コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ジーコ ジーコ Zico

4件 の用語解説(ジーコの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ジーコ
ジーコ
Zico

[生]1953.3.3. リオデジャネイロ
ブラジルサッカー選手,指導者。本名 Artur Antunes Coimbra。ブラジルの名門クラブフラメンゴエースとして南米王者に輝き,ブラジル代表では 71試合に出場,48得点を上げた。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

ジーコ

ブラジル出身のサッカー選手,監督。本名アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。ジーコ少年時代からの愛称。リオ・デ・ジャネイロ近郊でポルトガル移民の家庭に生まれる。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ジーコ
じーこ
Zico
(1953― )

ブラジルのプロサッカー選手、監督。2002年(平成14)7月から2006年6月まで日本代表監督。本名アルツール・アンツネス・コインブラArtur Antunes Coimbra。3月3日、ブラジルのキンチーノ(リオ・デ・ジャネイロ州)生まれ。ワールドカップに三度出場し、最高成績は1978年アルゼンチン大会の3位だが、本領が発揮されたのは1982年スペイン大会であった。ソクラテスSocrates(1954― )、トニーニョ・セレーゾToninho Cerezo(1955― )、ファルカンRoberto Falcao(1953― )と組んだ「黄金の中盤」の中心となり、華麗なサッカーを披露した。二次リーグイタリアに敗れたが、記録よりも記憶に残るチームであった。1986年メキシコ大会では、準々決勝でプラティニMichel Franois Platini(1955― )が率いるフランスと名勝負を演じながらペナルティー・キック(PK)戦で姿を消した。決定的なラストパスを出し、多くのゴールを決めることから、若いころは「白いペレ」とよばれたが、やがてジーコの名で世界中に知られるようになった。1981年のトヨタカップではフラメンゴ(ブラジル)の主将としてプレーし、イングランドのリバプールを降して優勝した。1991年(平成3)に来日、鹿島アントラーズの発足にあたって大きな役割を果たした。2002年7月、日本代表の監督に就任。2006年に行われたワールドカップドイツ大会に日本を導いたが、本大会ではオーストラリア、クロアチア、ブラジルを相手に2敗1分という結果に終わった。ワールドカップ終了後代表監督を退任、トルコのクラブチーム、フェネルバフチェの監督となるが、2008年に退任した。[西部謙司]

その後の動き

ブニョドコル(ウズベキスタン)、CSKAモスクワ(ロシア)で監督を務めた後、2010年6月にフラメンゴのテクニカル・ディレクターに就任した。[編集部]
『ルイス・アントニオ・高崎著、藤原清美訳『ジーコの挑戦』(1998・エキスプレス) ▽浜田英季監修『ジーコ自伝』(1998・朝日新聞社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

現代外国人名録2012の解説

ジーコ
Zico


国籍
ブラジル

専門
サッカー監督;元・サッカー選手

肩書
サッカー・イラク代表監督 サッカー日本代表監督;鹿島アントラーズテクニカルディレクター

本名
Arthur Antunes〉 アルツール・アンツネス〈Coimbra コインブラ

生年月日
1953/3/3

出生地
ブラジル リオデジャネイロ州キンチーノ

学歴
ファクルデーダ・カステロ・ブランコ体育大学中退

経歴
“ジーコ”の愛称で呼ばれた少年時代から頭角を現し、1966年フラメンゴに入団。’83年イタリアのウディネーゼを経て、’85年フラメンゴに戻る。’87年膝の再手術後1年ぶりに復帰し、チームをコパ・ウニオン(国内カップ戦)優勝に導いた。ブラジル代表としては、’76年2月対ウルグアイ戦でデビュー。’78年、’82年、’86年と3度のW杯に出場。優勝こそできなかったが、’82年のスペイン大会では生涯最高のプレー(5試合中4得点4アシスト)で世界的な名声を確立。’83年世界年間最優秀選手に選ばれる。完璧な技術、得点力に加え、試合を組み立てる頭脳を兼ね備えたプレーヤーとして“白いペレ”の異名を取った。’89年12月一度引退。通算得点は1046試合で729得点、うちブラジル代表ではペレに次ぐ66得点(89試合)をマークした。’90年ブラジルの初代スポーツ大臣に就任するが、’91年辞任して日本リーグ2部の住友金属(現・Jリーグ鹿島アントラーズ)に入り、現役復帰。この年、21得点で得点王に輝く。’93年Jリーグが開幕すると、チームの牽引者として第1ステージ優勝の立役者となった。’94年6月第2ステージ終了後、現役引退。Jリーグでは23試合に出場し、14得点を挙げた。’95年故郷のリオデジャネイロ近郊にジーコ・サッカー・センターを開き、少年を対象にしたサッカースクールを開校。’96年秋鹿島アントラーズのテクニカルディレクター(総監督)に就任。’97年リオデジャネイロFCを創設。’98年W杯フランス大会ではブラジル代表のテクニカルコーディネーターを務めた。W杯日韓共催大会終了後の2002年7月、日本代表監督に就任。2004年2月よりW杯ドイツ大会のアジア予選を指揮。7月キリンカップで初のタイトルを獲得。8月アジア杯優勝。2005年6月W杯ドイツ大会アジア最終予選でB組2位以内を確保し、3大会連続のW杯出場を決める。2006年6月の本大会では1分け2敗で1次リーグ敗退を喫し、大会終了後に退任。日本代表通算72戦37勝16分け19敗(PK戦は引き分け扱い)。同年7月トルコの強豪フェネルバフチェの監督に就任。2007年広域通信・単位制のウィザス高校(本校・茨城県高萩市)の特別顧問に。同年就任1年目でフェネルバフチェを2シーズンぶり17度目の優勝に導いた。2008年はクラブ史上初めて欧州チャンピオンズリーグで決勝に進出し、ベスト8入りを果たす。同年6月シーズン終了後退任し、9月ウズベキスタン1部リーグのクルブチ監督と、ウズベキスタンサッカー協会テクニカルアドバイザーに。2009年1月ロシアリーグ・CSKAモスクワの監督となり、国内カップ戦など二冠を達成したが、同年8月リーグ戦の不振から解任される。同年9月〜2010年1月ギリシャのオリンピアコス監督。6月フラメンゴのテクニカルディレクター。2011年8月サッカー・イラク代表監督に就任。

受賞
内閣総理大臣顕彰〔1994年〕;鹿島町名誉町民(茨城県)〔1994年〕

出典|日外アソシエーツ「現代外国人名録2012」(2012年刊)
(C) 2012 Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ジーコの関連キーワードリオデジャネイロ邪佞リオデジャネイロ宣言リオデジャネイロマラソンサンバ・デ・ジャネイロRIO DE BRAVO!!イパネマ海岸環境と開発に関するリオ・デ・ジャネイロ宣言リオ・デ・ジャネイロ条約リオデジャネイロ:山と海の間のカリオッカの景観

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone

ジーコの関連情報