サルル山道(読み)さるるさんどう

日本歴史地名大系 「サルル山道」の解説

サルル山道
さるるさんどう

ホロイツミ場所から北東方のトカチ場所へ向かう道のうち、ヲタベツ(歌別)付近のコロブル(コロフル、コリフル)から歌別うたべつ川沿いに内陸部に入り、観音かんのん岳・豊似とよに岳の中腹を通って猿留さるる川の中流域に出て、同川沿いに下るサルルに至る山道。一七九九年(寛政一一年)に開削され、サルル越・猿留山道・猿留新道などともいった。松浦武四郎の山川地理取調図にみえる当山道の経路は、コリフルから山中に入り、モセウシ(モセウシナイ)、ケレコムニを通ってケトクヘツを過ぎた辺りでショウヤへと向かう道を東に分け、シノマンシトマヘツ、タン子ナイ、ナンフケ、「サツテクサルヽ」、ノホリサルを経てサルルに下るものであった。

この山道が開かれる以前は、当山道と同様ヲタベツ付近から歌別川沿いに内陸部に入り、途中から東方に折れて苫別とまべつ川の上流部付近に出て、同川沿いに百人ひやくにん浜まで下り、そこから海岸沿いに北上、ショウヤを経由してサルルに向かう道や、ヲタベツからさらに海岸部を南東方に進み、アブラコマから襟裳えりも岬方面を経由してサルルに至る道を通行していた。しかし、これら旧道の海岸部は海食崖が発達し、波が打寄せる岩場を伝う危険な道であった。「東蝦夷地道中記」には「コロブニと云所より平山を越る。是わ(春)秋の二節枯草の節斗り通るなり。夏ハはヱリムと南へ(云南へのカ)出崎を浜伝通行、此平山柏木多く半里斗にして、ヲタベツといふ沢水流る」「夫より高き山に登り沢間東に下り、トワヘツと言浜間に出る。夫より浜辺に沼あり、此岸を廻り東の方の砂浜に出る。南ハエリモトと云崎見へ、前踏尚砂浜にて百人浜と唱ふ」とあり、筆者は歌別川沿いに山中に入り、苫別川沿いに下って百人浜に出ている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報