日本大百科全書(ニッポニカ) 「セラ」の意味・わかりやすい解説
セラ(Richard Serra)
せら
Richard Serra
(1938―2024)
アメリカの彫刻家。サンフランシスコ生まれ。素材感をむき出しにした鉄を使った巨大な作品で知られる。初めはカリフォルニア大学で、後にエール大学の美術・建築学部で絵画を学ぶ。一方で幼少期から親しんでいた鉄工場でのアルバイトに励み、後の鉄の彫刻の制作に必要な知識は、そこで身につけたという。
鉄で巨大な作品をつくること自体がセラの目的ではなかった。そのことは彼の初期の作品を見ればよくわかる。1966年にローマの画廊で開いた最初の個展で、生きたウサギなどの動物を展示している。そしてその後の数年間も、そのつど多様な素材を用いた作品を制作しているのである。たとえばニューヨークに移った1966年から1967年にかけての作品では、ゴムのベルトを使ったり、それとネオン管との組合せを試みたりしている(『ベルト』)。また1968年には火をともしたろうそくを床に並べた作品『キャンドル・ピース』を制作。さらに同年、英語の動詞を羅列したテキストによる作品『動詞のリスト:1967―68年』や、落下してくる鉛の塊を手で掴(つか)もうとするようすをクローズ・アップで収めた映像作品『鉛を掴む手』なども制作している。
その後1969年ごろにかけて、セラの作品にはしだいに鉛や鉄など金属を素材とした作品が増えてくる。だが初めはそれも、薄く伸ばされた鉛の板を巻き取って作品とした『巻かれた35フィートの鉛』(1968)、また壁と床の境目に融かした鉛をまいた『まき散らし』(1969)といったものであった。つまり時間とともに短くなってゆくろうそくや、行為や動作を表す動詞、あるいは鉛を掴もうとすることと同じように、できあがったものよりも巻き取る、まき散らすなどの行為、あるいは制作の過程が重視され、セラはプロセス・アートの作家と位置づけられた。
しかしセラの名を有名にしたのは、鉄による彫刻作品、それも未加工の巨大な鉄の板や塊を、彫刻のスケールを超えて置くそれである。1974年の『観測地点』は、屋外に高さ40フィート(約12メートル)、幅10フィートの鉄板を3枚、互いにもたせかけて立てただけの巨大な塔のような作品であった。また屋内の作品でも、広い部屋の床と天上に10フィート×26フィートの鉄板を1枚ずつ、互いに90度回転させて貼りつける『縁取るもの』(1974~1975)のような作品が制作される。この二つはどちらも、彫刻のように見るべき物体が一つ眼前にある、といったものではない。いわば鑑賞者もそのなかに含む「環境」を、まるごと一つつくり上げたのである。
美術批評家ロザリンド・クラウスは、こうしたセラの作品について、鑑賞者はけっしてその安定した全体像を得ることができず、自身の視覚が分裂してゆくのを経験するだろう(90度ひねって置かれた巨大な2枚の鉄板に、観客になったつもりで上下から挟まれる体験を想像してみよう)、と論じている。セラはまた、そうした作品の制作にあたってスケッチをおこすことはなく、まず小さな板などの部品をいくつか用意し、それを砂を敷いたところであれこれと組み立てることで、作品の構想を練るといった。つまりここでもセラが関心を寄せていたのは、完成した作品の全体像よりも、それが組み立てられる過程なのである。
こうした巨大なスケールを伴うセラの作品が、とりわけ公共の場に置かれるとき、それは議論の的となった。ニューヨークの連邦ビル前広場に設置された作品『傾いた弧』(1981)は、巨大な1枚の鉄板をかすかにカーブさせて置くことで、広場の風景を一変させるという作品であったが、歩行者の安全と美観の問題から1989年に撤去された。このとき巻き起こった作品の存続をめぐる激しい論争は、公共の利益と芸術家の表現の両立(あるいは対立)について考えるうえで、重要なモデルとなった。
[林 卓行]
セラ(Camilo José Cela)
せら
Camilo José Cela
(1916―2002)
スペインの小説家。ガリシア地方に生まれる。内戦終結後『パスクアル・ドゥアルテの家族』(1942)によって華々しく文壇にデビュー。死刑囚の告白の形式をとり、スペイン社会の腐敗を鋭く批判し、人間の存在価値を問う作品で、沈滞したスペイン文学をよみがえらせ、戦後文学の原点と目される。さらに、『ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴』(1944)、スペイン戦後社会派小説の嚆矢(こうし)とされる『蜂(はち)の巣』(1951)、流麗なスペイン語を駆使した紀行文『ラ・アルカリアへの旅』(1948)などを発表し、文壇の第一人者の地位を固める。その後『1936年聖カミロの祝日』(1969)では、内戦直後のマドリードの混沌(こんとん)とした社会と人間像を描く。当代一流の文章家としても知られ、人間性への深い洞察力と持ち前の鋭い風刺性は、ピカレスク小説(悪漢小説)やケベトの作品などのスペイン文学の豊かな伝統を思わせる。晩年に入っても旺盛な創作意欲は衰えをみせず、『二人の死者のためのマズルカ』(1983)では、自伝的要素を織り込み、故郷ガリシアの辺鄙(へんぴ)な村を舞台に、対立する2部族間の争いを通して、暴力、セックス、死などに彩られた原初的な人間の生々しい生きざまを描き、さらには『キリスト対アリゾナ』(1988)、『聖アンドレスの十字架』(1994)を経て、最終作『ツゲの木』(1999)では、やはりガリシアを舞台に、大西洋に面した最西端の漁村を舞台に、藪(やぶ)医者、魔法使い、漁師、田舎司祭などが登場する、幻想と神秘に包まれた世界を現出している。ほかに『サッカーと11の寓話(ぐうわ)』(1963)、『愚者列伝』(1976)、『家族の思い出』(1999)などの作品がある。創作活動のほか、1956年文芸誌『アルマダンス亭草紙』Papeles de Son Armadansを創刊し、評論、随筆でも健筆を振るった。89年ノーベル文学賞受賞。スペイン王立アカデミー会員。
[東谷穎人]
『会田由・野々山真輝帆訳『蜂の巣』(1989・白水社)』▽『有本紀明訳『パスクアル・ドゥアルテの家族』(1989・講談社)』▽『有本紀明訳『ラ・アルカリアへの旅』(1991・講談社)』▽『有本紀明訳『ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴』(1992・講談社)』▽『有本紀明訳『二人の死者のためのマズルカ』(1998・講談社)』▽『野谷文昭・星野智幸訳『サッカーと11の寓話』(1997・朝日新聞社)』
セラ(Junípero Serra)
せら
Junípero Serra
(1713―1784)
スペインのフランシスコ会士、宣教師。本名ミゲル・ホセMiguel José。マジョルカ島に生まれ、1730年フランシスコ会に入り、1749年メキシコシティに赴き、インディオに布教。ケレータロのシエラ・ゴルダで1758年まで8年間伝道事業に従事し、のち1767年までメキシコ中南部で巡回宣教師を務め、イエズス会士の追放後、1768~69年バハ(低)・カリフォルニア地方の教団の責任者となる。このころ、バハ・カリフォルニア地方を踏査中の巡察官ホセ・デ・ガルベスの植民活動に参画し、1769年サン・ディエゴ伝道区を設立した。そのほか、モンテレーのサン・カルロス(1770)、ロス・アンヘルス(後のロサンゼルス)近くのサン・ガブリエル、またサン・アントニオ(1771)、サン・ルイス・オビスポ(1772)、サンフランシスコ、サン・フアン・カピストラーノ(1776)、サン・ホセ、サンタ・クララ(1777)、サンタ・バルバラ(サンタ・バーバラ、1782)など多くの伝道区を設立。また、メキシコから家畜、穀物、果実などを導入してカリフォルニアの植民にも貢献、1823年に至る「伝道の時代」を開いた。
[飯塚一郎]