ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「悪者小説」の解説
悪者小説
わるものしょうせつ
novela picaresca; picaresque novel
最初の悪者小説はスペインの『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』 (1554) で,貧しいラサロ少年が,偽善の仮面の陰にいかがわしさを隠している7人の商人と聖職者のもとを転々とする物語である。この作品は不遜な機知が受けて,当時非常に幅広く読まれた。次に出版された悪者小説はこのジャンルの原型となった M.アレマンの『グスマン・デ・アルファラチェ』 (99) で,写実主義がスペイン小説の主流となるきっかけの一つになった。破産したジェノバの金貸しの息子の自伝という形式をとるこの作品は,創造性に富み,エピソードも多彩で,『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』よりも人物がよく描かれている。この作品も驚異的な人気を集めた。『グスマン・デ・アルファラチェ』に続いて現れた多くの短編小説のなかには,M.デ・セルバンテスによる悪者小説風の短編小説『リンコネーテとコルタディーリョ』 (1613) と『犬たちの対話』 (13) がある。 F.L.デ・ウベダの『悪女フスティーナ』 (1605) は,ピカロが主人をだますように,女ピカロが恋人をだます話である。 F.G.デ・ケベド・イ・ビリエガスの『ぺてん師の生涯』 (26) はこのジャンルの代表作で,ぺてん師の心理描写の卓抜な手法と相まって,その背後には道徳的価値に対する深い関心がうかがわれる。この作品ののち,スペインの悪者小説は次第に衰退し,冒険小説にその座を譲った。
16世紀後半に『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』がフランス語,オランダ語,英語に翻訳されると,ピカロはほかのヨーロッパ諸国の文学に進出した。イギリスにおける最初の悪者小説は T.ナッシュの『不運な旅人』 (1594) である。ドイツでは H.J.C.フォン・グリンメルスハウゼンの『ジンプリチシムス (阿呆物語) 』 (1669) が代表作である。イギリスでは D.デフォーの『モル・フランダーズ』 (1722) で女ピカロが復活した。 H.フィールディングの『ジョーゼフ・アンドルーズ』 (42) ,『大盗ジョナサン・ワイルド伝』 (43) ,『トム・ジョーンズ』 (49) ,T.G.スモレットの『ロデリック・ランダム』 (48) ,『ペリグリン・ピクルの冒険』 (51) にも悪者小説の要素がみられる。フランスでは,A.R.ル・サージュの『ジル・ブラス物語』 (1715~35) がある。この作品は当初の悪者小説のようにスペインを舞台に,忘れられてしまったスペインの小説から挿話を借用しているが,描かれているピカロはより紳士的で人間的である。
18世紀中頃になると,堅牢で複雑なプロットをもつ写実主義小説が台頭し,悪者小説はいくぶん芸術的に劣るとされて,完全な衰退に向った。けれども悪者小説の特徴である,あらゆる階層の人物が登場するところから生れる風刺,職人や商人のいきいきとした描写,真実味あふれる言葉と細部,態度や道徳に関する皮肉で超然とした観察は,18~19世紀における写実主義小説の発展に寄与した。円熟した写実主義小説のなかにも悪者小説の要素が再び現れているものがある。その例としては,N.ゴーゴリの『死せる魂』 (1842~52) ,M.トウェーンの『ハックルベリー・フィンの冒険』 (84) ,T.マンの『詐欺師フェーリックス・クルルの告白』 (1954) があげられる。
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