プロ野球選手(投手:右投右打)。5月1日、帝政ロシアのウラルに生まれる。ロシア革命に追われて3歳のとき両親とともに来日。北海道の旭川(あさひかわ)中学3年在学中の1934年(昭和9)秋にアメリカ大リーグ選抜チームが来日し、選ばれて全日本チームの投手となる。その後、全日本チームが東京巨人(現、読売ジャイアンツ)となり巨人選手となる。1936年から投手として活躍。沢村栄治投手の応召(1938)ののちは巨人のエースとして1939年、1940年の両年最高殊勲選手(現、最優秀選手)となった。第二次世界大戦後は6球団に所属し、1955年初の300勝投手となった。同年引退。1957年1月自動車事故で死去。戦時中は須田博と改名させられていた。1939年の1シーズン42勝の記録は、西鉄の稲尾和久(かずひさ)投手が1961年にタイ記録を出したが、通算最多完封記録83はプロ野球記録(2015年時点)である。1984年旭川市は改築した市営野球場を旭川スタルヒン球場として開場した。
[神田順治・森岡 浩 2016年9月16日]
実働19年間の通算成績は、登板試合586、投球回4175と3分の1、303勝176敗、防御率2.09、奪三振1960、完投350、完封83。獲得したおもなタイトルは、最多勝利6回、最高勝率2回、最優秀防御率1回、最多奪三振2回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)2回、ベストナイン1回。1960年(昭和35)に野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部・森岡 浩 2016年9月16日]
『N・スタルヒン著『白球に栄光と夢をのせて』(1979・ベースボール・マガジン社)』▽『N・スタルヒン著『ロシアから来たエース』(1986・PHP研究所)』
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