目次 自然,住民 歴史 政治 防衛 外交 経済,産業 社会 教育 労働 社会保障 文化 文学,演劇 音楽 基本情報 正式名称 =スウェーデン王国Konungariket Sverige 面積 =45万0295km2 人口 (2010)=938万人 首都 =ストックホルムStockholm(日本との時差=-8時間) 主要言語 =スウェーデン語 通貨 =スウェーデン・クローナSwedish Krona
スカンジナビア半島の東半を占め,北部の15%は北極圏に入る。東はボスニア湾,南東はバルト海,南西は北海に面し,北東はフィンランド,西はノルウェーと接する国。バルト海にはエーランド島,ゴトランド島があり,湖が多くその面積は国土の8.5%を占める。
自然,住民 国土の土台は25億~10億年前の岩石からなり,スウェーデン鋼の原料である北部の鉄鉱床は,16億年前の火山作用の産物である。ノルウェーとの国境山地は,約4億年前のカレドニア造山作用で形成された。その後,この地域は陸地となり侵食を受けつづけ準平原になり,第四紀の氷河作用で現在の地形がつくられた。今から200万年くらい前に始まった氷河期にスウェーデンは完全に氷床に覆われた。氷は1.3万年前からとけはじめ,ストックホルム付近では約1万年前にとけた。氷の消失によりスカンジナビア半島は150~250m隆起し,東・南部の広い地域が陸化した。多数の湖は,基盤岩の弱い部分が氷に選択的に削られてできた。
この国は地形的に,(1)西部の高山,その東に広がる台地と低地帯,(2)ストックホルムとイェーテボリを結ぶ幅120~150kmの中央低地帯,(3)南部丘陵地域,(4)バルト海の二つの島に四分される。西部山地の北極圏には,最高峰ケブネカイセ山 (2111m)や,サレクトヨッコSarektjåkkå山(2089m)があり,これらの山地から東流する川は山麓でモレーン にせき止められ細長い湖をつくる。今から1万~7000年前には現在とちがって中央低地帯が海峡となり,バルト海と北海をつないでいた。
北欧は西岸を洗うメキシコ湾流の運ぶ暖気団のおかげで一般に気候が比較的温暖であり,高緯度にもかかわらず森林が広がり農業もある程度可能であるが,スウェーデンは南北に長い国なので,北と南の差は著しい。北(北緯68°30′の地点)では5月26日から7月18日まで白夜で日が沈まず,冬は50日以上日が昇らない。北では冬8ヵ月積雪があるが,南では約1ヵ月である。ボスニア湾は1~4月の間凍結するが,バルト海や北海は凍らない。植生は緯度と高度で異なり,北からツンドラ永久凍土帯,高山帯,カバ林,針葉樹林,広葉樹混合林の順で分布する。北極圏のツンドラには湿原が広がり,夏はカの大群が発生する。高山帯は苔と地衣が主で,低くなると小型のカバとヤナギが混じり,白緑色のトナカイ苔が露岩を覆う。針葉樹林は国土の57%を占め,北ではカバ,ナナカマド,ドロヤナギが混じり,南ではオーク,カエデ,ニレが混じる。ツンドラや高原地域では,トナカイの大群がサーメ人(いわゆるラップ人)によって放牧されており,オオカミ,クマ,ヤマネコはひじょうに減少して保護されている。中・南部ではヘラジカや小型のシカが狩猟動物で,アナグマ,ホッキョクギツネ,ユキウサギ,カワウソなども毛皮用に捕獲される。鳥は種類,数ともに多く,湿原のツル類,海岸のカモメ,アジサシ,カモ類などが特に多い。湖や川にはサケ,マス,ヤマメの類が豊富で,南部の湖には大型のザリガニが多い。北海では,タラ,ニシン,エビ,サバ,カレイがおもな漁業資源である。
住民は,国民の98%がスウェーデン人で,このほか,フィン人,サーメ人などが居住する。宗教は,16世紀末に国王がルター派新教をとり入れて以来,同派が国教とされている。 執筆者:太田 昌秀
歴史 歴史的時代区分は古代(-1060ころ),中世(1060ころ-1521),近代(1521-)に大別される。前1万年ころと推定される最古の住居趾が南部地方で発見されたが,人類が活発に生活を始めたのは前7500年ころとされる。新石器時代(前3000ころ-前1500ころ)に農耕文化が伝わり,西南ヨーロッパからは巨石文化が伝播した。青銅器時代(前1500ころ-前500ころ)に入るとイングランドやヨーロッパ大陸との交渉が一段と密接になった。その後,北方に膨張するローマ帝国との交易が盛んとなり,タキトゥスの《ゲルマニア》で文献史料上初めてスウェーデン人の祖と考えられるスウィオネス族Sviones(スベア族)が言及された。それ以降文献史料は沈黙を保ったが,6世紀中ごろにヨルダネスの《ゴート人の起源と偉業》,プロコピウスの《戦記》の中で,スベア族Svearをはじめスカンジナビア半島の諸部族について記された。5世紀末からウプサラ地方を中心に勢力をふるうスベア族は東西ヨーロッパと交易をもち,現在のラトビア付近で植民活動を続け,後の時代に拡大する交易路の礎を築いた。9世紀から11世紀中ごろまでバイキング 時代と呼ばれ,この時代の初めにメーラル湖上のビルカは東西交易の中継地として大いに栄えた。封建制度の促進,商業路の拡大などヨーロッパ史上多大な影響を及ぼしたバイキング活動は,おもにイングランド,フランスに向かう西ルートと,ロシア,ビザンティン帝国,アラブ世界に遠征する東ルートに大別されるが,スウェーデンからは,この両ルートに従事して略奪,建国,商業活動が行われた。
中世初期,キリスト教が徐々に定着しはじめる中で部族統合が進み,スベア族と南部に勢力をもつイェート族Götarとの対決となったが,しだいに統一の気運が高まり,有力な王たちが出現して騎士制度を大陸から導入するなど身分制度も固まった。中世前半は王と貴族との争いが絶えなかったが,14世紀後半に王に反対する貴族がデンマーク・ノルウェーの摂政マルグレーテに支援を求めたことから,摂政は内乱に介入し,スウェーデン王を駆逐した。1397年,摂政は姉の孫にあたるエリクを北欧三国の共通の王に即位させることに成功し,カルマル同盟 が成立し,スウェーデンは実質上デンマークの支配下におかれた。1434年に苛斂誅求を行うデンマークの代官に反抗してエンイェルブレクト は一揆を起こし,翌年,貴族,聖職者,市民,農民代表を招集して国民会議を開いた。これは他のヨーロッパに類をみない四身分制議会で,同国の国会の祖型となり,19世紀後半まで存続した。その後デンマーク支配から脱却するためたびたび解放戦争を行ったが,決定的打撃を与えることはできなかった。
16世紀,貴族のグスタブ・エリックソンがリューベック市およびダーラナ地方の農民の支援を得て,ついに1523年祖国を解放した。彼はグスタブ1世 バーサ王として即位し,新教(ルター派)の採用,軍隊の整備,経済復興,国王の世襲制の確立など精力的に国力の回復に努めて同国の基盤を築き,バーサ王朝を開いた。同王の子息は次々と王位を継承し,国内を整備するかたわら東方外交を積極的に推進した。特にヨハン3世(在位1568-92)とポーランド王女との成婚以来,東方関係がいっそう強化されてロシアと争うまでになり,1595年にはテウシナTäyssinaの講和でエストニアとナルバの割譲を得て,バルト帝国 建設への第一歩を踏みだした。1611年,グスタブ2世 アドルフ(在位1611-32)が17歳で親政を執り,名宰相オクセンシェーナ と一致協力して近代的行政機関の基礎をつくり,経済,社会,教育等々の改革を断行し,また貴族政治を確立した。外交面で国王は三十年戦争に介入し,新教徒の英雄として活躍し,バルト帝国を確固たるものにした。国王の戦死後,一人娘のクリスティーナ (在位1632-54)が王位を継いだが(44年までは後見人がおかれた),学芸を愛好して政治に関心を示さず,財政危機に陥らせ,みずから退位したためバーサ朝は絶えた。その後の王は財政再建を試みて諸改革を行ったが,貴族との対立を深めた。1697年,カール12世 (在位1697-1718)が17歳で親政を開始したが,国際的緊張が高まる中で,ロシア,ポーランド,デンマークはスウェーデンの拡大を封じるため同盟を結んだ。これに対抗して王はオランダ,イギリスと同盟して,1700年にデンマークを攻撃して屈服させ,続いてロシアに進攻し,ピョートル大帝軍をナルバで破った(北方戦争 開幕)が,09年のポルタバPoltava(現,ソ連邦ウクライナ)の戦で大敗を喫した。その後スウェーデン支配下のバルト海沿岸諸国も反旗を翻し,18年,国王の戦死も重なって,ついに同国のバルト海支配も終りを告げた。翌年,王の妹ウルリカ・エレオノーラUlrika Eleonora(在位1719-20)が即位したが,専制政治が廃止され,実権が国会に移ったことから貴族による二大政党のハット党Hattarna(三角帽子の意)とメッサ党Mössarna(ナイトキャップ の意)が出現し,国王に権力がないため〈自由の時代〉(1719-72)と呼ばれたが,外交政策に一貫性を欠き,官僚制度が定着し,また,両党に外国勢力が結びつき,国連を危くする事態に陥った。その反面,平和時が続いたため学芸の進展が著しく,特に自然科学の分野では,植物学者のリンネ,摂氏の創始者セルシウス,化学者のシェーレなどが輩出した。1772年,グスタブ3世(在位1771-92)は熾烈化する二大政党の勢力争いに終止符を打つため,無血革命を成功させ,実権は国会から国王に移った。王は啓蒙君主として経済復興,社会改革,特に学芸振興に功績を残したが,貴族との溝が深まり,92年に暗殺された。
19世紀初頭,ヨーロッパはナポレオン戦争で大きく揺れ動き,同国も戦乱に巻きこまれたが,グスタブ4世(在位1792-1809)は優柔不断な態度に終始したためクーデタが起こり,王は幽閉され,後に廃位された。一方ナポレオンの意を受けたロシアに攻撃され,フレデリクスハムンの和議 で13世紀来領有してきたフィンランドを失った(1809)。同年,国王と国会で権力を二分することを定めた新政体書が公布され,また翌年に国会法,出版の自由法,王位継承法などの基本法が刷新されて新生スウェーデンが誕生し,その骨子は1970年代まで効力を発揮した。新国王のカール13世に世継ぎがいなかったことから国会はナポレオンの元帥ベルナドット(後のカール14世 )を皇太子に選出してフィンランド奪回の夢を託したが,国民の期待に反してロシアと同盟を結び,フランスと対決し,同国と同盟関係にあったデンマークから1814年にノルウェーを割譲させた(キール条約 )。その後,親露的外交が推進されたが,19世紀中ごろの複雑な国際関係の中でオスカル1世(在位1844-59)は西欧寄りの外交に転換させ,その伝統は今日にまで至っている。このころから近代工業化が徐々に進み,社会の変革がみられ,1866年には旧来の四身分制議会が廃止されて二院制が採用された。ドイツの社会民主主義思想の導入により,89年には社会民主労働党(以下社民党)が結成され,98年にはスウェーデン労働総同盟(LO)が誕生した。
1905年にノルウェーが分離独立し,国内問題のみに専念することになった。08年,長年議論されてきた男子普通選挙法が国会を通過し,18年には婦人参政権も成立して民主主義がしだいに浸透した。第1次世界大戦が勃発するといち早く中立を宣言し,戦時中は輸出入が極度に落ちこみ,国民は耐乏生活を強いられたが,国土は蹂躙(じゆうりん)されることはなかった。その後防衛論争が活発となり,国防軍も急速に整備された。20年に失業問題解決のためグスタブ5世(在位1907-50)は初めて社民党に政権を担当させ,都市労働者の支持を得て同党はしだいに勢力を伸展させた。20年代末から30年代にかけての世界的不況の波は同国にも押し寄せて失業者が増大し,32年の下院選挙で同党は大躍進を遂げて政権の座を獲得,以降76年まで単独,連立で同国を指導してきた。第2次大戦開始後,中立を宣言し,社民党を中心に挙国一致内閣が結成されて難局を切り抜けた。戦時中,隣国への公式援助をいっさい拒否する一方,親ナチス政策をとるフィンランド,ノルウェーに移動する延べ200万人以上のドイツ兵の同国内通過を許すなど,きわめて柔軟な中立政策を貫いた。戦後,社民党政権下で経済復興や福祉政策が強力に推進され,60年代には世界に冠たる福祉国家に成長した。しかし高負担に対する国民の不満が高まり,また経済不況から76年には保守連合政権が誕生した。以降,経済的回復をみないまま,82年に再度社民党が与党に返り咲いた。95年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟した。
政治 三権分立主義の確立した立憲君主国で,憲法にあたる基本法grundlagは政体法,国会法,王位継承法,出版の自由法の4法からなる。現国王は1973年に即位したカール16世グスタブで国家元首であるが政治権力のない象徴的存在である。1979年の王位継承法の改正で男女を問わず長子が王位継承権を有する。政治決定権は旧基本法下では国王が掌握していたが,1974年の改正で内閣が有する。内閣は単独または連立の政党により組閣される。
国会は1866年以来二院制を施行してきたが,1971年に一院制に移行し,国会議員の任期は3年で,議員数は349名である。直接選挙で満18歳より選挙権を有し,比例代表制を採る。1970年代初頭から社民党,共産党からなる社会主義ブロックと残る3党が結集して非社会主義ブロックを結成し,この二大ブロックの対決が明確化して同国の新しい政治動向として注目された。76年には1933年来政権を担当してきた社民党が野党に転じたが82年に与党に返り咲いた。その後,両ブロックはイデオロギー的な論争には発展しなかったが,対決が続き,91年の選挙では非社会主義ブロックが勝利したが,94年度は社会主義ブロックが政権の座に着いた。国会(349議席)の政党勢力は,94年の選挙では以下の通りである。社民党(161),左翼党(22),緑党(18),キリスト教民主社会(15),自由党(26),中央党(27),保守党(80)。左翼党は,〈共産左翼党〉から1990年に改名する。緑党は〈緑の環境党〉の略。自由党は1990年〈国民党〉から〈自由国民党〉に改名。キリスト教民主社会は,96年に〈キリスト教民主〉に改名。97年12月現在,349名のうち154名が女性議員である。
基本法に定められた国民投票はいわゆる直接決定権を有しないが,1922年以来5回実施され,行政府や立法府に大きく影響を及ぼしてきた。禁酒法制定(1922),右側通行導入(1955),付加年金導入(1957)のほか,1980年の原子力発電に関する国民投票で,国民は廃止の方向を選び,政府もこれに影響され,将来の建設中止,廃棄を決定し,エネルギー政策を変換せざるをえなかった。また,94年にはEU加盟に関する国民投票が行われ,この結果を踏まえて加盟することになった(賛成52%,反対47%)。
行政の行過ぎを阻止するためいわゆる護民官的存在のオンブズマン 制度があり,また防衛,外交関係,プライバシーなどある程度の制限つきで情報公開の原則を採っている。おもな地方行政区には23県län,288の自治体kommun,保健・医療・特殊教育などが主要な業務の23の医療・保健区landstingがある。自治体には議会があり,選挙で直接選出され,任期は3年である。3年以上住民登録を有する外国人も選挙権が認められている。
防衛 同国の防衛理念は平和時には非同盟,戦時は中立の立場をとることにある。防衛の骨格は軍事,民間,経済,心理の四つを組み合わせた総力防衛である。軍事防衛に必要な国防軍は陸海空軍からなり,動員兵力は国防市民軍を含めて85万人で,三軍を統帥する総軍司令官は内閣にのみ責任を負う。国土は6軍管区に分かれている。18~47歳の男子は兵役義務があり,基礎軍事教練期間は320日から741日である。民間防衛の目的は市民の生命を守ることにあり,民間防衛会議がこれを統轄し,現在では地下などのシェルターが整備され,550万人が収容できるといわれている。また,民間防衛は平時と戦時に分けられ,前者の目的は避難所の建設,防具の製造,警報装置の設置・実験,疎開場所の設定計画,市民が自衛できるための教育などがあり,16歳から65歳までの男女は民間防衛義務を負う。後者のそれは生命を守り,救うことであり,また,商品の生産やサービス部門が正常に活動し,そのほかの社会機能が働くように,さらに,敵に対して抵抗する意志を高揚させておくことである。経済防衛とは戦時に産業,商業活動を守り,また平和時から燃料,食料その他の原料を地下などに貯蔵する目的があり,現在相当量の原油が備蓄されている。経済防衛国民会議がこれを統轄する。心理防衛は,心理防衛国民会議がその任務を掌握し,戦時に敵側の宣伝を封じ,国民の抵抗志気高揚をはかり,迅速かつ正確な情報を流すのがねらいである。この総力防衛は国民防衛会議が統率する。国防費は国民総生産の2.5%(1993),国家予算の7.1%を占める(1994-95年度)。兵器の大半は国産でまかなわれ,85%の自給率を誇っている。
外交 19世紀中ごろのクリミア戦争で大国のエゴイズムの苦汁を味わったオスカル1世は親露的外交から西欧寄りの政策に転移させたが,その後非同盟,中立を堅持してきた。1946年に国際連合に加盟してから各党とも国連憲章に賛意を示し,外交問題が選挙争点になることは少なく,国連を通して特に軍備縮小に積極的に取り組んでいる。経済的には,経済協力開発機構,ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加盟し,また欧州共同市場と自由貿易協定を締結している。その他欧州会議,北欧会議の成員でもある。発展途上国への援助も盛んで,国民所得の0.96%を供出している(1994)。
経済,産業 19世紀中ごろから徐々に近代工業化が進み,農業国から工業国に転じたのは19世紀末ころである。国土の52%がおもにモミ,マツ,シラカバからなる森林地帯のため林産業は重要な産業の一つで製紙,パルプ,ボード,製材が盛んである。水力,鉄鉱石などの天然資源が豊富で,また世界で有数のウラン産出国でもある。耕地面積は国土の10%で,気候条件が寒冷な北部と温暖な南部と異なるため,農業の大半は南部に集中し,麦類,ジャガイモ,テンサイがおもに栽培され,養豚,酪農も行われている。漁業はおもにニシン,タラ,ヒラメを漁獲するが,漁業人口はわずか6000人程度である(1981)。第1次産業(農・林・漁業)人口は全就業人口の約3.1%だが,同国の食料自給率は80%を誇っている(1995)。
地下資源で最も重要な鉄鉱石は中部地方と北部のラップランドが主産地で,特に後者の推定埋蔵量は30億tといわれ,同国の鉄鉱石総輸出量の95%がこの地方で採掘されたものである(1981)。鉄鉱石の年産は1087万t(1994)。エネルギー源の石油,石炭はほとんど産出しないため輸入に依存しており,電力供給率は,稼働中の原子力発電12基で47%,水力が46%,火力7%である。製鉄・非鉄,自動車そのほかの輸送機などの製造業,電機,造船などの金属・機械工業は,伝統的な製紙・パルプ業と同様に同国の重要産業で,全就業労働人口の約9.2%を占めている(1995)。
1994年度の総輸出入の主要国別の割合は以下の通りである。ヨーロッパ共同体(EC)=輸出53.2%(輸入55.1%),アメリカ=8%(8.5%),欧州自由貿易連合(EFTA)=16.4%(5.6%),日本=2.7%(4.8%),ロシア=0.73%(1.4%)。95年1月からオーストリア,フィンランドとともに,スウェーデンはEUに加盟したので,EFTA(1997年,スイス,アイスランド,リヒテンシュタイン,ノルウェーの4ヵ国が加盟)は,事実上,機能を発揮できず終焉の場を迎えている。国民総生産の輸出額の占める割合は35%と高い(1995)。
輸入品の主要なものは,食料品,原油,化学製品,皮革,ゴム,紙などの加工製品,自動車・輸送機器などを含む機械類等で,輸出品には医薬品を含む化学製品,毛皮・木材・パルプなどの原料品,鉄鉱石,鉄鋼・鉄鋼製品,貨物車・乗用車,機械類などがある。人口900万人弱であるが,自動車メーカーのボルボ社,サーブ社,電器製造業のエレクトロルックス社,ベアリング製造業のSKF社,通信機器のエリックソン社などの国際企業がある。
スウェーデンは混合経済で,国家・地方公務員は全就労人口の約35%を占めている。福祉国家はおもに市民サービスを主業とする公務員を大量に雇用し,民間の生産部門を圧迫すると考えられるが,スウェーデンは,特に国家公務員の削減に力を注いできている。1985年の42.4万人から,95年には23.3万人と半減近くになっている。それに対して,地方公務員は1980年の112万人から95年の114万人へと微増している。
1995/96年度国家予算は歳入が78億7600万クローネ,歳出が98億5900万クローネで,1990/91年度から一貫して赤字となっている。1994/95年度予算の21.3%は国債の利払いで,財政を大きく圧迫し,1993/94年度に比して,1995/96年度は教育・大学研究費や医療保険費などが削減され,福祉行政にも影響を及ぼしている。歳入で注目すべきは,わずかながらもEUからの財政援助金や追加基金が組み込まれていることである。
社会福祉国家の理想は,失業者を出さないことであるが,1980年代の失業率は比較的2%台と低かったが,90年代からは,5.2%(1992),8.2%(1993),8.0%(1994),7.7%(1995)と上昇した。特に若年層(16歳から24歳)が打撃をうけ,失業率は11.4%(1992),19%(1993),16.7%(1994),15%(1995),また,中高年層にも6.1%(1995)と厳しくなっている。
勤労所得は,全国平均(1994)146.5万クローネで,男子175.2万に対して女性119.2万で,依然として男女賃金格差がみられ,16万クローネ以上の所得者が男性の51.9%,女性は23.8%と,高額になればその差が顕著に現れている。
消費者物価は1980年を100とした場合,96年は256で,15年ほどで約2.5倍ほど上昇している(通貨単位は,1クローネ=100オーレ=約17円,1997年12月現在)。
社会 産業革命の影響が徐々にスウェーデンに浸透しはじめたのが19世紀中ごろであったが,当時,全就業人口の約80%が農業およびその関連産業の従事者で,都市人口も総人口(350万人)の約10%に過ぎなかった。20世紀の初頭(1910)には農民人口は50%を割り,都市生活者も25%に増加した。つまり,約半世紀間に,同国は農業国家から近代工業国家の基礎を築いたといえる。この間に同国は教育,労働,社会福祉等の諸問題に直面し,この時期につくられた制度が現在の基礎となっている。
教育 教育に関してみると,その後いろいろな改革が加えられてきたが,1950年に国会決議によって9年制の義務教育が確立された。義務教育は1997年現在,満6歳から始まり,低学年(1~3学年),中学年(4~6学年),高学年(7~9学年)と一貫教育が行われている。高等学校は総合制高等学校と呼ばれ,人文・社会系列(2年コース,3年コース),経済・商業系列(同),科学・技術系列(2年,3年,4年コース)とに分かれており,卒業後,即社会に実践的に活躍できるしくみで,もちろん大学に備えたカリキュラムも組みこまれている。同国には各種専門単科大学があるが,総合大学はウプサラ,ルンド,ストックホルム,ウーメオ,イェーテボリ,リンシェーピングの6大学があり,その他ストックホルム工科大学,ストックホルム教育大学,スウェーデン農業大学などの単科大学がある。1997年現在,初等教育から大学まですべて公費でまかなわれているので,授業料は無料で教育を享受することができる。また同国の特徴として成人教育が盛んで,特に1912年に創設された労働者教育協会Arbetarnas Bildningsförbund(ABF)は最大の組織で,任意団体であるが国庫補助を受けている。そのほか自治体による成人教育,テレビ,ラジオを利用した放送学校,通信教育も盛んである。
労働 19世紀後半に近代工業化が徐々に進むにつれ,同国では労働運動が盛んになり,1898年スウェーデン労働総同盟(LO )が結成された。この組織に対抗し,1902年には経営者連盟Svenska Arbetsgivare Föreningen(SAF)が結成された。LOは社会民主労働党の指導で作られたため,両者の結びつきは緊密で,いわゆる二人三脚的に発展した。LOはブルーカラーを中心とした同国最大の組合組織(約221万組合員,1995)で,ホワイトカラーを中心にした最大組織には,サラリーマン中央組合(TCO)(130万,同)があり,また教員,医師,技術者および国家公務員の組合として専門職中央組合(SACO/SR)(40万,同)がある。労使協定では,賃金,労働環境,休暇,勤務時間,年金,医療給付等々幅広い交渉が行われている。労使関係の法律で特に同国で特徴のあるのは,25人以上雇用する企業は,2人の労働者代表を経営者会議に参加させるという労働者の経営参加の法規や,一方的な労働者の解雇を禁じた雇用保護法など,労働者が手厚くまもられていることである。
社会保障 スウェーデンは世界的に福祉国家として名声があるが,その基盤は19世紀末から20世紀初頭にかけて形成された。1891年に健康保険法,1913年には年金法が成立したが,充実をみるのは第2次世界大戦後である。スウェーデンの社会保障制度の柱は年金,健康保険を主とした社会保険制度,児童・老人を対象とした社会福祉制度,医療,保健制度がその主たるものである。年金には,国民および同国に居住する外国人に対して一率に支給される国民基礎年金があり,その種類には老齢,障害,寡婦,児童の各年金がある。老齢年金は65歳から給付されるのが原則であるが,それ以前に労働が不可能になった場合には,早期年金を受給できる。また上にみた年金を補充するものとして国民付加年金があり,収入に応じた支給が特徴である。そのほか1976年に創設された部分年金,企業年金などがあり,労働者が老齢あるいは事故で退職後,最低の生活保障をするのが同国の年金制度の特色である。 執筆者:清原 瑞彦
文化 文学,演劇 スウェーデン,ノルウェー,デンマークの3国は,北ゲルマン人を祖とし,共通にバイキング時代を経験し,王室同士が血縁関係にあるため,通常北欧三国としてまとめて扱われることが多いが,その間には相異なる点も少なくない。特に,16世紀にデンマークから独立して以降,戦乱を重ねてきたスウェーデンが18世紀はじめの北方戦争での敗北以降,〈大国〉たろうとする望みを捨て,ナポレオン戦争後はさらに戦争不介入,平和中立の立場を貫いてきたこと,第2に,20世紀初頭以降,社民党の主導のもとに,経済中心の社会改革によって福祉国家の建設が目ざされたこと,このことは,スウェーデンの文化や文学を大きく特徴づけるものとなった。
スウェーデン文学の特徴としてまず挙げられることは,その地方性,郷土性の強さである。スウェーデンは,地理的にみても,〈ヨーロッパの田舎〉に位置し,森林や鉱産資源に恵まれた風土を特徴としていた。19世紀後半以降の急速な工業化と都市への人口集中は,農村の過疎・荒廃をもたらしたが,反面,郷土の文化遺産を保存しようとする運動がおこり,民俗博物館としての〈北方博物館Nordiska Museet〉(1880)や野外博物館〈スカンセンSkansen〉(1891)が創設された。このような強い郷土意識の源をさかのぼれば,古代アイスランドのエッダ ,サガ にあり,テグネール の長編叙事詩《フリティヨフ物語 》はそのことを端的に示す一例といえるし,北欧文学の散文の伝統が長編小説にあるのもここに由来する。その長編小説も日本の読者層にとって,ロシア,フランス,アメリカなどのそれほどにはなじみがないのは,読者の側の好みに左右されるといえばそれまでであるが,作品の底流にあるあまりにも強烈な郷土性が理解や鑑賞の妨げとなっている点もあろう。このような性格をになうスウェーデン文学の作品を国際的な評価の場に立たせるものとしてノーベル文学賞 がある。その受賞作家についてみても,スウェーデン人女性として初の受賞者であるラーゲルレーブ は,翻訳はもとより無声映画によって日本人にも早くから親しいものとなっていたが,その作品は,強い郷土性に支えられたものである。さらにカールフェルト に至っては,スウェーデンの詩人というよりも彼の郷里ダーラナの詩人という方が妥当で,その特殊な地方の香りから離れては彼の詩の鑑賞は成り立たない。
これに対して,スウェーデン文学をヨーロッパ文学の中に位置させようとする作家がいることも当然である。ヘイデンスタム は病弱の身のために療養をかねて長く海外生活を送った後に祖国スウェーデンへ回帰したが,ラーゲルクビスト は早くからパリに遊び,みずから海外の新風に触れてそれを摂取しようとしたのであった。ユーンソン ,マルティンソン は次に述べるプロレタリア文学 を代表する作家,詩人であるが,前者はいち早く郷里の寒村をすてて一個のヨーロッパ人となることを目ざして大陸へ渡り,後者は天涯孤独の身を船員生活にゆだねて世界をまわり,ヨーロッパばかりか南アメリカ,アジア,中国の文化にまで強い関心を示したのであった。
20世紀スウェーデン文学を特色づけるものにプロレタリア文学がある。ただし,この国のプロレタリア文学は,早熟の女流詩人ボイエKarin Boye(1900-41)を別とすると,他の国々のそれのように,イデオロギー先行の革命的性格をもったものではなく,無産階級の出で,独立独学のうちに詩人,作家としての素養を身につけた人々の文学というにとどまる。したがってプロレタリアという呼称から直ちに国際的な性格を思い起こすのは,この国の文学についていう場合妥当ではない。初期プロレタリア文学の代表的詩人アンデルソンDan Andersson(1888-1920)は宗教的境地をこそ求めはしたが,政治嫌いで革命思想とは結びつかない。他方,海外へ移民する貧窮化した農民を描いたムーベリ ,零細農民をテーマに自伝的作品を精力的にものしてきたロー・ヨハンソンIvar Lo-Johansson(1901-90),多方面にその鬼才ぶりを発揮しながら若くしてみずから命を絶ったダーゲルマンStig Dagerman(1923-54),詩壇のチャップリンとの評もある風刺詩人フェリーンNils Ferlin(1898-1961)などもプロレタリア作家の範疇に入れることができる。
またユーンソン,ムーベリ,マルティンソンらのプロレタリア作家やラーゲルクビストは第2次大戦下の全体主義を批判する作品を書いており,中でもユーンソンは最も精力的に実践的な活動をしたといえる。しかし,スウェーデンは最初に述べたように,外交面では戦争不参加,中立を貫き,国内的には革命ではなく改革の積重ねによって階級格差の少ない福祉国家への道を歩んできた国である。作家たちの戦争批判にしても,そのようないわばかなり微温的な政治的風土のうちにあってのそれであることを忘れてはならないし,その底にはヨーロッパ文化の伝統を守り抜こうという願望も強くうかがえる。第2次大戦後,国連が国際政治の舞台となり,スウェーデンも第2代事務総長ハマーショルドの活躍にも見られるように,そこで大きな役割を演ずるようになった。ベトナム戦争中スウェーデン首相パルメは幾度かアメリカ批判の発言をし,プロレタリア作家の一人に数えられるリードマンSara Lidman(1923-2004)のルポルタージュ 《ハノイでの対話》(1966)は多くの読者を得た。このことは変転する国際政治の中にあって,微温的,傍観的と評されてきた従来のスウェーデンの立場とは一味違った印象を与えている。
スウェーデン文学史に登場する作家の中で,世界的に最も知名度の高いのは,いうまでもなくストリンドベリ である。彼は周囲への反逆で一生を終始した。文学はもちろん《令嬢ジュリー 》や《死の舞踏 》などの戯曲や演劇理論を通じてスウェーデン演劇の金字塔を築いたばかりでなく,神秘思想から自然科学まで多面的で振幅の激しい関心を示したストリンドベリが残した足跡は,巨人の名にふさわしいものである。彼が長く故国に容れられなかったのは,あまりにも強烈な彼の自我主張のゆえでもあるが,彼をいやが上にも反逆児,異端者たらしめるに足るほど,当時のスウェーデンの社会的風土が,閉鎖的,微温的であったことも併せて考えなければならぬ点である。
なお,民族と言語を異にするフィンランドにおいて,フィンランド・スウェーデン文学ともいうべき特殊な文化領域が成立している。これは,フィンランドが,19世紀はじめまで長い間スウェーデンの領土であり,そこではスウェーデン語が用いられていたという事情によるものである。初期プロレタリア文学のアンデルソンや,一連の《ムーミン》もので知られる児童文学のヤンソン などの作品は,このなかに入れられるものといえよう。 執筆者:田中 三千夫
音楽 キリスト教布教以前にはスカルド詩 の詩人たちが活躍し,スペルマンspelmanと呼ばれる楽師がヒンメル(チター型の弦楽器),ノーレルール(樺の樹皮で巻かれた長大なホルン),フィオール(フィドル ),ニッケルハルパ (4弦楽器),クラリネット,ロートピーパ(羊飼の笛)等の民俗楽器を演奏し,また農民たちも日常歌と踊りに親しんでいた。
古い民俗音楽と踊りにはゴングロートgånglåtと呼ばれる行進の音楽や3/4拍子のポルスカpolska,バルスvals,カドリリュkadrilj(カドリーユのこと)といった舞曲などが土着のリズムに彩られ現在も聞かれる。一方,芸術音楽では民俗音楽を背景に11世紀以後キリスト教の普及にともなってウプサラ大聖堂を中心にグレゴリオ聖歌とこれにもとづくポリフォニーおよびオルガン奏楽が発達する。グスタブ1世 バーサによる宗教改革後は,礼拝音楽にラテン語とスウェーデン語が併用された。17世紀に入ると,クリスティーナ女王の熱心な芸術家保護の成果もあって宮廷音楽が栄え,ストックホルムに招かれた多くの外国人音楽家や,スウェーデン最大の音楽家の家系であるデューベンDüben家の人たちが活躍する。また宮廷楽長ローマンJohan Helmich Roman(1694-1758)が1731年から一般市民のための公開演奏会〈コンセール・スピリチュエル〉を始める。グスタブ3世(在位1771-92)による宮廷劇場と王立音楽学校の創設は国民楽派の基礎となり,ベルマンCarl Michael Bellman(1740-95),ベルワルドFranz Berwald(1796-1868),ノルマンLudvig Norman(1831-85)等が相次いで活躍。19世紀ロマン主義音楽は,リンドブラードAdolf Fredrik Lindblad(1801-78)等の歌曲を中心に展開された。スウェーデン語は日本語同様に高低アクセントをもち,それだけに詩(および劇)と音楽との結びつきは現代に至るまで特に深い。ステンハンマルWilhelm Stenhammar(1871-1927),ラングストレムAnders Johan Ture Rangström(1884-1947),アルベーンHugo Alfvén(1872-1960)に代表される近代スウェーデン楽派は,同じ世代の自国の詩や絵画の様式から強い刺激を受け,ワーグナーやR.シュトラウスからも多くを学んでいる。ローゼンベリHilding Rosengberg以降,ウィレーンDag Wirén,ニストレムGösta Nyström,ラルッソンLars-Erik Larsson等1900年代生れの世代はロマン主義と決別し,20世紀の新しい傾向を吸収し,さらに1950年代には国際現代音楽協会スウェーデン支部も設立されて音楽家たちの活動は完全に国際的水準に達し,ヨーロッパの主要な音楽思潮の中にある。 執筆者:後藤 暢子