Anthology(1963, Heiner Friedrich Editions, New York)』
カナダのシンガー・ソングライター、ギタリスト。トロント生まれ。1960年代から活躍していたベテランだが、1990年代、オルタナティブ・ロックの出現で再評価された。バッファロー・スプリングフィールド、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングといったウェスト・コースト・ロックの歴史のなかでの最も重要なグループをともに結成するスティーブン・スティルスStephen Stills(1945― )とハイスクール時代に出会っているが、アメリカ人であるスティルスのビザの関係でそのときはともに活動することはできなかった。
1960年代なかばに、リッチー・フューレイRichie Furay(1944― 、後にポコを結成)とスティルスがロサンゼルスでバッファロー・スプリングフィールドを結成、ヤングもこのグループに参加する。このグループはバーズの推進したフォーク・ロックをさらに進化させ、ブルーグラス(ギター、ウッド・ベース、フラット・マンドリン、バンジョー、フィドルなどのアンサンブルにハイ・トーンのボーカルがのる音楽)、カントリー・アンド・ウェスタン、ソウル・ミュージックといったさまざまなアメリカン・ミュージックをロックン・ロールと混交させることに成功し、多くの模倣者を生む。また、2作目のアルバム『アゲイン』(1967)は名盤と名高い。
その後、ヤングはシンガー・ソングライター、個性的なギタリストとして頭角を現す。バッファロー時代に共同作業をしたアレンジャー、ジャック・ニッチェJack Nitzsche(1937―2000)のプロデュースのもと1969年『ニール・ヤング』でソロ・アーティストとしてデビュー。同年、彼のバック・バンドを務めるクレイジー・ホースを率い『ニール・ヤング・ウィズ・クレイジー・ホース』をリリースする。このアルバムでは叙情的なナンバーと、たががゆるんだように延々と続くガレージ・サウンド(1960年代後半にアメリカのティーンエイジャーにより演奏された音楽。ガレージを練習場所にしたことが名前の由来)風の轟音という、後にヤングの音楽の二つの側面がすでに見られる。
1970年にはスティルスと合流し、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング名義で『デジャ・ヴ』をリリース。アルバム収録曲の「ティーチ・ユア・チルドレン」は大ヒットし、ヤングの名声は揺るぎないものになった。1970年代初頭は、『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』(1970)、『ハーヴェスト』(1972)というカントリー・ロック風の生楽器主体のアルバムを発表。後者からはヒット曲「孤独の旅路」も生まれる。その後はテクノからロカビリーにまで挑戦し、1979年、パンク・ムーブメントに呼応した『ラスト・ネバー・スリープス』、ライブ盤『ライブ・ラスト』を立て続けにリリースする。1980年代はゲフィン・レーベルに移籍し、さまざまなスタイルに挑戦したものの音楽的な成果は見られなかったが、『フリーダム』(1989)、『傷だらけの栄光』(1990)で復活。1990年代は『ニール・ヤング・ウィズ・クレイジー・ホース』で聞かせたガレージ・サウンドを展開し、オルタナティブ・ロックのゴッド・ファーザーとしてロック・シーンに君臨。1992年には『ハーヴェスト・ムーン』のようなヒット・アルバムもリリースした。
[中山義雄]
イギリスの医学者、物理学者、考古学者。目の解剖学的・生理学的研究をはじめ、光の干渉実験と光の波動説の提唱、弾性力学におけるヤング率の導出、さらに古代エジプト文字の解読と多岐にわたる分野で研究を行った。
1773年6月16日サマーセット県ミルバートンでクェーカー教徒の両親のもとに生まれた。14歳でラテン語、ギリシア語、イタリア語、フランス語、ヘブライ語、アラビア語などに通じ、17歳でニュートンの『プリンキピア』や『光学』、リンネの『植物学』、ラボアジエの『化学綱要』などを独学した。ハンターの主催する解剖学教室に1年間通ったのち、1793年ロンドンのセント・バーソロミュー病院の学生になった。ここで視力調節のための筋肉組織の存在を解剖によって確かめて処女論文を書き上げ、21歳で王立協会のフェローに選出された。1795年エジンバラ、1796年ゲッティンゲン、1797年から2年間ケンブリッジで医学を学び、1800年ロンドンで医業を開業。その一方で1801年から1803年王立研究所教授、1804年から死ぬまで王立協会書記など、多くの学会、委員会の要職についた。
目の解剖学的・生理学的研究から物理学、とくに光学研究に進み、1800年、光は「発光体によってエーテルに伝達された衝撃」であるとして光の波動説を展開した。ニュートンのようにあらゆる色の「光の粒子」に対応する網膜を想定することは不可能だとし、網膜は赤・青・緑の三原色に対応する神経要素からなることを明らかにした。また音の伝播(でんぱ)の類推から、光である波とそれを励起する媒質の運動を区別して「干渉の原理」を導き、薄膜やニュートン・リング(ニュートン環)などさまざまな色づき現象での色の周期性は光の波長の違いによって統一的に説明できるとして、1802年「物理光学に関する実験と計算」で実験的にこれを確かめた。ここで光を音波のような縦波と考えるなど限界はあったが、フレネルに先だって、当時明らかにされつつあった光と物質との相互作用を統一的に説明するうえで、「粒子説」に対して「波動説」の優位性を明らかにしたものであった。
有名なヤングの干渉実験は、1801年から1803年にかけて行った王立研究所での講演をまとめた『自然哲学講義』(1807)に含まれている。またアーチ固有の構造に関する講演では、応力とゆがみの比は一定であるとしてヤング率を導いた。晩年はロゼッタ石の解読に専念し、死の直前古代エジプト文字の辞書編集を完成させた。
[高橋智子]
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)テキサス・レンジャーズの二塁手、遊撃手としてプレー。走攻守の三拍子が揃い、勝負強さも兼ね備えるチームの牽引(けんいん)車である。
10月19日、カリフォルニア州コビーナで生まれる。ビショップ・エーマット高から1997年、ドラフト5巡目指名でトロント・ブルージェイズに入団。同年、マイナー・リーグのA級で二塁手、遊撃手として74試合に出場、打率3割8厘を記録するなど、非凡さをみせる。1998年は同じA級ではあったがレベルの高いチームに配属されるとパワーも発揮し、ホームラン16本を放つ。1999年はさらに一段レベルの高いA級チームで打率3割、盗塁30を記録。2000年にはAA級に昇格し、成長ぶりをみせたが、同年7月、複数交換トレードでレンジャーズに移る。移籍後もAA級チームに所属して打率3割1分9厘を記録、同年9月に二塁手としてメジャーに昇格。2001年は開幕からベテラン選手と併用されたが、堅実な守備と確かな打撃技術をみせて、シーズンなかばにはレギュラーに定着。2002年は156試合に出場して、打率2割6分2厘と着実に成長。2003年は自己初の1シーズン200本安打以上を記録するとともに、初の打率3割をマーク。ホームランも自己最多の14本を打つ。2004年は2月に遊撃手のアレックス・ロドリゲスがニューヨーク・ヤンキースにトレードされたため、遊撃手に転向。しかし、守備位置の変更に打撃が左右されることはなく、球団史上初の2年連続200本安打と、2年連続の3割を記録する。オールスター・ゲームにも初出場。同年4月には4年1000万ドルで契約を更新する。2005年は自己最多を更新するホームラン24本とともに史上22人目の3年連続200本安打をマーク、打率3割3分1厘で初めての首位打者にも輝く。また、シーズン221安打は前年より6本上回り、自らの球団記録を更新した。2006年も堅実な打撃で4年連続200本安打を記録。また二塁打52本は球団最多記録となった。さらに3年連続出場したオールスター・ゲームでは決勝三塁打を放ち、最優秀選手(MVP)に選ばれた。シアトル・マリナーズのイチローが「最大のライバル」と位置づけるリーグ屈指の安打製造機である。
[出村義和]
2007年は156試合に出場し、ホームランは9本と1桁(けた)に終わったが、201安打を放って打率3割1分5厘。連続シーズン200本安打、打率3割を5年に伸ばした。
2007年までの通算成績は、出場試合1061、安打1305、打率3割2厘、本塁打103、打点570。獲得したおもなタイトルは、首位打者1回、最多安打1回。
[編集部]
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。通称サイ・ヤングCy Young。大リーグ(メジャー・リーグ)のクリーブランド・スパイダーズ、セントルイス・パーフェクトズ(1900年よりセントルイス・カージナルス)、ボストン・ソマーセッツ(1903年よりボストン・ピルグリムス、07年よりボストン・レッドソックス)、クリーブランド・ナップス(現クリーブランド・インディアンス)、ボストン・ラトラーズ(現アトランタ・ブレーブス)で投手としてプレー。歴代最多の通算511勝を誇る大投手である。1907年にはレッドソックスで監督も務めた。
3月29日、オハイオ州ギルモアで生まれる。1890年、ナショナル・リーグのクリーブランド・スパイダーズに入団。1年目こそ9勝だったが、1891年からは毎年20勝以上をマーク。1892年は最多勝と最優秀防御率、95年は最多勝、96年には奪三振王となった。1897年に初のノーヒットノーランを達成。1899年にはパーフェクトズに移籍した。翌年チームはカージナルスと改称されたが、19勝19敗にとどまり、連続20勝は9年で止まった。1901年にアメリカン・リーグが創設され、ソマーセッツの誕生と同時に移籍、4年連続20勝と復活した。1901年は投手三冠王、02年と03年は最多勝を獲得した。1904年には2リーグ制成立以降の大リーグにおける初の完全試合を達成。ピルグリムスを経てレッドソックスへと球団名が変わり、兼任監督として6試合だけ采配(さいはい)も振るった1907年からは、ふたたび2年連続20勝をマークし、08年にはふたたびノーヒットノーランを達成した。1909年からナップスへ加入した。この年は19勝したが、徐々に衰えが隠せなくなり、11年のシーズン途中でラトラーズへ移ったのを最後に引退した。なお両リーグの最優秀投手に贈られるサイ・ヤング賞は彼の名にちなむ。
選手としての22年間の通算成績は、登板試合906、投球回7356、511勝316敗、防御率2.63、奪三振2803、完投749、完封76。獲得したおもなタイトルは、最多勝利5回、最優秀防御率2回、最多奪三振2回。1937年に野球殿堂入り。
[山下 健]
アメリカの遺伝学者、時間生物学者。フロリダ州マイアミ生まれ。1971年テキサス大学オースティン校卒業、1975年に同大学で動物学の博士号を取得。その後、博士研究員としてスタンフォード大学で研究し、1978年からロックフェラー大学助教授、1984年同大学準教授、1988年から同大学教授。
ヤングは、研究当初からショウジョウバエの時計遺伝子「period(ピリオド)」の変異などついての研究に取り組んだ。periodが変異したショウジョウバエに正常なperiodを入れると、破壊された「サーカディアンリズム」(概日(がいじつ)リズム。生物が約24時間周期で変動する生理現象)が回復することを確認。1984年、ブランダイス大学のジェフリー・ホール、マイケル・ロスバッシュのチームとは別に、独立して時計遺伝子「period」のクローニング(遺伝子同定)に成功。さらにこの遺伝子からつくられるタンパク質「PER」が夜になると細胞質に大量につくられ、日中になると核内に取り込まれて減少する現象のメカニズム解明に取り組んだ。1994年、これに深くかかわる第二の時間遺伝子「timeless(タイムレス)」を発見。timelessによってつくられるタンパク質「TIM」が、PERにくっつき、二つのタンパク質の複合体が日中、細胞質から核内に入り込んでいることを突き止めた。この複合体が、periodの活動を抑えるが、1998年、この現象に関係する第三の時間遺伝子「doubletime(ダブルタイム)」も発見した。doubletimeからつくられるタンパク質「DBT」は、PERの蓄積を抑える。これら三つの遺伝子が相互に関与することで、24時間のサーカディアンリズムを正確に刻むという分子メカニズムの解明は、その後の時間生物学の発展に大きく貢献した。
2009年グルーバー賞、2012年にガードナー国際賞、2013年ショウ賞。2017年に「サーカディアンリズムを制御する分子メカニズムの発見」の業績で、ジェフリー・ホール、マイケル・ロスバッシュらとノーベル医学生理学賞を共同受賞した。
[玉村 治 2018年2月16日]
アメリカの社会学者、社会心理学者。シカゴ大学、スタンフォード大学で心理学、社会学を学び、1921年にDoctor of Philosophyを取得。その後ウィスコンシン大学を経て1947年にはノースウェスタン大学の社会学部長となった。なお1945年にはアメリカ社会学会の会長に就任した。トマス、パーク、バージェスおよびミードらの影響を受けて、パーソナリティーの形成過程に及ぼす社会・文化的作用を重視し、人間性の基本的部分は家族などの第一次集団によって形成されるものの、近代社会においては企業、組合、学校などのより複雑な第二次集団が重要な役割を演じる点を強調した。また優れた現実的感覚によって現代の大衆社会がもつところの社会心理的特徴を鋭く指摘し、現代人の不適応行動とその問題性についての考察は先駆的業績として評価された。『社会心理学』(1930)など著書多数。
[柴野昌山]
『米林富男訳『社会心理学』(1949・日光書院)』
イギリスの農学者。イングランドのサフォークに生まれる。自らは農場の経営に失敗したが、各地を旅行して旅行記をまとめるとともに農業改良を進め、1793年には農務局長となり、イングランド各県の農業事情の調査報告書作成の中心となった。ヤングの農業改良論の基礎となったのは、輪作農法を取り入れて生産性を急速に高めつつあったノーフォーク県の農法であり、彼の一生はこの農法の普及に捧(ささ)げられたといってもよい。囲い込み(エンクロージヤー)とそれに基づく大農経営の熱心な主張者でもあった。著書に各地の旅行記のほか、『農業経済』Rural Economy(1770)、『農民暦』The Farmer's Calendar(1771)、『政治算術』Political Arithmetic(1774)などがある。
[浜林正夫]
アメリカの宗教家。末日聖徒キリスト教会(モルモン教会)の2代目指導者。1823年にメソジストとなるが、その後モルモン書を集中的に研究し、32年に信者となる。44年天使モロニーの啓示を受けてモルモン教を創唱したスミスの死後、教派の分裂を避け、安住の地を求めて西部移住を実行。現在のユタ州ソルト・レーク・シティに「地上の天国」を建設することに成功した。科学的町づくり、自己充足の経済生活、農業に基づく文化の促進などを具体化し、その卓越した組織力はスミス以上といわれている。1857年モルモン教への脅威から政府がユタへ軍隊を派遣。これに対し、最初は挑戦したが、翌年政治力によって政府と和解し、モルモン教を守った。一夫多妻、その他の罪で捕らえられたこともあったが、影響力は死ぬまで続いた。
[野村文子]
アメリカの公民権運動家。公民権運動組織である全国都市同盟National Urban Leagueの会長を1961年から死去するまで務めた。1947年ミネソタ大学で修士号を取得したのち社会運動に傾倒。ミネソタ州セント・ポール、ネブラスカ州オマハの各都市同盟で活動。1961年全国都市同盟会長。白人の政財界指導者と黒人急進派との間の仲介役的存在として活躍。都市同盟の数を60から98に増大させ、主要都市で、年間5000万ドルに上る社会改革・救済の計画を実現させた。ケネディ、ジョンソン両政権の人種問題顧問を務めた。「自国マーシャル計画」を唱え、民主党政権の貧困対策に影響を与えた。
[河内信幸]
アメリカの劇作家、劇評家。ミシシッピ大学卒業後、母校で教鞭(きょうべん)をとっていたが、のちジャーナリストとなり、有力な雑誌や新聞に、鋭い洞察力と豊かな教養に裏づけられた劇評を発表、「コスモポリタン派」とよばれ、1920年代を代表する劇評家となる。50年代にはチェーホフの優れた翻訳を出し、その演出も成功を収めた。南部文化の強力な擁護者でもある。作品では評論『演劇』(1927)、劇評集『不滅の影』(1948)がよく知られている。
[有賀文康]
アメリカのジャズ・テナーサックス奏者。ミシシッピ州生まれ。いくつかの楽団を経て1936年カウント・ベイシー楽団に参加して名をあげ、40年末に独立。コールマン・ホーキンズ流のテナー奏者しかいなかった時代に、ソフトな音色とフレージング、そしてビブラートのほとんどない独自のスタイルを創造、モダン・テナー奏者に多大の影響を及ぼした。
[青木 啓]
イギリスの詩人。オックスフォード大学出身。一寒村のつつましい教区牧師として一生を終える。悲劇や風刺詩も手がけたが、『嘆き――生と死と永生についての夜想詩』(1742~45)が広く知られる。夜と死と憂愁の宗教的瞑想(めいそう)詩で、この詩風が一流派を生んだ。また全ヨーロッパに迎えられ、ロマン主義運動の先駆的作品となった。
[早乙女忠]
イギリスの自然科学者。光学,機械学の分野で業績を残した。幼少のころより語学や数学の才に秀で,10代でラテン語,ギリシア語,フランス語,イタリア語を始めアラビア語,ヘブライ語などをマスター,またニュートンの《プリンキピア》や《光学》なども読破した。1792-99年ロンドン,エジンバラ,ゲッティンゲンで医学を学び,1796年ゲッティンゲン大学で生理光学の研究により学位を取得。この間1794年ローヤル・ソサエティ会員。医師としては成功せず,1801年ランフォードの勧めによりローヤル・インスティチューションの自然哲学教授となる。03年に同職を辞し,翌年から生涯ローヤル・ソサエティの外務秘書官を務め,16年から5年間は王立度量衡委員会の秘書官にもなっている。
科学上の業績は振動に関するものが多い。1800年の論文《音と光に関する実験と探究の概要》において,L.オイラーの説を発展させ,光振動の媒質としてエーテルを考えた。これにより当時の通説であったニュートンの光の粒子説がもつ困難を解決し,02年には干渉の原理を示すことができた。当初ヤングは光を音のアナロジーから縦波と考えていたが,17年には偏光を説明するために横波もつけ加え,光の波動論の基礎を作った。ただし,数学的表現が不十分であったことなどから,A.J.フレネルやA.L.コーシーの光の弾性波動論が登場するまでは,ほとんど評価されなかった。一方,機械学においては,材料の強度などを測定し,今日の弾性率概念の基礎を示した。ヤングの代表的著作はローヤル・インスティチューションの講演をもとにまとめた《自然哲学および機械技術についての連続講義》(1807)であり,この中で〈energy〉ということばが初めて用いられた。また13年以降はエジプトの象形文字の解読も行った。
執筆者:河村 豊
アメリカのモルモン教会の第2代会長。1829年ニューヨーク州モンロー郡に住みつき,モルモン教会初代会長J.スミスの家が近かったため,彼の教えや《モルモン経》に触れて32年に入信した。ヤングは移住・植民の才能があり,33年以降,教会の信者グループをニューヨーク州からオハイオ州,ミズーリ州,イリノイ州などに迫害を避けて移住させ,その間,イギリスへ伝道(1839-41)にも出かけている。44年にスミスが暴徒によって暗殺されると実質上の指導者となり,47年当時メキシコ領であったグレート・ソルト・レーク地帯(現,ユタ州)に大移動を敢行して成功,正式に会長に就任した。彼はこの地帯の肥沃地だけでなく,広大な荒野や砂漠を集団による灌漑で開拓し,各地方,各国に伝道師を派遣して入信と移住を説かせた。50年にユタ準州が成立するとその初代総督になったが,宗教上の理由から58年合衆国政府によって総督を辞めさせられた。しかしその後も,教会の指導者として権力を保持し続けた。ヤングは宗教,社会,経済の最高指導者として権力を振るい,成功したが,個人的には独裁者,20名以上の妻と56人の子どもをもった点で非難された。
執筆者:渡辺 真治
イギリスの農業経済学者,農業著述家。サフォーク州の地主の家に生まれ,青年期に所領の経営に失敗,文筆に天職を見いだす。彼は封建的農業に反対し,資本家的な大規模集約的経営の利点を強調する。アイルランド,イタリア,フランスおよび全イングランドの農村視察旅行に基づいたそのおびただしい著作のなかで,各地の先進地農業の経済的条件や耕作方法,技術進歩について観察,とくにノーフォーク地方の四圃輪栽式農法を推賞した。《政治算術》(1774-79)の農政理論は彼がW.ペティの流れをくむ統計学者であることを示し,《農業経済論》(1770)では〈適正比例〉の大規模集約農場の優越性を説く農業経営理論を展開する。また《農業者暦》《農業者書簡》(ともに1771),《農業者手引き》(1770)や,《フランス旅行》(1792)など各種の旅行記などでは,具体的な経営計画論が述べられている。(小)ピットに認められ,1793年農務局長になった。
執筆者:相川 哲夫
黒人ジャズ・テナー・サックス奏者。愛称Prez(s)。1936年,カンザス・シティからニューヨークに出たカウント・ベーシー楽団のスター・ソリストとして一部から注目されたが,彼の革新的なスタイルはまだ一般が理解するに至らず,自分のバンドを率いたり,他のバンドに加わったりした。44-45年入隊して黒人嫌いの上官からいじめ抜かれ,除隊後も以前ほど活動しなかった。彼自身はモダン・ジャズを好まなかったが,モダン期に入って彼のスタイルに影響を受けたプレーヤーが続々現れた。その頃彼自身は健康を害し,不調のうちにこの世を去る。革新的なそのスタイルとは,オフ・ビートを持続し,切れるべきところでつながり,つながるべきところで切れるフレージングと,ビブラートのない軽い音色にある。代表レコードは,《レスター・ヤング・メモリアル》(エピック),《黄金時代のカウント・ベイシー》(MCA)。
執筆者:油井 正一
イギリスの工業化学者。グラスゴーに生まれ,1831年アンダーソン大学化学教授T.グレアムの助手となり,ボルタ電池の改良に従事,37年グレアムとともにロンドン大学に移り,師の実験を手伝った。48-51年ダービーシャー州アルフレトンで原油から灯油と潤滑油を製造したが,油井が枯渇したため石炭の乾留からパラフィン(石蠟)を作る方法を研究,50-51年その特許を得た。この技術をもとに60年代までにスコットランドの各地に工場を創設,ナフサ,潤滑油,燃料用パラフィン油,固形パラフィンを石炭やシェールから大規模に生産し,パラフィン工業の創始者となった。
執筆者:古川 安
イギリスの登山家。男爵の子として生まれ,弟は政治家となったEdward Hilton Young(1879-1960)。ケンブリッジを出てイートン校やロンドン大学で教職についた。1905年ワイスホルン南西壁,06年ブライトホルンのヤング稜,テッシュホルン南西壁,11年グレポン東壁,グランド・ジョラス西稜などの初登攀を行い,近代登山史上に一時期を画し,第1次大戦で片足を切断したがその後も登山を続けた。文筆にもすぐれ,紀行や詩集のほか登山技術書として有名な《マウンテン・クラフト》(1920)がある。
執筆者:徳久 球雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1741~1820
イギリスの農業経済学者。イギリス,フランスなど各地を旅行して農業事情を視察。1784年から雑誌『農業年報』を刊行したほか,多くの著書,論文を発表して,イギリス風の資本主義的大農経営の優位を主張し,農業革命の推進に貢献した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…タルJ.Tull(1674‐1740)は条播(じようはん)・中耕・除草,作物の栄養・生理,土壌改良などや農法について観察,考察したが,当時より,休閑三圃農法(コムギ,オオムギ,休閑)から改良三圃農法(コムギ,オオムギ,クローバー)へ,さらに四圃式輪栽農法(コムギ,飼料カブ,オオムギ,クローバー)として,地力増進のみならず,労働力の節約をもたらした著名なノーフォーク式農法への動きがあった。このような当時のイギリス資本主義農業の動きを理論づけ,ノーフォーク式農法を積極的に推奨したのは,タルにつぐA.ヤング(1741‐1820)であった。 やや遅れて,先進地イギリスのノーフォーク式農法をとりいれたドイツでは,A.D.テーア(1752‐1828)が,《合理的農業の原理》を著し,〈農業を対象とする学問分野は,生産技術と経営の2分野があるが,終局的には多収をあげて最大利潤を得ることを目的とする〉と述べた。…
…やがて18世紀になると,今度は,耕地における根菜飼料(カブ)の栽培がイギリスで開始され,農村社会の変革をともない農業生産力が急速に発達する(農業革命)。これにともないA.ヤングをはじめ多くの農学者が農業革命のための農書を刊行する。近代農学の成立であり,このような動向はやがてフランス,ドイツ,アメリカにおいても進展した。…
…スミスが発見したとされるアメリカ大陸の古代住民に神から与えられた《モルモン経》を旧新約聖書とならぶ経典として重要視し,シオン(神の国)がアメリカ大陸に樹立されることを信じる。ニューヨーク州で始まったが迫害を受けてオハイオ,ミズーリ,イリノイなどを経て,47年ついに安住地ユタに入り,ソルト・レーク・シティを中心に,殺されたスミスの後継者B.ヤングの指導のもとに独特な共同体を建設した。とくにその多妻結婚制度で有名であるが,90年に連邦政府の勧めによりこの制度は廃止された。…
…なお,83年N.L.S.カルノーは“活力”の保存という概念をすでに暗示しているが,彼の業績は19世紀半ばまで一般には知られなかった。 エネルギーという言葉は,ギリシア語energeia(接頭語en=内部に+ergon=仕事)に由来し,〈物体内部に蓄えられた仕事をする能力〉という意味で,T.ヤングがそれまでの“活力”に代わるものとして用いた(1807)が,1850年代初期にW.J.M.ランキンやW.トムソン(ケルビン)らがこの語を意図的に再使用し始めるまでは一般には使われなかった(英語ではforce,ドイツ語ではKraftなどがそれに当てられていた)。“仕事”を現在の意味(力×移動距離)に定義し,活力の代りに運動エネルギーT=1/2mv2を用いて,その変化高⊿Tと物体に働く力のする仕事Wの関係を⊿T=Wの形に与えたのは,G.G.コリオリである(1829)。…
…また回折も散乱波の干渉によって起こる現象である。
[光の干渉]
19世紀の初頭,T.ヤングは,この波の干渉とまったく同様な現象が光の場合にも存在することを発見した。ヤングの行った実験(ヤングの干渉実験)は,次のようなものである(図)。…
…ニュートンとフック,ホイヘンスのあいだには激しい論争がくりひろげられたが,ニュートンの粒子説は,すでにイギリスにおける科学者を代表するようになっていた彼の権威にあずかって,18世紀を支配することになる。 この光の粒子説に疑問を投げかけたのはT.ヤングであり,彼は1800年に,〈ニュートンリング〉や薄膜による光の干渉は波動説によってのみ説明できることを示した。この波動説はフレネルらによって整備され,複屈折や偏光なども光を横波とすることによって説明できることがわかった。…
… 波動説が復活を遂げるのは19世紀に入ってからである。まず,19世紀の早々,T.ヤングは二つのスリットを用いた実験によって,光が干渉することを示し,光が波動であることを主張した。ヤングの考えはすぐには受け入れられなかったものの,やがてA.J.フレネルはヤングの干渉実験をホイヘンスの原理と結びつけて,回折は波面上のすべての点から出る波動の干渉によって生ずるものとし,この考えを推し進めることによって,波動説の基礎を確立した(1818)。…
※「ヤング」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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