コロンブスが新大陸に到着したとき,彼はインディアスに着いたと考え,その先住民をインディオとよんだ。その後,先住民全体を指すにはインディオでなく,英語形のインディアンが使われるようになった。以来,インディオはラテン・アメリカに住む先住民族を指す言葉となり,そのうちに社会的な分類の概念ともなった。1960年代から,この用語には差別的ニュアンスが含まれていると判断され,インディヘナindígenaという語が新たに用いられるようになった。インディオ(インディヘナ)は外来の白色系の人間の対極をなし,その中間に各種のメスティソ(混血)が配列される。インディオの起源については,それ以外のアメリカ・インディアンと同じく,東アジア,特にシベリア方面から前1万数千年前に海面低下によって陸橋(ベーリンジア)となっていたベーリング海峡を渡ってきたと考えられる。年代については推測の部分が大きく,諸説がある。
→アメリカ大陸先住民
執筆者:黒田 悦子+多賀谷 昭渡来以来各地に分散した人々はさまざまな生活様式を築いたが,ヨーロッパ人との接触時における先住民の社会は,社会・政治統合のレベルにより三つに大別される。第1は,バンド(群)レベルの,遊牧狩猟民,採集民,漁労民の社会であった。もともとは広く分布していたが,接触時にはラテン・アメリカの周辺部,特にアルゼンチン,チリ南部,グラン・チャコ,ブラジル東海岸の一部,メキシコ北部に残存していた。第2は農業に依存する社会で三つのタイプがあった。(1)農業を開始してまもない社会で,ブラジルやグラン・チャコの一部に存在した。(2)農業に従事し,部族レベルの政治的統合に達した社会で,ブラジルの大部分,コロンビア低地,ベネズエラ,ホンジュラス,ニカラグアの一部,南アメリカ大陸北岸沿いのカリブ海諸島に分布した。(3)首長制レベルに達した社会で,パナマ,コスタリカ低地,コロンビアとベネズエラの大部分,カリブ海の大きな島々にみられた。第3は王国レベルの社会で,メソアメリカのアステカとマヤ,アンデスのインカにのみ発達した。
ヨーロッパ社会との接触により,先住民社会の人口は急速に減少した。接触期にラテン・アメリカ全体で3000万ほどの人口が,50年の間に500万ほどに減ったといわれる。しかし,この数は推定の域を出ない。戦闘よりも旧大陸から征服者や入植者が持ちこんだ天然痘,チフス,はしか,インフルエンザ,梅毒がおもな原因で人口が激減した。特に政治的統合レベルの低い社会のうけた衝撃は大きく,カリブ海では先住民人口は消滅に近くなり,チリ南部の狩猟漁労民のチョノ,アラカルフ,ヤガン,フエゴ島のオナはほとんど絶滅した。アルゼンチンやウルグアイの採集狩猟民も消滅に近くなったが,パタゴニア,アルゼンチンのパンパ,パラグアイのチャコ平原ではトゥピ・グアラニー文化と白人文化が融合し,独特のガウチョ文化が生成した。先住民人口が16~17世紀における激減をこうむりつつも,生存しつづけ,現在まで大規模に残存しえたのはメソアメリカとアンデスであった。
植民地時代には,スペイン政府の採った先住民保護の原則のおかげで,法的には先住民はスペイン人に次ぐ位置を与えられたが,社会・経済的には各種のメスティソ(混血)や黒人奴隷よりも下位にあった。メキシコのカシケ,アンデスのクラカ等,先住民社会の指導者で植民勢力と先住民社会の仲介者となった者は,それ相応の社会的地位と特権を享受したが,18世紀にはほとんど没落した。植民地時代の初期にはエンコミエンダ制が導入され,先住民は強制労働と租税に苦しんだ。エンコメンデロの勢力と王室の利害が対立しはじめ,早くも16世紀の中ごろに強制労働の制限とエンコメンデロの特権の削減が試みられたが,先住民社会の搾取はやまなかった。その後,エンコミエンダ制の弊害を是正するため,コレヒドール制がしかれたが,先住民社会の疲弊は改善されなかった。
1821年の独立後には自由主義経済が導入され,先住民社会では共有地を失うものが多く,その生活は植民地時代よりもきびしい状況になったと判断されている。植民地時代と19世紀に先住民の反乱は頻繁に起こっており,おもなものを挙げると,メキシコではミシュトン戦争(1538-41),チェルタル・ツォツィルの反乱(1712),ユカタン半島のカスタ戦争(1847-53),チャムラの反乱(1869)等と数多い。グアテマラではトトニカパンの反乱(1820)があげられる。アンデスではマンコ・インカの反乱(1536-37),ビルカバンバの反乱(1537-52)や,フアン・サントスの反乱(1742),トゥパック・アマルーの反乱(1780)等があった。反乱の大部分は千年王国運動で,具体的計画と政策に欠け成功しなかった。これら先住民の反乱は19世紀から20世紀へつづく農民の反乱,ついで国民レベルの革命(例えば1910年のメキシコ革命)へと止揚されていったといえよう。この止揚の過程は先住民がメスティソ化し,さらに国民となる動きと同時進行している。1821年のスペインからの独立後採用された自由主義経済は先住民社会の経済的基盤をゆるがし,その共同体の解体をすすめた。多くの先住民は土地のない農民に転落し,一部の人々は徐々に国民意識を備えたメスティソとなっていったからである。
現在のラテン・アメリカの先住民人口は3000万ほどとされており,その8割は核アメリカ(メソアメリカとアンデス)に居住している。メソアメリカではメキシコ南部とグアテマラ,アンデスではエクアドル高地,ペルー高地,ボリビアに集中しており,結局,先コロンブス期に王国レベルの政治統合をとげた地域に集中している。それ以外の地域では先住民は部族的な小集団をなしており(アマゾンのヤノアマ,シャバンテ等),居留地に住む集団もある(チリのマプチェ,コスタリカのタマランカ等)。先住民人口が各国の総人口に占める率は正確にいいがたい。統計に一定のバイアスがあるうえ,誰を先住民と登録するかという指標に差があるからである。先住民をメスティソから区別するのは本質的には社会的・文化的アイデンティティの差であり,人種差ではないからである。そのうえ,近年は都市に住む先住民が増え,民族分類は簡単にできなくなっている。
現在の先住民人口の大部分が住むメソアメリカとアンデスの先住民社会と文化の〈伝統的〉とみなされてきた一般的特徴をあえて要約すると次のようである。まず,独特の言語,例えばマヤ,ケチュア,アイマラ語等を話す。経済生活としては,農業に加えて牧畜(アンデス高地の場合)やいろいろな工芸活動に従事し,村々は地域の市場網につながっている。自給自足は不可能で,現金を求めてプランテーションへの出稼ぎが恒常化している村も多い。また最近は,村落から都市へ出稼ぎに行ったり,移住する人口が多い。衣装には土着の衣装(例えば,貫頭衣であるウイピル)の装飾にいたるまで,予想外に多くのヨーロッパの衣装の影響がみられる。男子衣装に17世紀の歩兵服の影響が大きいことはよく知られている。食生活では,トウモロコシ,フリホル豆,ジャガイモ,トウガラシ等を中心としながら,メスティソ料理も入っている。村の構造には教会,役場,市場を中心におくプラサ型式が採用されている。双系親族組織に加えてカトリックのコンパドラスゴ(秘跡の際に選ばれる代親)の人間関係がある。村の行政・宗教組織はカルゴとかアウトリダッドとよばれる各種の役職で構成されている。この組織は征服前の社会の階層的役職組織にカトリックの教区組織が接木されたもので,19世紀から20世紀にかけて多くの変容をこうむりながらも,基本的には植民地時代の遺風として残っている。宗教儀礼には土着の儀礼も色濃く残存しているが,カトリックの儀礼の大枠は広くゆき渡っている。
上記の特徴を検討すれば明らかなように,先住民社会はメスティソ社会とまったく異質の存在ではなく,社会・文化的には両者は共通の構造の上に立っている。そのため,先住民からメスティソへの移行はかなり容易であり,年ごとに先住民人口の何%かはメスティソ化している。したがって,ラテン・アメリカの先住民問題は北アメリカの民族集団につきまとう人種問題とは異なり,きわめて経済的・社会的・文化的問題なのである。1940年代以降,メキシコ,ペルー,その他の国々で官製インディヘニスモ(先住民復権運動)の政策が積極的に推進されてきたが,先住民人口の国民国家への同化・吸収のための政策と堕してしまった。
1960年代末から従来の国策への批判が高まり,先住民参加のインディヘニスモ政策も部分的に採られたが,70~90年代のさまざまな危機にさらされた先住民を救えなかった。国家とアメリカ合衆国の介入による民族の分断(1980年代のニカラグアのミスキート),土地の収奪と人権侵害(1970~80年代のグアテマラのマヤ),生活を根こそぎにするダム建設(メキシコのチナンテコをおびやかした1972年のセロ・デ・オロのダム計画,88年のブラジルのカヤポによるアルタミラ・ダム計画の中止),農業の不振,市場経済の急激な浸透,出稼ぎと移住の増加(メキシコのミシュテコのアメリカ合衆国やカナダへの進出など),福音主義(エバンジェリカル)と聖霊派(ペンテコスタル)のプロテスタント諸分派の進出など,さまざまな問題が先住民社会に押し寄せている。そこで,国内外のNGO,解放の神学,環境保護運動の援助を得て,インディアニスモ(自決権を求める先住民運動)を志す組織が各民族に興り,全国的・国際的ネットワークを結びつつある。94年1月1日,北米自由貿易協定(NAFTA)の発効を機に,メキシコのチアパス州で始まったサパティスタ国民解放軍の決起はこの動向に弾みをつけた。しかし,各国家と先住民組織との交渉は難航し,予断を許さない。
→アメリカ・インディアン →インディヘニスモ →メスティソ
執筆者:黒田 悦子
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スペイン語、ポルトガル語でアメリカ大陸の先住民をさす名称。英語ではインディアンIndianである。インド人と区別するためアメリンディオAmerindio(スペイン語)、アメリカ・インディアンAmerican Indiansという名称を用いる場合もある。日本では、北アメリカ先住民をインディアン、中央・南アメリカ先住民をインディオと区別して使う場合が多い。これらの名称が生まれた原因は、コロンブスがアメリカ大陸に到達したとき、そこをインディアス(当時は東アジア全体をさした)と誤解したことにある。アメリカ大陸の先住民は、インディアスの住民=インディオとよばれることとなった。
征服当時のインディオの子孫であり、移住者と混血していないアメリカ大陸の住人を、現在ではインディオとよぶのだが、一般的にはメスティソmestizo(スペイン語)、中央アメリカではラディノladino(スペイン語)、南アメリカのアンデス地方ではチョロcholo(スペイン語)またはミスティmistiとよばれる混血と、インディオとの区別は、生物学的に混血しているかという人種区分とはかならずしも一致しない。たとえば中央アンデスでは、実際には混血していなくてもインディオ固有の生活様式を捨ててしまい、従来の居住地から移動した者はもはやインディオではなく、チョロやミスティとよばれるようになる。実際の混血の有無よりも、外来の文化に同化しているか否かという点のほうが、インディオとチョロ、ミスティを分ける決定的基準としてより重要である。
インディオという用語にはしばしば価値判断が含まれている。アマゾンの先住民に対してときどき使われ、野蛮人を意味するバルバロbarbaro(スペイン語)やサルバヘsalvaje(スペイン語)よりはよいかもしれないが、インディオにもしばしば侮蔑(ぶべつ)的な響きが付きまとう。文化の遅れている者という意味合いが込められているのであり、相手に面と向かってインディオとよぶことは非常な侮辱となる場合がある。このような価値判断を避けるために、都市に住んでないという意味でカンペシーノcampesino(スペイン語)、旧来の住人という意味でインディヘナindígena(スペイン語)またはナティーボnativo(スペイン語)とよぶことが多くなった。メキシコのようにインディオの民族意識の高まっている所では、インディオである誇りを前面に出す場合もあるが、自らがインディオであることを隠そうとする場合もあり、インディオと国家社会の関係は大きな問題であり続けている。
[木村秀雄]
「ラテンアメリカインディアン」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
インディオまたはインディアンは,インディアスの住民というのが本来の意味で,アメリカ大陸だけでなく,スペイン語では広くアジアの住民に対して用いられた。英語でもオーストラリアやニュージーランドの住民も初めインディアンと呼ばれた。やがて時とともに,アメリカ大陸の先住民とインドの住民に限定して用いられるようになった。軽蔑的なニュアンスがあるので,現在ではあまり用いられない。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…合衆国の有色人種の割合は,混血のために増加の一途をたどるはずであるのに,統計的にほぼ10%のままである一つの理由はパッシングにあると思われる。 一方,メキシコ,グアテマラ,ペルーのようなインディオindio人口が多く,かつ先史時代文明が高度に発達した諸国では,社会的人種と呼ぶべき人種概念がある。これらの国では土着のインディオ人口が白人blancoの人口を上回っているが,ラディノladino(中米),チョロcholo(アンデス)と呼ばれる両者の間の混血が全人口の50%に達している。…
…人類学上はエスキモーとアレウト族を除く諸民族のことをいうが,一般には含める場合もある。そのなかで,北アメリカの原住民をアメリカ・インディアン,中南米の原住民をインディオと呼ぶのが日本では普通である。インディオという呼称は,新大陸を発見したコロンブスが,そこをインディアスと信じ,スペイン国王への報告書に原住民のことをインディオと書いたことに由来する。…
…梁材は貴重で繰り返し使用され,部屋のスパンより長い部分は外壁から突出し,独特な外観を形づくる。
[中南米の離散型集落]
中南米のインディオの集落形態として特徴的なのは離散型である。離散型とは,集落に中心や境界がなく,かつ住居が一定間隔で広域的に分布する形態を言い,中央アメリカのメキシコ高原からグアテマラ高地にかけての地域や,南アメリカのアンデス山中に広く分布する。…
…合衆国の有色人種の割合は,混血のために増加の一途をたどるはずであるのに,統計的にほぼ10%のままである一つの理由はパッシングにあると思われる。 一方,メキシコ,グアテマラ,ペルーのようなインディオindio人口が多く,かつ先史時代文明が高度に発達した諸国では,社会的人種と呼ぶべき人種概念がある。これらの国では土着のインディオ人口が白人blancoの人口を上回っているが,ラディノladino(中米),チョロcholo(アンデス)と呼ばれる両者の間の混血が全人口の50%に達している。…
… 15世紀以来,アフリカ西岸に拠点を築いたポルトガルは,この地で得た黒人を奴隷として使うようになった。しかし,スペイン領新世界で鉱山労働などに使役されたインディオが,重労働と伝染病などのために激減し,またラス・カサスがインディオ保護の論陣を張ったために,インディオに代わる労働力として黒人奴隷が求められた。そのうえ,はじめはポルトガル領のブラジルで,ついで西インド諸島で砂糖プランテーションが開かれたことなどが重なって,16世紀後半以後黒人奴隷の需要が急増した。…
…ブラジル植民地時代(16,17世紀)に内陸部のインディオを捕らえ,貴金属,宝石を探査することを目的として組織,派遣された公的,私的な遠征隊とその事業をいう。エントラーダentradaともいい,その参加者をバンデイランテbandeiranteという。…
…これは国土の10分の6を占めるが,人口は少なく,開発も遅れている。
【社会】
ペルー社会は征服,植民地化の歴史を反映して,先住民(インディオ),白人(クリオーリョ),および両者の混血(メスティソ)により構成されている。ただし人種的な意味で純粋な先住民は,モンタニャに居住するアラワク語系,パノ語系その他の諸族を別にすれば,ほとんどかあるいはまったく存在しない。…
※「インディオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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