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ジーコ Zico

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ジーコ
Zico

[生]1953.3.3. リオデジャネイロ
ブラジルのサッカー選手,指導者。本名 Artur Antunes Coimbra。ブラジルの名門クラブ,フラメンゴのエースとして南米王者に輝き,ブラジル代表では 71試合に出場,48得点を上げた。ワールドカップには 1978年から3大会に出場,優勝には届かなかったが,名手の評価を確固とした。引退翌年の 1990年にブラジルの初代スポーツ長官に就任。直後の 1991年5月に,Jリーグ参加が決まっていた日本サッカーリーグ2部の住友金属 (現鹿島アントラーズ) に入団して現役に復帰した。 1993年5月のJリーグ開幕戦で得点するなど初のステージ優勝に貢献し,1994年6月に現役を引退した。 2002~06年日本代表監督。

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百科事典マイペディアの解説

ジーコ

ブラジル出身のサッカー選手,監督。本名アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。ジーコは少年時代からの愛称。リオ・デ・ジャネイロ近郊でポルトガル移民の家庭に生まれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ジーコ
じーこ
Zico
(1953― )

ブラジルのプロサッカー選手、監督。2002年(平成14)7月から2006年6月まで日本代表監督。本名アルツール・アンツネス・コインブラArtur Antunes Coimbra。3月3日、ブラジルのキンチーノ(リオ・デ・ジャネイロ州)生まれ。ワールドカップに三度出場し、最高成績は1978年アルゼンチン大会の3位だが、本領が発揮されたのは1982年スペイン大会であった。ソクラテスSocrates(1954― )、トニーニョ・セレーゾToninho Cerezo(1955― )、ファルカンRoberto Falcao(1953― )と組んだ「黄金の中盤」の中心となり、華麗なサッカーを披露した。二次リーグでイタリアに敗れたが、記録よりも記憶に残るチームであった。1986年メキシコ大会では、準々決勝でプラティニMichel Franois Platini(1955― )が率いるフランスと名勝負を演じながらペナルティー・キック(PK)戦で姿を消した。決定的なラストパスを出し、多くのゴールを決めることから、若いころは「白いペレ」とよばれたが、やがてジーコの名で世界中に知られるようになった。1981年のトヨタカップではフラメンゴ(ブラジル)の主将としてプレーし、イングランドのリバプールを降して優勝した。1991年(平成3)に来日、鹿島アントラーズの発足にあたって大きな役割を果たした。2002年7月、日本代表の監督に就任。2006年に行われたワールドカップドイツ大会に日本を導いたが、本大会ではオーストラリア、クロアチア、ブラジルを相手に2敗1分という結果に終わった。ワールドカップ終了後代表監督を退任、トルコのクラブチーム、フェネルバフチェの監督となるが、2008年に退任した。[西部謙司]

その後の動き

ブニョドコル(ウズベキスタン)、CSKAモスクワ(ロシア)で監督を務めた後、2010年6月にフラメンゴのテクニカル・ディレクターに就任した。[編集部]
『ルイス・アントニオ・高崎著、藤原清美訳『ジーコの挑戦』(1998・エキスプレス) ▽浜田英季監修『ジーコ自伝』(1998・朝日新聞社)』

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現代外国人名録2012の解説

ジーコ
Zico


国籍
ブラジル

専門
サッカー監督;元・サッカー選手

肩書
サッカー・イラク代表監督 サッカー日本代表監督;鹿島アントラーズ・テクニカルディレクター

本名
Arthur Antunes〉 アルツール・アンツネス〈Coimbra コインブラ

生年月日
1953/3/3

出生地
ブラジル リオデジャネイロ州キンチーノ

学歴
ファクルデーダ・カステロ・ブランコ体育大学中退

経歴
“ジーコ”の愛称で呼ばれた少年時代から頭角を現し、1966年フラメンゴに入団。’83年イタリアのウディネーゼを経て、’85年フラメンゴに戻る。’87年膝の再手術後1年ぶりに復帰し、チームをコパ・ウニオン(国内カップ戦)優勝に導いた。ブラジル代表としては、’76年2月対ウルグアイ戦でデビュー。’78年、’82年、’86年と3度のW杯に出場。優勝こそできなかったが、’82年のスペイン大会では生涯最高のプレー(5試合中4得点4アシスト)で世界的な名声を確立。’83年世界年間最優秀選手に選ばれる。完璧な技術、得点力に加え、試合を組み立てる頭脳を兼ね備えたプレーヤーとして“白いペレ”の異名を取った。’89年12月一度引退。通算得点は1046試合で729得点、うちブラジル代表ではペレに次ぐ66得点(89試合)をマークした。’90年ブラジルの初代スポーツ大臣に就任するが、’91年辞任して日本リーグ2部の住友金属(現・Jリーグ鹿島アントラーズ)に入り、現役復帰。この年、21得点で得点王に輝く。’93年Jリーグが開幕すると、チームの牽引者として第1ステージ優勝の立役者となった。’94年6月第2ステージ終了後、現役引退。Jリーグでは23試合に出場し、14得点を挙げた。’95年故郷のリオデジャネイロ近郊にジーコ・サッカー・センターを開き、少年を対象にしたサッカースクールを開校。’96年秋鹿島アントラーズのテクニカルディレクター(総監督)に就任。’97年リオデジャネイロFCを創設。’98年W杯フランス大会ではブラジル代表のテクニカルコーディネーターを務めた。W杯日韓共催大会終了後の2002年7月、日本代表監督に就任。2004年2月よりW杯ドイツ大会のアジア予選を指揮。7月キリンカップで初のタイトルを獲得。8月アジア杯優勝。2005年6月W杯ドイツ大会アジア最終予選でB組2位以内を確保し、3大会連続のW杯出場を決める。2006年6月の本大会では1分け2敗で1次リーグ敗退を喫し、大会終了後に退任。日本代表通算72戦37勝16分け19敗(PK戦は引き分け扱い)。同年7月トルコの強豪フェネルバフチェの監督に就任。2007年広域通信・単位制のウィザス高校(本校・茨城県高萩市)の特別顧問に。同年就任1年目でフェネルバフチェを2シーズンぶり17度目の優勝に導いた。2008年はクラブ史上初めて欧州チャンピオンズリーグで決勝に進出し、ベスト8入りを果たす。同年6月シーズン終了後退任し、9月ウズベキスタン1部リーグのクルブチ監督と、ウズベキスタンサッカー協会テクニカルアドバイザーに。2009年1月ロシアリーグ・CSKAモスクワの監督となり、国内カップ戦など二冠を達成したが、同年8月リーグ戦の不振から解任される。同年9月〜2010年1月ギリシャのオリンピアコス監督。6月フラメンゴのテクニカルディレクター。2011年8月サッカー・イラク代表監督に就任。

受賞
内閣総理大臣顕彰〔1994年〕;鹿島町名誉町民(茨城県)〔1994年〕

出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2012」(2012年刊)現代外国人名録2012について 情報

最新 世界スポーツ人名事典の解説

ジーコ
Zico
サッカー

サッカー監督(アルガラファ) 元・サッカー日本代表監督
生年月日:1953年3月3日
国籍:ブラジル
出生地:リオデジャネイロ州キンチーノ
別名等:本名=Arthur Antunes Coimbra
学歴:ファクルデーダ・カステロ・ブランコ体育大学中退
受賞歴:内閣総理大臣顕彰〔1994年〕;鹿島町名誉町民(茨城県)〔1994年〕
経歴:“ジーコ”の愛称で呼ばれた少年時代から頭角を現し、1966年フラメンゴに入団。’83年イタリアのウディネーゼを経て、’85年フラメンゴに戻る。’87年膝の再手術後1年ぶりに復帰し、チームをコパ・ウニオン(国内カップ戦)優勝に導いた。ブラジル代表としては、’76年2月対ウルグアイ戦でデビュー。’78年、’82年、’86年と3度のW杯に出場。優勝こそできなかったが、’82年のスペイン大会では生涯最高のプレー(5試合中4得点4アシスト)で世界的な名声を確立。’83年世界年間最優秀選手に選ばれる。完璧な技術、得点力に加え、試合を組み立てる頭脳を兼ね備えたプレーヤーとして“白いペレ”の異名を取った。’89年12月一度引退。通算得点は1046試合で729得点、うちブラジル代表ではペレに次ぐ66得点(89試合)をマークした。’90年ブラジルの初代スポーツ大臣に就任するが、’91年辞任して日本リーグ2部の住友金属(現・Jリーグ鹿島アントラーズ)に入り、現役復帰。この年、21得点で得点王に輝く。’93年Jリーグが開幕すると、チームの牽引者として第1ステージ優勝の立役者となった。’94年6月第2ステージ終了後、現役引退。Jリーグでは23試合に出場し、14得点を挙げた。’95年故郷のリオデジャネイロ近郊にジーコ・サッカー・センターを開き、少年を対象にしたサッカースクールを開校。’96年秋鹿島アントラーズのテクニカルディレクター(総監督)に就任。’97年リオデジャネイロFCを創設。’98年W杯フランス大会ではブラジル代表のテクニカルコーディネーターを務めた。W杯日韓共催大会終了後の2002年7月、日本代表監督に就任。2004年2月よりW杯ドイツ大会のアジア予選を指揮。7月キリンカップで初のタイトルを獲得。8月アジア杯優勝。2005年6月W杯ドイツ大会アジア最終予選でB組2位以内を確保し、3大会連続のW杯出場を決める。2006年6月の本大会では1分け2敗で1次リーグ敗退を喫し、大会終了後に退任。日本代表通算72戦37勝16分け19敗(PK戦は引き分け扱い)。同年7月トルコの強豪フェネルバフチェの監督に就任。2007年広域通信・単位制のウィザス高校(本校・茨城県高萩市)の特別顧問に。同年就任1年目でフェネルバフチェを2シーズンぶり17度目の優勝に導いた。2008年はクラブ史上初めて欧州チャンピオンズリーグで決勝に進出し、ベスト8入りを果たす。同年6月シーズン終了後退任し、9月ウズベキスタン1部リーグのブニョドコル監督と、ウズベキスタンサッカー協会テクニカルアドバイザーに。2009年1月ロシアリーグ・CSKAモスクワの監督となり、国内カップ戦など2冠を達成したが、同年8月リーグ戦の不振から解任される。同年9月〜2010年1月ギリシャのオリンピアコス監督。6月フラメンゴのテクニカルディレクター。2011年8月〜2012年11月サッカー・イラク代表監督。2013年8月カタールのアルガラファ監督。

出典 日外アソシエーツ「最新 世界スポーツ人名事典」最新 世界スポーツ人名事典について 情報

367日誕生日大事典の解説

ジーコ

生年月日:1953年3月3日
ブラジルのサッカー監督(フェネルバフチェ);元・サッカー選手

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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